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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第3章 五と三と、紗希の傷
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第7話 波打ち際、飛沫くは樹木

 歌留多は跨いだ根の向こう側に立ったまま、自分の足元を見下ろしている。


「結局、何も分からなかったな」


「一つは分かりましたよ」


 紗希が答える。


「根を跨げば必ず死ぬ、というわけではない。それだけでも十分です」


「地味だな」


「推理というのは、だいたい地味なものです」


「私はもっと派手なのが好きだ。てっきり怪異とか出てきて戦闘になると思っていたんだ」


「知っています」


 そのやり取りを聞きながら、恭介が面倒そうに頭を掻いた。


「で。いつまで庭に突っ立ってんだ?」


 歌留多が舌打ちをしながら顔を上げる。


「お前が一番何もしてないくせに偉そうだな。そもそも推理も捜索もできない木偶の坊だろ、お前は」


「うるせえ。根っこ跨いで遊んでただけのガキに言われたくねえ」


「実験と検証だ。二度と間違えるな。二度とな」


「遊びと大差ねえだろ。……あ~あ、このチビも木になればよかったのによ」


「先輩」


 紗希が二人を止める。


 その視線は、もう別の場所へ向いていた。


 庭の隅。


 昨日までは何もなかった場所に、一本の若い桜が立っている。


 細い幹。


 まだ枝も少なく、庭木として見れば頼りないほど小さい。


 だが、その立ち姿だけが妙に馴染んでいた。


「私、間違い探しは結構得意な方です。そしてあの木は、さっきまではなかったと思いますが。庭師をやってる直哉さんとしては、どうですか?」


 今朝植えられたものではない。


 何年も前から、そこに根を張っていたように見える。


 直哉も紗希の視線を追った。


「……確かに」


 そう答えるだけで、それ以上の言葉が浮かばない。

 紗希が直哉に頷く。


 恭介も若木を見る。


「前からあったんじゃねえのか?」


 直哉はすぐに首を横へ振った。


「昨日までは、ありませんでした」


「見落としたとかじゃねえの?」


「それはありえません」


 今度は、少し強く言った。


 この庭の管理を任されている者として、断言ができた。


「少なくとも昨日の昼、自分が庭を回った時にはありませんでした。志乃さんを見つけたあとにも、ここには何もなかった」


 直哉は若木の根元へ視線を落とす。


「植え替えた跡もないですね」


 レンが少し姿勢を低くして土を見る。


「確かに、掘り返したようには見えないな」


「でしょう」


 直哉は眉を寄せた。


「変なんです。これだけの木を植えるなら、根鉢を入れるために土を大きく返す必要がある。なのに、その跡がない」


 歌留多が若木へ近づいた。


 根元の土を覗き込み、幹へ顔を寄せる。


 指で樹皮を軽く擦った。


「私には、普通の木に見えるけどな」


「だから余計に変なんです」


 直哉が答える。


 歌留多はしばらく若木を眺めていた。


 やがて、ぽつりと言う。


「増えてるってことだ」


 紗希がそちらを向く。


「何がです?」


「桜だ」


 歌留多は振り返らない。


「昨日はなかった。今日はある」


「それは、そうですが」


「昨日、誰かを呑んで増えたやつだ」


 芙美香の肩が跳ねた。


「……お母さまを、ですか?」


 歌留多がようやく振り返る。


 芙美香の顔を見てから、首を横へ振った。


「そこまでは知らない」


「では……」


「昨日、人が死んだ」


 歌留多は指を一本立てた。


「そのあと、昨日までなかった木が一本増えた」


 そこで指を下ろす。


「今分かってるのは、それだけだ」


 芙美香は何も返さなかった。


 若木へ向けた目だけが揺れている。


「母が、桜になったとでも言うつもりですか」


 雅臣の声がした。

 彼は縁側の近くに立ち、若木を見ていた。


 声は荒れていない。

 姿勢も崩れていない。


