第5話 場違いな若者たち
橘木家の居間に、沈黙が落ちていた。
昨日の夜と同じ部屋だった。
広く、整いすぎていて、人の暮らす場所というより、古い家柄の体裁だけを磨き上げた標本箱のように見える。
ただ、そこにいる顔ぶれは、昨日とは違っていた。
上座に恒一。
その少し下に雅臣。
芙美香は顔色を失ったまま、膝の上で指を握りしめている。
彰人は居間の端に座り、退屈そうに膝を崩していた。
昨日の言い争いなど、もう自分とは関係ないとでも言いたげな顔だった。
佐伯は医師の顔を崩さず、しかし目だけは、客人たちを測っていた。
直哉は入口に近い位置に立っていた。
昨夜と同じ場所。
けれど、背筋のこわばりだけが違っていた。
そして、その向かい側に。
灯紗希。
常盤恭介。
相馬レン。
歌留多。
喫茶店〈灯〉から来た四人が、橘木家の居間に並んでいた。
「……で、この方々が件の」
佐伯は、言葉を選ぶように一度そこで区切った。
「柊さんが連れてきた、“詳しい筋の人たち”ということで?」
視線は紗希たちの上を順に滑っていく。
制服を見れば一目でわかる通りの、高校生の少女。黒いミディアムヘアの毛先が、少し跳ねている。
血の気の薄い顔をした、人相の悪い青年。その視線はどこか焦点があっておらず、人を寄せ付けない雰囲気があった。
長髪茶髪の、軽薄そうな男。人のよさそうな雰囲気を演出してはいるものの、時折周囲のものを険しく警戒しているような表情を見せていた。
そして、深いフードを被った年端もいかない少女。小、中学生くらいのあどけない風貌であったが、何故か一行の中で一番偉そうなそぶりを欠かさない。
そんな彼らを見て、佐伯の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「随分お若い方々を、これはまた」
皮肉というには丁寧すぎる。
だが、歓迎している声でもなかった。
「だいたい、お話は直哉さんからお聞きしました」
紗希が静かに言った。
その声に、居間の空気がわずかに向き直る。
「志乃さんは、庭で根を跨ぎ、右半身から樹木へ溶け込むように変質した。……ここまでで、間違いはありますか?」
淡々としていた。
余計な同情も、驚きも、恐怖も混ぜない声だった。
芙美香が、膝の上の指をぎゅっと握る。
「……間違い、ありませんわ」
「少なくとも、通常の外傷や疾病では説明できません」
佐伯が続ける。
「医者として、そう判断しています」
レンが、そこで少しだけ目を細めた。
「医者として?」
「ええ。医者として、です」
佐伯は、それ以上を言わなかった。
レンも、笑みを崩さない。
だが、目の奥だけが少し冷えた。
「まあ、俺はこう見えても、直哉の昔の“同僚”でしてね。……お聞きした範囲で考えれば、少しはお役に立ちますぜ?」
「……なるほど、同僚」
佐伯の返答は短かった。
そして目を背けるように、視線を落とした。
その仕草に、レンの視線が一瞬だけ引っかかる。
だが、今はそこを掘る場面ではないと判断したのか、軽く肩をすくめるだけに留めた。
「まあね。昔の話ですけど」
「では、医療の外側の話というわけですか」
「医療で片づくなら、俺たちは呼ばれてませんよ」
レンの返答に、佐伯は何も言わなかった。
「それに、三年前の大桜の件もある」
レンが、障子の向こうへ目をやった。
「……大桜が、何か」
雅臣が眉をひそめる。
「表向きは、老朽化による伐採だったんだろ」
「ええ」
雅臣は短く答えた。
「少なくとも、私たちはそう聞かされています。事実、いつ倒壊してもおかしくない程度には衰弱していましたからね」
「けど、こっち側の記録じゃ少し違う」
レンの声から、軽さが薄れる。
「怪異化した大木の処理案件。八重って子の失踪と結びつけられて、一度はそれで終わったことになってる」
直哉の表情が、わずかに強張った。
「……当時、自分にはそう説明されました」
「んで、そっからが本題だ」
冗談めかした口調ではあったが、レンは笑わなかった。
「“あの桜の大木が妖樹みてえになって、少女をさらった”。そういう証言があったことになってる」
紗希の指先が、かすかに動いた。
「証言……」
「ああ。だが、誰がそう言ったのかが出てこねえ。証言者の名前も、記録の出どころも曖昧だ。どこを辿っても、そこだけ薄い」
レンは、佐伯と恒一の方を一度だけ見た。
「そもそも、そんな話に、はいそうですかって乗っかって大木を処理してるのも不自然だ。こっち側の人間は、そこまで素直じゃない」
居間の空気が、また少し冷える。
「つまり」
紗希が、静かに言った。
「三年前、誰かが“そういうことにした”可能性がある、ということですか」
レンは、すぐには答えなかった。
「可能性の話だ」
「……私たちには」
紗希の声は、ひどく静かだった。
「そんな話、一度も届いていません」
直哉は、何も言えなかった。
レンは、少し気まずそうに沈黙を落とす。
