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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第3章 五と三と、紗希の傷
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第6話 歌留多は藪をつつかずにはいられない

 歌留多の足は、根の手前で止まったままだった。


 縁側の下。

 石畳の隙間を縫うように、細い根が一本だけ伸びている。


 太さは指二本ほど。

 地面から浮き出しているとはいえ、見た目だけなら珍しくもない。


 それを、芙美香はひどく怯えた目で見ていた。


「根を、踏み越えないでください」


 歌留多は片足を上げた格好のまま、芙美香を振り返った。


「どうしてだ?」


「……仕来たりなんです」


「それはさっき聞いた」


 歌留多は一度、足を縁側へ戻した。


「で。……破ると、どうなるっていうんだ?」


 芙美香の唇が止まった。


 返事の代わりに、膝の上で重ねていた指が強く絡む。


 歌留多はそんな芙美香を見てから、もう一度、足元の根へ視線を落とした。


「あんたの母親も、これを跨いだんだろ?」


 芙美香の肩が、わずかに震えた。


「……はい」


「跨いで、そのあと木になった」


「……そうです」


 歌留多は少し考えるように根を眺めた。


 そして、あっさり言った。


「じゃあ、確かめればいいじゃんか」


「待ってください!」


 芙美香の声と、直哉の声がほとんど重なった。


 直哉が縁側へ一歩出る。


「お嬢さん、やめてください。昨夜、本当に一人死んでるんです」


 歌留多は振り返らない。


「だから調べるんだ」


「あなたまで同じことになったら、調査どころじゃないでしょう!」


「同じことになるって、まだ決まってないだろ。従者ってやつはどいつもこいつも臆病で困る」


「決まってなくても――」


 歌留多が直哉の言葉を遮った。


「仕来たりだけで人が死ぬなら、そこには必ず理屈がある」


 灰金の瞳が、細い根を見下ろす。


「理屈のない禁忌なんて、ただの脅しだ」


「子供が知ったようなことを言うでない」


 上座から、恒一が低く吐いた。


 歌留多がそちらを見る。


「その根の向こうは、案山子様の畑じゃ」


 恒一は庭を指した。


「勝手に足を入れてよい場所ではない」


「畑?」


 歌留多が首を傾げる。


「この庭も、この屋敷も、橘木の土地は橘木家の守り神たる、“案山子様”の御目の内にある」


「じゃあ、跨いだら案山子様とやらに怒られるのか? っていうか何だ、カカシに“様”を付けるって」


「そういう話では――」


「そういう話にしか聞こえないぞ。何を崇めてるのか本当に分かってるのか、この家は」


 歌留多は恒一から視線を外さない。


「昨日は人が死んだ。だから根を跨ぐな。そう言ってるんだろ?」


 恒一の眉間に深い皺が寄った。


「歌留ちゃん」


 紗希が呼んだ。


 歌留多が振り返る。


 止められると思ったのか、少しだけ不満そうな顔をした。


 だが紗希は、歌留多ではなく根を見ていた。


「跨ぐなら、ゆっくりお願いします」


「灯さん!?」


 直哉が驚いたように紗希を見る。


「止めないんですか」


「止めても、歌留ちゃんはやると思いますから」


 その答えを聞いて、歌留多が得意げに胸を張った。


「ふふん、紗希は理解があるな。その通りだ」


 紗希が即座に歌留多を見る。


「威張ることではないんですけどね?」


 歌留多は少しだけ口を尖らせた。


 紗希は再び、根へ視線を戻す。


「それに、私も見たいです」


「何をです?」


 直哉が訊いた。


「根を跨ぐ、という行為そのものに」


 紗希は根の先端を目で追った。


「何が反応するのかを」


 その横で、恭介が面倒そうに頭を掻いた。


「お前ら、もう少し安全な実験方法とかねえのかよ」


 歌留多がすぐに恭介を振り返る。


「あるなら言ってみろ」


「俺に振んな」


 恭介が嫌そうに顔をしかめる。


 歌留多は鼻を鳴らし、今度こそ片足を上げた。


「本当に、やめて……」


 芙美香の声が掠れる。


 歌留多は答えなかった。


 靴の先が、根の向こうへ下りる。


 一歩。


 土を踏む音が、小さく鳴った。


 何も起きない。


 直哉は歌留多の足を見たまま、息を止めている。


 芙美香は歌留多自身を見ていた。

 その身体のどこかが志乃のように変わらないか、確かめるように。


 紗希だけは、根を見ている。


「……?」


 歌留多が自分の両手を見下ろした。


 恭介が、拍子抜けしたように言う。


「……なんだ。生きてんな」


 歌留多は自分の身体を確認しながら答えた。


「見れば分かる」


「いや、そうだけどよ」


 恭介もまだ警戒したまま、足元の根へ目を戻した。


 次の瞬間。


 石畳の上の根が動いた。


 ぬるり、と。


 風に揺れたのではない。


 歌留多の靴へ向かって、先端だけが持ち上がった。


「……お」


 歌留多の声が低くなる。


 一本。


 土の下で、もう一本。


 ざり、と砂が擦れる。


 歌留多の足首の周りを探るように、細い根が半円を描いた。


「歌留ちゃん、そのままで」


 紗希が根を見たまま言う。


「動かないでください」


 歌留多も足元から目を離さない。


「分かってる」


 さっきまでの得意げな調子は、少しだけ消えていた。


 根の先が、歌留多の靴へ触れる。


 つつく。


 離れる。


 また近づく。


 何かを探しているような動きだった。


 だが、それ以上は何も起こらない。


 足が沈むこともない。

 皮膚が変色することもない。