 佐伯がそれを引き取るように続けた。


「志乃さんが亡くなったことと、この木が現れたこと。時期が近いだけで、同じ現象だと決めることはできません」


 白衣の胸元を整えながら、若木を見る。


「そもそも、“樹木化”という呼び方自体が正しいのかどうかも分からない。昨夜の状況は、あまりにも異常でしたからね」


 レンが佐伯を見る。


「異常だったから、見間違えたかもしれない?」


「可能性の話です」


 佐伯はそう答え、口元を指で拭った。


「人間は極度の緊張状態に置かれると、知覚したものを正確に記憶できないことがあります。まして、若木との因果まで結びつけるのは早計でしょう」


「……なるほど」


 レンはそれ以上言わなかった。


 ただ、佐伯が再び診察鞄の取っ手へ手を置いたことだけは見ていた。


「私も、まだ志乃さんがこの木になったとは思っていません」


 紗希が言った。


 芙美香が顔を上げる。


「ですが――」


 紗希は若木を見る。


「昨日までなかった木が、志乃さんが亡くなったあとに現れた。その事実まで無視する必要もありません」


「だから調べる、か」


 レンが言う。


「はい」


 紗希は歌留多を見た。


「歌留ちゃん。少し確かめてもらえますか?」


「何をだ?」


「この木です」


 歌留多が幹を叩く。


「木にしか見えないぞ。さっきも言ったじゃないか」


「そうですね」


 紗希はあっさり頷いた。


「ですから、まず表面からお願いします。歌留ちゃんの能力が、一番適してるでしょう?」


「……何を掴めっていうんだ?」


「掴めるものがあるかどうかを。“クロを掴める能力”で掴んでみてほしいです」


 歌留多が数秒、紗希を見た。


 それから、にっと笑う。


「なるほど」


 右手を若木へ向けた。


 空間を掴むように、指を閉じる。


 何も起きない。


 歌留多はもう一度、少し位置をずらして試した。


 やはり何も掴めない。


「……ないな」


 紗希が訊く。


「掴めませんか?」


「ああ」


 歌留多は手を開いた。


「表は何も掴めない」


「じゃあ普通の木ってことか?」


 恭介が言う。


「少なくとも、ここにはない」


 歌留多が幹の表面を指差す。


「私が掴めるものはな」


 紗希は若木へ一歩近づいた。


 樹皮を見る。


 細い幹の奥まで見通せるわけではない。


 それでも、視線だけをゆっくり上下へ動かす。


「歌留ちゃん」


「なんだ?」


「もう少し内側はどうですか?」


 歌留多が眉を上げた。


「注文が細かいな」


「お願いします」


「はいはい」


 今度は幹の表面ではなく、その奥を狙う。


 歌留多の手が閉じる。


 一度目。


 何もない。


 二度目。


 歌留多の指が、途中で止まった。


「……いや」


 紗希がすぐに見る。


「ありました?」


「ああ」


 歌留多は手を閉じたまま、わずかに腕を引いた。


 何か重いものを引っ張っているような動きではない。


 細い糸へ指先だけを引っかけたような、妙な手応えだった。


「奥なら掴める」


「一つですか?」


「待て」


 歌留多が位置を変える。


 もう一度。


 さらに少し上。


 また別の位置。


「……細いな」


 歌留多が呟いた。


「線みたいなのが、何本かある」


 芙美香が息を呑む。


 直哉も若木を見直した。


 レンは一瞬目を鋭くし、顔を伏せた。


「黒の脈“ブラックベイン”とか、黒の経路みたいなもんが、中に通ってるってことか」


 外から見れば、ただの桜だった。


 樹皮にも。


 枝にも。


 目立った異常はない。


 だが、その内側にだけ、歌留多の手が届くものがある。


「黒が入ってるってことか?」


 恭介が訊いた。


 歌留多が肩を竦める。


「私が掴めるなら、そうなんだろ」


「場所は?」


「何度も言わせるな。……っていうか、急に目の色を変えるな。喰うつもりか」


 恭介は若木を見上げた。


 数秒だけ黙る。


「じゃあ、木ごとは無理だな」


 歌留多が手を下ろした。


「喰えないのか?」


「外の木は俺が喰うもんじゃねえ」


