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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第3章 五と三と、紗希の傷
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第8話 禍、それをもって根

「……え?」


 芙美香が声を漏らす。


 枝先が伸びる。


 土を押し退けながら。


 芽が出て育っているのではない。


 細い幹が、地面の下からそのまま押し出されてくる。


「直哉さん」


 紗希が呼んだ。


 直哉は目を離さない。


「自分も見ています」


 二本目の桜が、立った。


 最初の若木から、ほんの数歩離れたところ。


 土は大きく掘り返されていない。


 だがそこにはもう、一本目とよく似た若木が立っている。


 歌留多が目を細めた。


「……ほらな」


 恭介が横を見る。


「何がだよ」


「増えてる」


 今度は誰も、それを言葉遊びとは取らなかった。


 直後。


 別の場所で土が割れた。


「もう一本……!」


 芙美香が指差す。


 三本目。


 庭の端。


 何もなかった土の下から、桜が押し出される。


 根を伸ばしながら育つのではない。


 枝が伸びて幹になるのでもない。


 最初から桜の形をしていたものが、土の中から姿を現していく。


 まるで。


 庭の土そのものが――桜という形を思い出していくように。


「……これは」


 佐伯の声が掠れた。


 診察鞄を握る指に、力が入る。


 レンがその横顔を見る。


「先生?」


「いえ……」


 佐伯はすぐに首を振った。


「何でもありません」


 だが、庭から視線を外せない。


 紗希も、増えた桜を見ていた。


「直哉さん」


 直哉が振り返る。


「これも、植えたものではないんですね」


「違います」


 直哉は即答した。


「こんな増え方をする木なんて、ありません」


 四本目は生えなかった。


 少なくとも、すぐには。


 庭が静まる。


 誰も動かない。


 先ほどまで一本しかなかった若木が、今は三本ある。


 歌留多が腕を組み直した。


「これで、増えてるのは確定だな」


 紗希は返事をしなかった。


 三本の桜を順番に見ている。


「紗希?」


 恭介が呼ぶ。


「……はい」


「今度は何見てんだ」


「増えた木だけじゃありません」


 紗希は庭の地面へ視線を落とした。


「直哉さん」


「はい」


「この辺りの根は、もともとこんなに地表へ出ていましたか?」


 直哉の顔から、わずかに色が消えた。


 ゆっくりと足元を見る。


「……いいえ」


 その答えと同時に。


 庭の奥で。


 ぎし。


 低く、何かが軋んだ。


 一本の木ではない。


 もっと広い。


 地面の下を、何か巨大なものが身じろぎしたような音だった。


 直哉が一歩、屋敷側へ下がる。


「皆さん」


 声が変わった。


「屋敷へ戻ってください」


 レンがすぐに直哉を見る。


「何が来る?」


 直哉は庭から目を離さなかった。


「分かりませんが」


 もう一度。


 ぎしり。


 今度は、庭のあちこちから同時に聞こえた。


 直哉が低く続ける。


「でも――」


 地表へ浮いた根が、ゆっくりと持ち上がった。


「庭全体がおかしい」


 直哉がそう言った直後だった。


 地面が、鳴った。


 音というより、振動だった。


 庭石が微かに跳ね、縁側の柱が軋む。


「下がれ!」


 レンが声を張る。


 だが、庭から屋敷へ戻るより早く。


 地表へ浮いていた根が、一斉に持ち上がった。


「――来ます!」


 直哉の声と同時に、根が走った。


 一本ではない。


 庭のあちこちから伸びた根が絡み合い、太い束になって縁側へ押し寄せる。


 障子が内側へ弾け飛んだ。


「うおっ!」


 恭介が腕で顔を庇う。


 木片と紙片が散る。


 次の瞬間には、縁側の板が下から持ち上げられた。


 根が割れ目から滑り込み、畳の上へ這い出してくる。


「屋敷の中まで……!」


 芙美香が後ずさった。


 その足へ、細い根が巻きつく。


「きゃっ――!」


 その瞬間、紗希は動いていなかった。


 足元へ一本の根が迫っている。


 それでも逃げない。


 芙美香を見る。


 次に歌留多。


 佐伯。


 床を走る根。


 枝。


 梁。


 ひとつずつ、目で追っている。


「芙美香さん!」


 レンが手を伸ばした。


 だが、根は芙美香の足だけではなく、腰掛けていた椅子の脚にも絡んでいる。


