第7話 波打ち際、飛沫くは樹木
歌留多は跨いだ根の向こう側に立ったまま、自分の足元を見下ろしている。
「結局、何も分からなかったな」
「一つは分かりましたよ」
紗希が答える。
「根を跨げば必ず死ぬ、というわけではない。それだけでも十分です」
「地味だな」
「推理というのは、だいたい地味なものです」
「私はもっと派手なのが好きだ。てっきり怪異とか出てきて戦闘になると思っていたんだ」
「知っています」
そのやり取りを聞きながら、恭介が面倒そうに頭を掻いた。
「で。いつまで庭に突っ立ってんだ?」
歌留多が舌打ちをしながら顔を上げる。
「お前が一番何もしてないくせに偉そうだな。そもそも推理も捜索もできない木偶の坊だろ、お前は」
「うるせえ。根っこ跨いで遊んでただけのガキに言われたくねえ」
「実験と検証だ。二度と間違えるな。二度とな」
「遊びと大差ねえだろ。……あ~あ、このチビも木になればよかったのによ」
「先輩」
紗希が二人を止める。
その視線は、もう別の場所へ向いていた。
庭の隅。
昨日までは何もなかった場所に、一本の若い桜が立っている。
細い幹。
まだ枝も少なく、庭木として見れば頼りないほど小さい。
だが、その立ち姿だけが妙に馴染んでいた。
「私、間違い探しは結構得意な方です。そしてあの木は、さっきまではなかったと思いますが。庭師をやってる直哉さんとしては、どうですか?」
今朝植えられたものではない。
何年も前から、そこに根を張っていたように見える。
直哉も紗希の視線を追った。
「……確かに」
そう答えるだけで、それ以上の言葉が浮かばない。
紗希が直哉に頷く。
恭介も若木を見る。
「前からあったんじゃねえのか?」
直哉はすぐに首を横へ振った。
「昨日までは、ありませんでした」
「見落としたとかじゃねえの?」
「それはありえません」
今度は、少し強く言った。
この庭の管理を任されている者として、断言ができた。
「少なくとも昨日の昼、自分が庭を回った時にはありませんでした。志乃さんを見つけたあとにも、ここには何もなかった」
直哉は若木の根元へ視線を落とす。
「植え替えた跡もないですね」
レンが少し姿勢を低くして土を見る。
「確かに、掘り返したようには見えないな」
「でしょう」
直哉は眉を寄せた。
「変なんです。これだけの木を植えるなら、根鉢を入れるために土を大きく返す必要がある。なのに、その跡がない」
歌留多が若木へ近づいた。
根元の土を覗き込み、幹へ顔を寄せる。
指で樹皮を軽く擦った。
「私には、普通の木に見えるけどな」
「だから余計に変なんです」
直哉が答える。
歌留多はしばらく若木を眺めていた。
やがて、ぽつりと言う。
「増えてるってことだ」
紗希がそちらを向く。
「何がです?」
「桜だ」
歌留多は振り返らない。
「昨日はなかった。今日はある」
「それは、そうですが」
「昨日、誰かを呑んで増えたやつだ」
芙美香の肩が跳ねた。
「……お母さまを、ですか?」
歌留多がようやく振り返る。
芙美香の顔を見てから、首を横へ振った。
「そこまでは知らない」
「では……」
「昨日、人が死んだ」
歌留多は指を一本立てた。
「そのあと、昨日までなかった木が一本増えた」
そこで指を下ろす。
「今分かってるのは、それだけだ」
芙美香は何も返さなかった。
若木へ向けた目だけが揺れている。
「母が、桜になったとでも言うつもりですか」
雅臣の声がした。
彼は縁側の近くに立ち、若木を見ていた。
声は荒れていない。
姿勢も崩れていない。
佐伯がそれを引き取るように続けた。
「志乃さんが亡くなったことと、この木が現れたこと。時期が近いだけで、同じ現象だと決めることはできません」
