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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第3章 五と三と、紗希の傷
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第5話 場違いな若者たち

 橘木家の居間に、沈黙が落ちていた。


 昨日の夜と同じ部屋だった。

 広く、整いすぎていて、人の暮らす場所というより、古い家柄の体裁だけを磨き上げた標本箱のように見える。


 ただ、そこにいる顔ぶれは、昨日とは違っていた。


 上座に恒一。

 その少し下に雅臣。

 芙美香は顔色を失ったまま、膝の上で指を握りしめている。

 彰人は居間の端に座り、退屈そうに膝を崩していた。

 昨日の言い争いなど、もう自分とは関係ないとでも言いたげな顔だった。


 佐伯は医師の顔を崩さず、しかし目だけは、客人たちを測っていた。


 直哉は入口に近い位置に立っていた。

 昨夜と同じ場所。

 けれど、背筋のこわばりだけが違っていた。


 そして、その向かい側に。


 灯紗希。

 常盤恭介。

 相馬レン。

 歌留多。


 喫茶店〈灯〉から来た四人が、橘木家の居間に並んでいた。


「……で、この方々が件の」


 佐伯は、言葉を選ぶように一度そこで区切った。


「柊さんが連れてきた、“詳しい筋の人たち”ということで?」


 視線は紗希たちの上を順に滑っていく。

 制服を見れば一目でわかる通りの、高校生の少女。黒いミディアムヘアの毛先が、少し跳ねている。

 血の気の薄い顔をした、人相の悪い青年。その視線はどこか焦点があっておらず、人を寄せ付けない雰囲気があった。

 長髪茶髪の、軽薄そうな男。人のよさそうな雰囲気を演出してはいるものの、時折周囲のものを険しく警戒しているような表情を見せていた。

 そして、深いフードを被った年端もいかない少女。小、中学生くらいのあどけない風貌であったが、何故か一行の中で一番偉そうなそぶりを欠かさない。


 そんな彼らを見て、佐伯の眉が、ほんの少しだけ動いた。


「随分お若い方々を、これはまた」


 皮肉というには丁寧すぎる。

 だが、歓迎している声でもなかった。


「だいたい、お話は直哉さんからお聞きしました」


 紗希が静かに言った。


 その声に、居間の空気がわずかに向き直る。


「志乃さんは、庭で根を跨ぎ、右半身から樹木へ溶け込むように変質した。……ここまでで、間違いはありますか?」


 淡々としていた。

 余計な同情も、驚きも、恐怖も混ぜない声だった。


 芙美香が、膝の上の指をぎゅっと握る。


「……間違い、ありませんわ」


「少なくとも、通常の外傷や疾病では説明できません」


 佐伯が続ける。


「医者として、そう判断しています」


 レンが、そこで少しだけ目を細めた。


「医者として?」


「ええ。医者として、です」


 佐伯は、それ以上を言わなかった。


 レンも、笑みを崩さない。

 だが、目の奥だけが少し冷えた。


「まあ、俺はこう見えても、直哉の昔の“同僚”でしてね。……お聞きした範囲で考えれば、少しはお役に立ちますぜ?」


「……なるほど、同僚」


 佐伯の返答は短かった。

 そして目を背けるように、視線を落とした。


 その仕草に、レンの視線が一瞬だけ引っかかる。

 だが、今はそこを掘る場面ではないと判断したのか、軽く肩をすくめるだけに留めた。


「まあね。昔の話ですけど」


「では、医療の外側の話というわけですか」


「医療で片づくなら、俺たちは呼ばれてませんよ」


 レンの返答に、佐伯は何も言わなかった。


「それに、三年前の大桜の件もある」


 レンが、障子の向こうへ目をやった。


「……大桜が、何か」


 雅臣が眉をひそめる。


「表向きは、老朽化による伐採だったんだろ」


「ええ」


 雅臣は短く答えた。


「少なくとも、私たちはそう聞かされています。事実、いつ倒壊してもおかしくない程度には衰弱していましたからね」


「けど、こっち側の記録じゃ少し違う」


 レンの声から、軽さが薄れる。


「怪異化した大木の処理案件。八重って子の失踪と結びつけられて、一度はそれで終わったことになってる」


 直哉の表情が、わずかに強張った。


「……当時、自分にはそう説明されました」


「んで、そっからが本題だ」


 冗談めかした口調ではあったが、レンは笑わなかった。


「“あの桜の大木が妖樹みてえになって、少女をさらった”。そういう証言があったことになってる」


 紗希の指先が、かすかに動いた。


「証言……」


「ああ。だが、誰がそう言ったのかが出てこねえ。証言者の名前も、記録の出どころも曖昧だ。どこを辿っても、そこだけ薄い」


 レンは、佐伯と恒一の方を一度だけ見た。


「そもそも、そんな話に、はいそうですかって乗っかって大木を処理してるのも不自然だ。こっち側の人間は、そこまで素直じゃない」


 居間の空気が、また少し冷える。


「つまり」


 紗希が、静かに言った。


「三年前、誰かが“そういうことにした”可能性がある、ということですか」


 レンは、すぐには答えなかった。


「可能性の話だ」


「……私たちには」


 紗希の声は、ひどく静かだった。


「そんな話、一度も届いていません」


 直哉は、何も言えなかった。

 レンは、少し気まずそうに沈黙を落とす。