「八重は、ただ行方不明になったことになっていました。神隠しだとか、家出だとか、そういう噂ばかりが残って」
紗希は、障子の向こうを見た。
「でも裏では、怪異化した大桜が原因として処理されていた」
一拍。
「それで、終わったことにされていたんですね」
誰も、すぐには返事をしなかった。
紗希は笑わなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、顔から余計な表情が消えていた。
「……分かりました」
声だけが、やけに冷たく落ちた。
一拍ののち、冷えた沈黙に耐えかねたように、芙美香が声をかけた。
「……灯さん」
小さな声だった。
紗希はそちらへ顔を向ける。
そして、場に合わせるように薄く笑った。
「お久しぶりです、橘木さん」
愛想笑いだった。
柔らかく、当たり障りなく、相手を不安にさせないための顔。
けれど、その笑みに、芙美香の指先が小さく強張る。
「……八重が、あなたのことを気にしていました」
それだけ言って、芙美香は目を伏せた。
紗希は、少しだけ間を置く。
「……そうですか」
踏み込まない。
踏み込めないのではなく、今は踏み込むべきではないと判断した声だった。
居間の端で、彰人が笑っていた。
話を聞いている顔ではない。
紗希が何を見るのか。
何に気づくのか。
それを待っている顔だった。
紗希は、その視線に気づいた。
すぐに反応はしない。
ただ、彰人の顔を見て、それから胸元へ目を落とす。
ワイシャツの中央。
第五ボタンが取れていた。
「……おや。そこのお兄さん、ボタン、取れていますよ」
何気ない一言だった。
だが、居間の空気がわずかに止まった。
彰人の口元が、ゆっくり歪む。
「へえ。よく気づいてくれたね、ありがとうよ」
そう言って紗希を見る。
目だけが、奇妙に楽しそうだった。
「観察力が鋭いのはいい。いいことだ。……すごくね」
「兄さん」
芙美香が低く呼ぶ。
彰人は肩をすくめた。
「別に。褒めてるだけだよ」
紗希は何も返さなかった。
ただ、ほんのわずかに目を細める。
その横で、恭介だけが挨拶もそこそこに障子の向こうを見ていた。
「……変な匂いだな」
居間の空気が、また少し悪くなる。
佐伯が眉をひそめた。
「匂い?」
「人が死んだ匂いじゃねえ」
恭介は、障子の向こうから視線を外さない。
「なんか、混ざってる」
「先輩、初対面です」
紗希が静かに言う。
「初対面でも臭ぇもんは臭ぇ」
その時、歌留多が障子の向こうを見たまま、ぽつりと言った。
「そうだな。少なくとも、“人が普通に死んだ匂い”じゃない」
居間の空気が、わずかに止まる。
歌留多は気にしない。
深く被ったフードの影の奥で、灰金の瞳だけが庭を見ていた。
「殺された、というより。変換されてる」
「……変換?」
佐伯が眉を寄せる。
「桜ってのは、そういう植物だろ」
歌留多は当然のように言った。
「春を彩る。春に役目を与える。咲いて、散って、地面へ跡を残す」
「だから、足りなくなれば増やす。人も、黒も、近くにあるものを材料にして、同じものを作る」
言葉の意味より先に、その口調の方が異様だった。
年端もいかない少女が、花の話をしている。
けれどそれは、庭を愛でる言葉ではなかった。
人間が樹へ変わることを、料理や剪定の手順でも語るような声だった。
「常識だろ?」
フードに落ちた影の奥から、歌留多の瞳だけが覗く。
一瞬、居間が静まり返った。
「あっ、あははは!」
それを破ったのはレンだった。
「すいやせん、すいやせん。ちょっとこの子、そういう文学的な趣味がある子でしてね!」
「おい」
歌留多がレンを見る。
「人を電波扱いするな」
「今のはだいぶ電波寄りだったぞ、歌留多の嬢ちゃん」
歌留多は不満げに鼻を鳴らした。
それから、気を取り直したように障子の方へ向き直る。
「ふん、仕方ない。ここは天才の私が、直々に調査をしてやろう」
得意げにそう言って、歌留多は障子へ歩いていく。
深いフードの影の奥で、灰金の瞳だけが庭の若木を見ていた。
障子を開ける。
外の湿った空気が、細く居間へ入り込んだ。
歌留多が縁側へ出る。
そこから庭へ降りようと、片足を前へ出した。
足元には、細い根が一本、石畳の間を走っている。
「待ってください!」
芙美香の声が、思ったより鋭く響いた。
歌留多の足が止まる。
「なんだ?」
芙美香は、自分でも声を上げたことに驚いたような顔をしていた。
けれど、すぐに視線を落とす。
「根を、踏み越えないでください」
紗希が、歌留多の足元を見た。
「踏み越えない?」
「……はい」
芙美香の声は、かすかに震えていた。
「我が家では、そういう仕来たりがございますので」
誰も、すぐには口を開かなかった。
根は、ただそこにあるだけだった。
風に揺れているわけでもない。
伸びてくるわけでもない。
けれど芙美香の声は、ただの注意ではなかった。
「……仕来たり、ですか」
紗希が小さく繰り返す。
庭の細い根が、風もないのに、ほんのわずかに揺れた気がした。