 根が身体へ食い込んでくることもない。


 数秒。


 やがて根は力を失ったように、石畳へ戻った。


 歌留多が自分の足元を見下ろした。


「……終わりか?」


 誰もすぐには答えなかった。


 恭介が縁側から身を乗り出す。


「昨日、あんたらのとこのカアチャンは、これで木になったんだよな?」


 紗希がすぐに訂正した。


「志乃さんです」


 恭介が紗希を見る。


「今そこ重要か?」


「重要です」


 紗希は真顔だった。


「はいはい」


 恭介は面倒そうに手を振った。


「当然じゃ」


 恒一が鼻を鳴らした。


 全員の目が上座へ向く。


「何がです」


 直哉が訊いた。


 恒一は、庭へ出た歌留多を見下ろした。


「根は、通りすがりまで家の者とは数えん」


 歌留多が眉を上げる。


「つまり私は余所者だから平気だった、と?」


「案山子様は、この家を守るものじゃ」


 恒一は当然のことを話すように続けた。


「誰彼構わず取り込むわけではない」


 歌留多が呆れたように言う。


「ずいぶん都合のいい神様だな」


「歌留ちゃん」


 紗希が名前を呼んだ。


 歌留多は紗希を見る。


「分かってる。黙る」


 言葉とは裏腹に、まったく納得していない顔だった。


「ですが」


 それまで黙っていた雅臣が、静かに口を開いた。


 皆の視線が移る。


「根を跨いだだけで人が死ぬなら、この家の人間は誰も生きていないはずです」


 恒一が雅臣を見る。


「何が言いたい」


「長い間暮らしていれば、一度も根を跨がずに済むとは思えません」


 雅臣の声は淡々としていた。


「庭の手入れもする。子供なら走り回ることもある。すべての根を避け続けるのは現実的ではないでしょう」


「だからこそ、作法がある」


「作法があることと、破れば必ず死ぬことは別です」


 雅臣はそれだけ言って口を閉じた。


 その足元。


 縁側の際まで伸びた別の細い根が、雅臣の靴のすぐ脇を這っていた。


 歌留多の足元では、あれほど探るように動いた根。


 だが、雅臣の傍らにある一本だけは、ぴくりとも動かなかった。


「……待って」


 芙美香が言った。


 小さな声だった。


 自分自身に言い聞かせるような声。


「待ってください」


 直哉が芙美香を振り返る。


「どうしました?」


「わたくしも……」


 芙美香は、自分の足元を見た。


「昨日」


 直哉の表情が変わる。


 芙美香は記憶を辿るように、ゆっくり言葉を続けた。


「お母さまのところへ走った時……根が、ありました」


「芙美香さん」


「柊さんに言われましたわ」


 芙美香が直哉を見る。


「跨がないでくださいって」


「……はい。言いました」


 直哉も、その時のことを思い出したように眉を寄せる。


「でも、わたくし……」


 芙美香の呼吸が浅くなった。


「お母さましか見ていなくて」


 唇が震える。


「一本、跨ぎました」


 部屋の空気が止まった。


 歌留多が縁側の下から芙美香を見上げる。


「間違いないのか?」


「……はい」


 芙美香が頷いた。


 歌留多は続けて訊く。


「お前は、この家の人間だな?」


 問い方があまりにも直接的で、レンが僅かに顔をしかめた。


 だが芙美香はもう一度頷く。


「もちろんです」


 歌留多は芙美香の全身を見た。


「で、生きてる」


 芙美香は答えなかった。


 答える必要もなかった。


 歌留多は自分の足元にある根へ視線を戻した。


「じゃあ違うな」


 恒一の眉が動く。


「何がじゃ」


 歌留多が恒一を見る。


「根を跨いだから死んだんじゃない」


「小娘が、何を――」


「私は跨いだ」


 歌留多は指を一本立てた。


「何も起きなかった」


 次に、二本目の指を立てて芙美香を見る。


「そこの女も跨いだ」


「歌留ちゃん、せめて橘木さんと呼んでください」


 紗希が横から口を挟む。


「今そこ重要か?」


 歌留多が不満そうに返す。


「重要です」


「……分かった」


 歌留多は気を取り直すように咳払いした。


「橘木も跨いだ。でも死んでない」


 恒一が何か言おうとした、その時。


「そういや」


 居間の端から、彰人が口を挟んだ。


 ずっと退屈そうにしていた男が、面白いものを見つけたように笑っている。


「昔、そんな話あったな」


 紗希が彰人へ顔を向けた。


「何の話です?」


「使用人だよ」


 恒一の目が細くなる。


「余計なことを言うな」


 彰人は父親の制止を気にした様子もなく、肩をすくめた。


「昔話だろ。別にいいじゃねえか」


 直哉も彰人を見る。


 彰人は薄く笑ったまま続けた。


「夜中に庭を歩いてた使用人が、誰もいないところから呼ばれたって騒いだらしい」


 直哉の眉が寄った。


「呼ばれた?」


「ああ」


 彰人が頷く。


 直哉がさらに訊いた。


「誰にです?」


「知らねえよ」


 彰人は笑った。


「誰もいなかったんだから」


 その言葉だけが、妙に居間へ残った。


 紗希は何も言わない。


 まず彰人を見る。


 次に芙美香。


 庭へ出た歌留多。


 石畳を這う根。


 そして、昨夜志乃が固定された場所。


 一つずつ。


 何かを比べるように、視線を動かしていく。


「サキ?」


 庭から歌留多が呼んだ。


 紗希はしばらく答えなかった。


 やがて、根を見たまま口を開く。


「……根を跨いだこと自体が、原因ではありません」


 誰も口を挟まない。


 紗希はそれ以上先へ進まず、最後に一言だけ付け加えた。


「少なくとも、それだけでは足りない。他にも条件がありますね」

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