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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第5話 ブラックベインのたまり場

 怪異が出た直後だというのに、喫茶店〈灯〉の空気は落ち着ききっていた。


 磨かれた木のカウンターには、さっき飛んだ血の跡がまだわずかに残っている。その横で、コーヒー豆の缶とドリッパーが当たり前みたいに並べられていた。


 異常と日常が、同じカウンターの上で平然と肩を並べている。


 レンはその前に座らされていた。


 怪異の追跡から転がり込んだはずが、気づけば審査員席に固定されている。逃げ出すには、少し妙な距離だった。


「……ほんとにやるのか」


 半分呆れて、半分確認するみたいにレンが言うと、カウンターの内側で少女が顔を上げた。


 灯紗希。


 さっき名乗ったばかりのその名を、レンはまだ頭の中で固定しきれていない。


 ただ、制服の上にエプロンを着け、首元に白い包帯を巻いた女子高生が、怪異の直後に平然と豆缶を並べているという絵面だけは、嫌でも印象に残った。


 紗希は豆缶を二つ三つ並べながら、にこりと笑う。


「もちろんです。審査員をお願いした以上、ちゃんと最後まで付き合ってもらいます」


 言い方は丁寧だ。


 だが内容はしっかり強制だった。


 その少し横では、常盤恭介が面倒くさそうにケトルを持ち上げていた。


 ついさっき怪異に腕を貫かれたはずなのに、本人はほとんど気にしていない。乱暴な手つきのくせに、コーヒー器具の位置だけは身体が覚えているらしく、必要な物には迷わず手が届いていた。


「付き合うも何も、無理矢理座らされただけなんだけどね」


 レンが低く返すと、恭介はケトル越しにちらと視線だけを向ける。


「審査員ちゃんとやれよ。逃げるんじゃねえぞ?」


「逃げないよ。……逃げてえけどな」


「じゃあ文句言うな」


 店員とはおよそ言えない横柄な態度に、レンは溜息をついた。


 追っていたターゲットの“一部”はもう、この男の腹の中に納まってしまっている。調査のための道順を追っているうちに、“一回休み”と書かれた行き止まりにぶち当たったような気分だった。