 椅子ごと、庭の方へ引かれた。


「椅子から降りろ!」


 レンが背もたれを掴む。


「足が……っ、抜けません!」


「靴は捨てていい! 足を先に――」


 レンが根を踏みつけ、芙美香を引き起こす。


 別の場所では、歌留多が自分の足首へ絡んだ根を両手で掴んでいた。


「何だこの木、キモいな、もう!」


 力任せに引く。


「おい、チビ!」


 恭介が怒鳴る。


「無茶に引っ張んな! 足まで持ってかれんぞ!」


「これくらい平気だ!」


「そういう問題じゃねえ!」


 歌留多が根を横へ捻る。


 ぱき、と木が軋んだ。


 だが切れない。


 むしろ、その動きに引かれるように別の根が床下から這い上がってきた。


「増えたぞ!」


「見りゃ分かる!」


 恭介が歌留多の肩を掴んで後ろへ引いた。


 誰か一人を追っているようには見えない。


 居間そのものを埋めるように、次々と侵入してくる。


「佐伯先生!」


 芙美香の声が上がった。


 佐伯の白衣の裾に、一本の根が絡んでいた。


「くっ……」


 佐伯がそれを払い落とそうとする。


 だが根は足元から離れなかった。


 裾の内側へ潜る。


「やめろ」


 佐伯の声が変わった。


 それまでの困惑ではない。


 明確な恐怖だった。


 根が白衣の下を這い上がる。


 胸元。


 鎖骨。


 首筋。


「来るな……!」


「先生!」


 レンが佐伯へ向かう。


 佐伯は両手で根を掴み、必死に引き剥がそうとしていた。


 しかし根は首を絞めなかった。


 その先端が向かっているのは――口だった。


「っ……!」


 佐伯が顔を背ける。


 根も追う。


 頬を擦り。


 唇へ。


「やめろ!」


 佐伯は叫び、口元を手で覆った。


 それでも根の先端は、その指の隙間へ入り込もうとする。


 喉を塞ぐためではない。


 まるで、そこから出てくる言葉そのものを、口の奥へ押し戻そうとしているような動きだった。


「相馬!」


 直哉が叫ぶ。


「分かってる!」


 レンが佐伯の腕を掴み、横へ引き倒す。


 根の先端が空を切った。


 紗希は、そこまでを見ていた。


「おい」


 恭介が振り返る。


 紗希は反応しない。


「紗希!」


「……はい」


 ようやく顔を向けた。


「はい、じゃねえ!」


 恭介が踏み込む。


 紗希の足首へ根が届く、その直前。


 腕を掴んだ。


「わっ」


 力任せに引き寄せる。


 紗希の身体が恭介の横まで飛んだ。


「先輩、何を――」


「今日、やっぱお前おかしいぞ」


 恭介が紗希を自分の後ろへ押す。


「何がです?」


「それだよ! 根が目の前まで来てんのに、呑気に観察なんかしてんじゃねえ」


 恭介は床を這う根を蹴り退ける。


「巻き込まれんのはこっちなんだぞ」


「必要な観察です」


「必要でも限度があるだろ!」


 紗希は恭介の肩越しに、まだ佐伯の方を見ていた。


「佐伯先生だけ、動きが――」


「今それをやるな!」


 恭介の声が強くなる。


 紗希が初めて、恭介を見る。


「八重が誰かなんて知らねえし、興味もねえ」


 その名前に。


 紗希の目が、ほんの少しだけ止まった。


 恭介は続ける。


「だが、張り合ってる暇があんなら後にしろ」


「意地なんて――」


「張ってる」


 言い切った。


「そこで死なれたら困んのはこっちなんだよ」


 紗希は答えない。


 恭介は舌打ちする。


「んで突っ走って、俺の見てねえところで無駄死にでもされたら最悪だぜ」


「……」


「まあいいや。話はあとだ」


 恭介が床を睨む。


「今は黙って後ろにいろ。飯の種、減らされたらかなわん」


「ですが――」


「いろ」


 短く言った。


 紗希は、それ以上は返さなかった。


 その時。


「お、おい。キョースケ!」


 歌留多が呼ぶ。


 足元を這った根が、恭介の脛へ絡みかけている。


 恭介は反射的に身を屈めた。


 口を開く。


 そして――止まった。


「どうした?」


 歌留多が訊く。


「喰わないのか?」


「……今はやめとく」


 恭介は根の表面を睨んだ。


「適当に噛みついて、どこまで持ってっちまうか分かんねえ」


「珍しく慎重だな。相変わらず言語化が下手すぎて、何言ってるか一個も分かんないけど」


「うるせえ」


 恭介は根を踏んで進路だけを逸らす。


「狙うもんが見えてからだ」


 歌留多はそれを聞くと、今度は自分の足へ絡んだ根を無理に引き千切ろうとはしなかった。


 居間の奥。


 ばき、と柱が鳴る。


 直哉が振り返った。