「八重は、ただ行方不明になったことになっていました。神隠しだとか、家出だとか、そういう噂ばかりが残って」


 紗希は、障子の向こうを見た。


「でも裏では、怪異化した大桜が原因として処理されていた」


 一拍。


「それで、終わったことにされていたんですね」


 誰も、すぐには返事をしなかった。


 紗希は笑わなかった。

 怒鳴りもしなかった。


 ただ、顔から余計な表情が消えていた。


「……分かりました」


 声だけが、やけに冷たく落ちた。


 一拍ののち、冷えた沈黙に耐えかねたように、芙美香が声をかけた。


「……灯さん」


 小さな声だった。


 紗希はそちらへ顔を向ける。

 そして、場に合わせるように薄く笑った。


「お久しぶりです、橘木さん」


 愛想笑いだった。

 柔らかく、当たり障りなく、相手を不安にさせないための顔。


 けれど、その笑みに、芙美香の指先が小さく強張る。


「……八重が、あなたのことを気にしていました」


 それだけ言って、芙美香は目を伏せた。


 紗希は、少しだけ間を置く。


「……そうですか」


 踏み込まない。

 踏み込めないのではなく、今は踏み込むべきではないと判断した声だった。


 居間の端で、彰人が笑っていた。


 話を聞いている顔ではない。

 紗希が何を見るのか。

 何に気づくのか。

 それを待っている顔だった。


 紗希は、その視線に気づいた。

 すぐに反応はしない。

 ただ、彰人の顔を見て、それから胸元へ目を落とす。


 ワイシャツの中央。


 第五ボタンが取れていた。


「……おや。そこのお兄さん、ボタン、取れていますよ」


 何気ない一言だった。


 だが、居間の空気がわずかに止まった。


 彰人の口元が、ゆっくり歪む。


「へえ。よく気づいてくれたね、ありがとうよ」


 そう言って紗希を見る。

 目だけが、奇妙に楽しそうだった。


「観察力が鋭いのはいい。いいことだ。……すごくね」


「兄さん」


 芙美香が低く呼ぶ。


 彰人は肩をすくめた。


「別に。褒めてるだけだよ」


 紗希は何も返さなかった。

 ただ、ほんのわずかに目を細める。


 その横で、恭介だけが挨拶もそこそこに障子の向こうを見ていた。


「……変な匂いだな」


 居間の空気が、また少し悪くなる。


 佐伯が眉をひそめた。


「匂い?」


「人が死んだ匂いじゃねえ」


 恭介は、障子の向こうから視線を外さない。


「なんか、混ざってる」


「先輩、初対面です」


 紗希が静かに言う。


「初対面でも臭ぇもんは臭ぇ」


 その時、歌留多が障子の向こうを見たまま、ぽつりと言った。


「そうだな。少なくとも、“人が普通に死んだ匂い”じゃない」


 居間の空気が、わずかに止まる。


 歌留多は気にしない。

 深く被ったフードの影の奥で、灰金の瞳だけが庭を見ていた。


「殺された、というより。変換されてる」


「……変換?」


 佐伯が眉を寄せる。


「桜ってのは、そういう植物だろ」


 歌留多は当然のように言った。


「春を彩る。春に役目を与える。咲いて、散って、地面へ跡を残す」


「だから、足りなくなれば増やす。人も、黒も、近くにあるものを材料にして、同じものを作る」


 言葉の意味より先に、その口調の方が異様だった。


 年端もいかない少女が、花の話をしている。

 けれどそれは、庭を愛でる言葉ではなかった。

 人間が樹へ変わることを、料理や剪定の手順でも語るような声だった。


「常識だろ?」


 フードに落ちた影の奥から、歌留多の瞳だけが覗く。


 一瞬、居間が静まり返った。


「あっ、あははは!」


 それを破ったのはレンだった。


「すいやせん、すいやせん。ちょっとこの子、そういう文学的な趣味がある子でしてね!」


「おい」


 歌留多がレンを見る。


「人を電波扱いするな」


「今のはだいぶ電波寄りだったぞ、歌留多の嬢ちゃん」


 歌留多は不満げに鼻を鳴らした。

 それから、気を取り直したように障子の方へ向き直る。


「ふん、仕方ない。ここは天才の私が、直々に調査をしてやろう」


 得意げにそう言って、歌留多は障子へ歩いていく。


 深いフードの影の奥で、灰金の瞳だけが庭の若木を見ていた。


 障子を開ける。

 外の湿った空気が、細く居間へ入り込んだ。


 歌留多が縁側へ出る。

 そこから庭へ降りようと、片足を前へ出した。


 足元には、細い根が一本、石畳の間を走っている。


「待ってください!」


 芙美香の声が、思ったより鋭く響いた。


 歌留多の足が止まる。


「なんだ?」


 芙美香は、自分でも声を上げたことに驚いたような顔をしていた。

 けれど、すぐに視線を落とす。


「根を、踏み越えないでください」


 紗希が、歌留多の足元を見た。


「踏み越えない?」


「……はい」


 芙美香の声は、かすかに震えていた。


「我が家では、そういう仕来たりがございますので」


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 根は、ただそこにあるだけだった。

 風に揺れているわけでもない。

 伸びてくるわけでもない。


 けれど芙美香の声は、ただの注意ではなかった。


「……仕来たり、ですか」


 紗希が小さく繰り返す。


 庭の細い根が、風もないのに、ほんのわずかに揺れた気がした。

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