 恭介は顎で幹を示す。


「お前が掴めた中の黒が出てくりゃ別だがな」


「中まで齧ればいいだろ。カブトムシとかみたいに」


「簡単に言うな、クソガキ」


 恭介が歌留多を睨む。


「何がどこまで混じってるかも分かってねえもんを、木ごと適当に喰えるかよ」


「意外と悪食じゃないんだな」


「意外は余計だ」


 紗希は二人のやり取りを聞きながら、若木を見ていた。


 昨日まで、ここには何もなかった。


 今日、桜が一本ある。


 外側は、少なくとも歌留多の手には引っかからない。


 その内側にだけ、細い黒が走っている。


 紗希は若木から目を離さなかった。


「で」


 しばらく黙っていたレンが、紗希へ声を掛けた。


「どう見る、紗希ちゃん?」


 紗希はすぐには答えなかった。


 目の前の若木ではなく、庭全体へ視線を移している。


「まだ何とも」


「何とも?」


 レンが聞き返す。


「ずいぶん調べた割には、歯切れが悪いな」


「調べたからこそですよ」


 紗希は小さく笑った。


「分からないことが増えました」


 歌留多が振り返る。


「それ、失敗じゃないのか?」


「いいえ」


 紗希はあっさり否定した。


「分からないものを、分かったことにする方が失敗です」


「面倒くさいな、サキは」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「褒めてない」


 歌留多が即答した。


 恭介が鼻を鳴らす。


「で、結局なんなんだよ。この家、この庭はよ」


「それを今から考えるんです」


 紗希は庭を見ながら、ぽつぽつと言葉を置いた。


「禁忌」


 一度、根元へ視線を落とす。


「怪異」


 次に若木。


「あるいは能力」


 今度はそこにいる人々へ。


 最後に、庭全体を見回した。


「または、土地そのものの異常」


 恭介が眉を寄せる。


「増えたぞ」


「候補が、ですね」


「ちょっと嬉しそうだな」


「嬉しくはありませんよ」


 レンが顎に手をやった。


「……能力、か」


 紗希がそちらを見る。


「何か、心当たりが?」


「いや」


 レンは若木から目を離さない。


「ただ、こういう現れ方をする怪異には、大抵ワケがある。人の意図が絡んでることも珍しくない」


 一拍置いて、続けた。


「もしかしたら、フィアー能力者がこの家の中に紛れ込んでいるのかもしれないな」


 その場が、わずかに静かになる。


 歌留多が眉を上げた。


「本気で言ってるのか?」


「半分はな」


 レンは肩を竦めた。


「可能性の話だ。決めつけてるわけじゃない」


 紗希は少し考えてから、首を横へ振った。


「……まだ、分類なんてできませんね」


 歌留多が腕を組む。


「つまり、分からないってことだろ」


「違います」


「何が違う」


「まだ決めない、ということです」


 歌留多の眉間に皺が寄る。


「同じじゃないのか?」


「全然違いますよ」


「私には同じに聞こえる」


「歌留ちゃんは、結果を急ぎすぎなんです」


「サキは遅すぎる」


「バランスが取れてちょうどいいですね、いいコンビかもです」


「どこがだ」


 そのやり取りに、芙美香がほんの少しだけ口元を緩めた。


 だが、それも一瞬だった。


 庭の奥から。


 ぱきり。


 乾いた音がした。


 直哉が顔を上げた。


「……今の音」


 全員の視線が、庭へ向く。


 風はない。


 それなのに、先ほど調べていた若木の枝先が揺れていた。


 左右へ。


 ゆっくりと。


 何かに引かれているように。


「風か?」


 彰人が周囲を見る。


 直哉は首を振った。


「吹いてません」


 声に呼応するように、乾いた音が響いた。


 今度は少し近い。


 恭介が足元を見る。


「下か?」


「ええ」


 直哉が答えるより早く、若木の根元の土が持ち上がった。


 盛り上がり、そして割れる。


 湿った土の隙間から、細い枝先が一本覗いた。

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