 縁側が、もう見えない。


 根が床を割り。


 その隙間から細い幹まで伸びている。


 枝は梁へ絡みつき、障子の桟と一緒に壁を覆い始めていた。


「……違う」


 直哉が呟いた。


 近くにいたレンが聞き取る。


「何が?」


 直哉は答えず、周囲を見回した。


 庭。


 縁側。


 居間。


 それぞれが、もう別の場所として見えない。


 土の上にあるはずの根が畳を這い。


 庭木の枝が家の梁へ絡み。


 柱の隙間から土まで零れ出している。


「庭が……」


 直哉の声が掠れた。


「庭が、屋敷へ入ってきている」


 レンが根を避けながら直哉の隣へ移る。


「切れるか?」


 直哉は答えなかった。


 床を這う根を見る。


 折れた縁側を見る。


 屋敷へ食い込んだ枝を見る。


「直哉」


 レンがもう一度呼ぶ。


 ようやく直哉が口を開いた。


「……分かりません」


「お前が?」


「どこまでが庭なのか、もう分からないんです」


 直哉は手元へ目を落とした。


 刃を入れる場所が。


 見つからない。


 木を切ればいいのか。


 根を切ればいいのか。


 家と庭のあいだを切ればいいのか。


 その「あいだ」そのものが、もう目の前から消えている。


 その時。


 居間を埋めていた根の動きが、ふっと鈍った。


 居間に、奇妙な静けさが落ちた。


 根は止まっていない。


 畳の上を這うものも。

 柱へ絡みついたものも。

 梁へ伸びた枝も。


 ただ、先ほどまでの勢いだけが嘘のように弱まっている。


 庭も。


 屋敷も。


 一瞬だけ、深く息を吸い込んだようだった。


 芙美香は椅子の背へ手をつき、乱れた呼吸を整えていた。


「……終わった、のでしょうか」


「いや」


 レンが短く否定した。


 足元から視線を外さない。


「まだ動いてる」


 細い根が、畳の目に沿ってゆっくりと這っていた。


 歌留多もそれを見下ろす。


「休んでるだけか?」


「だったら最悪だな」


 恭介が吐き捨てた。


 その後ろでは、紗希がまだ黙っていた。


 恭介に引き寄せられた位置から動かず、荒れた居間を見ている。


 佐伯は壁際に座り込み、口元を手で押さえていた。


 根はすでに離れている。


 それでも、指だけが小さく震えていた。


 直哉は、壊れた縁側のあった場所から目を離せずにいた。


 その時だった。


「……ふ」


 小さな笑い声がした。


 直哉が振り返る。


 上座にいた恒一だった。


 老人は、笑っていた。


 声を上げるでもなく。


 ただ、目の前の光景を見て、口元だけをゆっくりと歪めている。


 雅臣が恒一へ顔を向けた。


「何を笑っているんです」


 恒一はすぐには答えなかった。


 畳を割って伸びた根を見る。


 障子を押し潰した枝を見る。


 庭だったものが、居間の中へ入り込み。


 屋敷だったものが、その中へ沈み始めている。


 それを一つずつ確かめてから。


「言うたであろう」


 恒一が呟いた。


 芙美香が父を見る。


 彰人も顔を上げる。


 恒一は笑ったまま続けた。


「血族が集まる時、そして、家の深みを覗き込む者が混じる時。そこは、現世ではなくなる」


 直哉の喉が、わずかに鳴った。


 以前、この家で聞いた言葉だった。


 あの時は。


 いつもの古臭い家訓か。


 土地に残った迷信か。


 そんなものにしか聞こえなかった。


 だが今は。


 庭が畳を割っている。


 桜の枝が梁を覆っている。


 根が人間の足元を這い。


 家の中へ、土の匂いが満ちている。


 恒一が、ゆっくりと両手を広げた。


 自分の屋敷を眺めるように。


 あるいは。


 もう屋敷ではなくなった何かを、迎え入れるように。


「もう、現世ではない」


 反芻された言葉に、誰も答えなかった。


 その言葉だけが、妙にはっきりと居間に残った。


 一瞬。


 本当に、何も動かなくなった。


 根も。


 枝も。


 人も。


 静寂。


 そして。


 ――ぎしり。


 屋敷の奥で、木が軋んだ。


 今までよりも、ずっと低い。


 太いものが、ゆっくりと捻れるような音だった。


 レンが顔を上げる。


「……来るぞ」


 直哉も振り返った。


 恭介は何も言わず、紗希をさらに一歩だけ自分の後ろへ押す。


 歌留多が腰を落とした。


 佐伯の顔から、血の気が引く。


 次の瞬間、床下を。


 無数の根が、一斉に走った。


 ――今度は。


 さっきよりも、ずっと多い。

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