白衣の胸元を整えながら、若木を見る。
「そもそも、“樹木化”という呼び方自体が正しいのかどうかも分からない。昨夜の状況は、あまりにも異常でしたからね」
レンが佐伯を見る。
「異常だったから、見間違えたかもしれない?」
「可能性の話です」
佐伯はそう答え、口元を指で拭った。
「人間は極度の緊張状態に置かれると、知覚したものを正確に記憶できないことがあります。まして、若木との因果まで結びつけるのは早計でしょう」
「……なるほど」
レンはそれ以上言わなかった。
ただ、佐伯が再び診察鞄の取っ手へ手を置いたことだけは見ていた。
「私も、まだ志乃さんがこの木になったとは思っていません」
紗希が言った。
芙美香が顔を上げる。
「ですが――」
紗希は若木を見る。
「昨日までなかった木が、志乃さんが亡くなったあとに現れた。その事実まで無視する必要もありません」
「だから調べる、か」
レンが言う。
「はい」
紗希は歌留多を見た。
「歌留ちゃん。少し確かめてもらえますか?」
「何をだ?」
「この木です」
歌留多が幹を叩く。
「木にしか見えないぞ。さっきも言ったじゃないか」
「そうですね」
紗希はあっさり頷いた。
「ですから、まず表面からお願いします。歌留ちゃんの能力が、一番適してるでしょう?」
「……何を掴めっていうんだ?」
「掴めるものがあるかどうかを。“クロを掴める能力”で掴んでみてほしいです」
歌留多が数秒、紗希を見た。
それから、にっと笑う。
「なるほど」
右手を若木へ向けた。
空間を掴むように、指を閉じる。
何も起きない。
歌留多はもう一度、少し位置をずらして試した。
やはり何も掴めない。
「……ないな」
紗希が訊く。
「掴めませんか?」
「ああ」
歌留多は手を開いた。
「表は何も掴めない」
「じゃあ普通の木ってことか?」
恭介が言う。
「少なくとも、ここにはない」
歌留多が幹の表面を指差す。
「私が掴めるものはな」
紗希は若木へ一歩近づいた。
樹皮を見る。
細い幹の奥まで見通せるわけではない。
それでも、視線だけをゆっくり上下へ動かす。
「歌留ちゃん」
「なんだ?」
「もう少し内側はどうですか?」
歌留多が眉を上げた。
「注文が細かいな」
「お願いします」
「はいはい」
今度は幹の表面ではなく、その奥を狙う。
歌留多の手が閉じる。
一度目。
何もない。
二度目。
歌留多の指が、途中で止まった。
「……いや」
紗希がすぐに見る。
「ありました?」
「ああ」
歌留多は手を閉じたまま、わずかに腕を引いた。
何か重いものを引っ張っているような動きではない。
細い糸へ指先だけを引っかけたような、妙な手応えだった。
「奥なら掴める」
「一つですか?」
「待て」
歌留多が位置を変える。
もう一度。
さらに少し上。
また別の位置。
「……細いな」
歌留多が呟いた。
「線みたいなのが、何本かある」
芙美香が息を呑む。
直哉も若木を見直した。
レンは一瞬目を鋭くし、顔を伏せた。
「黒の脈“ブラックベイン”とか、黒の経路みたいなもんが、中に通ってるってことか」
外から見れば、ただの桜だった。
樹皮にも。
枝にも。
目立った異常はない。
だが、その内側にだけ、歌留多の手が届くものがある。
「黒が入ってるってことか?」
恭介が訊いた。
歌留多が肩を竦める。
「私が掴めるなら、そうなんだろ」
「場所は?」
「何度も言わせるな。……っていうか、急に目の色を変えるな。喰うつもりか」
恭介は若木を見上げた。
数秒だけ黙る。
「じゃあ、木ごとは無理だな」
歌留多が手を下ろした。
「喰えないのか?」
「外の木は俺が喰うもんじゃねえ」
恭介は顎で幹を示す。
「お前が掴めた中の黒が出てくりゃ別だがな」
「中まで齧ればいいだろ。カブトムシとかみたいに」
「簡単に言うな、クソガキ」
恭介が歌留多を睨む。
「何がどこまで混じってるかも分かってねえもんを、木ごと適当に喰えるかよ」
「意外と悪食じゃないんだな」
「意外は余計だ」
紗希は二人のやり取りを聞きながら、若木を見ていた。
昨日まで、ここには何もなかった。
今日、桜が一本ある。
外側は、少なくとも歌留多の手には引っかからない。
その内側にだけ、細い黒が走っている。
紗希は若木から目を離さなかった。
「で」
しばらく黙っていたレンが、紗希へ声を掛けた。
「どう見る、紗希ちゃん?」
紗希はすぐには答えなかった。
目の前の若木ではなく、庭全体へ視線を移している。
「まだ何とも」
「何とも?」
レンが聞き返す。
「ずいぶん調べた割には、歯切れが悪いな」
「調べたからこそですよ」
紗希は小さく笑った。
「分からないことが増えました」
歌留多が振り返る。
「それ、失敗じゃないのか?」
「いいえ」
紗希はあっさり否定した。
「分からないものを、分かったことにする方が失敗です」
「面倒くさいな、サキは」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてない」
歌留多が即答した。
恭介が鼻を鳴らす。
「で、結局なんなんだよ。この家、この庭はよ」
「それを今から考えるんです」
紗希は庭を見ながら、ぽつぽつと言葉を置いた。
「禁忌」
一度、根元へ視線を落とす。
「怪異」
次に若木。
「あるいは能力」
今度はそこにいる人々へ。
最後に、庭全体を見回した。
「または、土地そのものの異常」
恭介が眉を寄せる。
「増えたぞ」
「候補が、ですね」
「ちょっと嬉しそうだな」
「嬉しくはありませんよ」
レンが顎に手をやった。
「……能力、か」
紗希がそちらを見る。
「何か、心当たりが?」
「いや」
レンは若木から目を離さない。
「ただ、こういう現れ方をする怪異には、大抵ワケがある。人の意図が絡んでることも珍しくない」
一拍置いて、続けた。
「もしかしたら、フィアー能力者がこの家の中に紛れ込んでいるのかもしれないな」
その場が、わずかに静かになる。
歌留多が眉を上げた。
「本気で言ってるのか?」
「半分はな」
レンは肩を竦めた。
「可能性の話だ。決めつけてるわけじゃない」
紗希は少し考えてから、首を横へ振った。
「……まだ、分類なんてできませんね」
歌留多が腕を組む。
「つまり、分からないってことだろ」
「違います」
「何が違う」
「まだ決めない、ということです」
歌留多の眉間に皺が寄る。
「同じじゃないのか?」
「全然違いますよ」
「私には同じに聞こえる」
「歌留ちゃんは、結果を急ぎすぎなんです」
「サキは遅すぎる」
「バランスが取れてちょうどいいですね、いいコンビかもです」
「どこがだ」
そのやり取りに、芙美香がほんの少しだけ口元を緩めた。
だが、それも一瞬だった。
庭の奥から。
ぱきり。
乾いた音がした。
直哉が顔を上げた。
「……今の音」
全員の視線が、庭へ向く。
風はない。
それなのに、先ほど調べていた若木の枝先が揺れていた。
左右へ。
ゆっくりと。
何かに引かれているように。
「風か?」
彰人が周囲を見る。
直哉は首を振った。
「吹いてません」
声に呼応するように、乾いた音が響いた。
今度は少し近い。
恭介が足元を見る。
「下か?」
「ええ」
直哉が答えるより早く、若木の根元の土が持ち上がった。
盛り上がり、そして割れる。
湿った土の隙間から、細い枝先が一本覗いた。