 紗希は棚からもう一枚エプロンを取り出し、ため息まじりに広げていた。さっき血を拭かれて駄目になった新品の代わりらしい。


「先輩」


「あ?」


「今度これを血拭きに使ったら、本当に家賃上げますからね」


「お前本当にケチだね! まだ言ってんのかよ」


「当然です、私は忘れません。メモったし」


 さらりと返してから、紗希はレンの方へ向き直る。


 接客の顔だ。


 さっきまで怪異がいて、血が飛んでいて、今まさに変な勝負が始まろうとしているのに、その笑みだけはちゃんと喫茶店のものだった。


「というわけで、相馬さん」


「……というわけで、の意味がまだよく分からないけどね」


「無料でコーヒーが飲めます。しかも二杯です」


「そこだけ聞くと得してる感じはするな」


「してますよ。たぶん」


「たぶん、で済ませるなよ」


 レンはそう言いかけて、やめた。


 店の外ではまだ夜が続いている。学校裏からここまで追ってきた怪異の気配も、完全に忘れたわけじゃない。


 けれど、いま目の前にあるのは、豆缶を前に得意げな少女と、明らかに不本意そうなのに帰る気配もない男だった。


 レンはカウンターに肘をつかないよう気をつけながら、あらためて二人を見る。


 包帯を巻いた女子高生は、豆缶のラベルを見比べている。


 怪異を喰った男は、ケトルの注ぎ口を光にかざして覗いている。


 どう考えても、まともな店じゃない。


 けれど、変に落ち着くのも事実だった。


「で」


 レンがようやく口を開く。


「さっきのあれは、いつもなのかい?」


 その問いを合図みたいに、紗希の指先が一度止まった。


 止めたのは一瞬だけだ。


 すぐに指先を戻し、棚の上に並んだ缶のラベルを順に見ていく。その横では、恭介がケトルへ水を足しながら、いかにも興味なさそうな顔で耳だけこちらへ向けていた。


「“いつも”っていうと、ちょっと語弊がありますけど」


 最初に答えたのは紗希だった。


 彼女は一つ缶を持ち上げ、重さを確かめるように軽く揺らしてから、レンの方を見る。


「“ブラックベイン”って名前の噂があるみたいですよ」


 レンはカウンター席に座ったまま、わずかに片眉を上げた。


「……へえ」


「気脈とか龍脈の、マイナス版みたいなやつらしいです」


 紗希はそう続けながら、今度は別の缶も手に取る。


「幽霊とか妖怪みたいなものが寄ってくるんですって」


「おいおい」


 レンは肩をすくめた。


「学生さんの噂にまでなってんのか。世も末だな」


 言ってから、少しまずいと思った。


 一般の噂になっている時点で、処理側としては笑えない。


 だが、目の前の二人はレンの反応には特に興味がなさそうだった。紗希は真面目な顔で豆を選び、恭介はケトルの蓋を閉めながら面倒くさそうに鼻を鳴らす。


 この二人を前にしていると、「高校生の噂だから」と切って捨てる方がむしろ不自然だった。


 レンは小さく息を吐いて、仕事の声に戻る。


「……まあ、“気脈みたいなもの”って言い方は、間違いじゃない」


 紗希の手がまた一瞬止まる。

 彼女はそのまま、エプロンのポケットから小さなメモ帳を引き抜いた。


「ただ、その中を流れてるのは、氣だのマナだの、そういう都合のいいもんじゃない」


 レンは指先でカウンターを二度、軽く叩く。


「流れてるのは、人間の恐怖の記憶だ」


 言ってから、少し喋りすぎたと思った。

 だが、紗希はもうメモ帳を開いていた。


「ほうほう、面白いお話ですね」


 相槌を打ちながら、さらさらと書き留める。

 横から見ていた恭介が、露骨に嫌そうな顔をした。


「うわ、出たよ」


「何がですか」


 紗希はメモから目を上げない。


「お前の、その“面白そうだからとりあえず書く”やつ」


「伊達酔狂みたいに言わないでください。興味深いからです」


 言い換えただけじゃねえか、と恭介の顔が言っていたが、口には出さなかった。


 その代わり、ケトルを火にかける。

 金属が小さく鳴り、店の静けさの中でその音だけが妙に澄んだ。


「で、そこから出てくる化け物を、俺たちは怪異って呼んでる」


 紗希の鉛筆が止まる。


「要するに、恐怖が自我を持った連中だ」


「ふむふむ……。ありがとうございます。興味深いです」


「正体も知らずに、さっきみたいな感じで対処してたの、君ら?」


 レンは少しだけ苦笑した。


「だいたい、そういうの聞いて目を輝かせる人、危なっかしく見えちゃうけどな」


「危なっかしいですか、私?」


 紗希が顔を上げる。


 首元の白い包帯が、店の灯りの下でやけに白く見えた。


「好奇心はなんとやら、っていうだろ?」


 レンがそう返すと、恭介が横から鼻で笑う。


「言ったろ。お前ほんとそういうの好きだな」


「先輩は、好き嫌い以前に何も考えなさすぎなんですよ」


「考えてるわ」


「考えてたら新品のエプロンを血拭きに使いません」


 恭介が露骨に目を逸らした。


 紗希はその様子を一瞥してから、豆缶を一つ決めたらしく、台の上へ置いた。


「正体までは知りませんでしたが。……このへん、そういうの溜まりやすいらしいんですよね」


 声の温度が少しだけ戻る。


 噂話をする生徒の顔だ。けれど、ただ浮ついた口調ではない。ずっとこの土地で暮らしてきた人間の実感が混ざっている。


「うちの店、そういう“たまり場”の真上だって、昔から変な噂だけは多くて」


 レンはわずかに眉を寄せた。


 ブラックベインが淀み、怪異の寄りやすい土地があること自体は知っている。だが、それがこの喫茶店〈灯〉だとは聞いていなかった。


「……なるほどね。ブラックベインに、滞留点があるのは聞いたことがある」


 レンはそう言って、改めて店内を見回した。


 暖色の照明。

 コーヒーの匂い。

 磨かれたカップ。

 古い木の棚。


 どこからどう見ても、ただの喫茶店だ。

 なのに、ついさっきの怪異はここへ逃げ込んだ。


「さながら、オカルトスポット。怪異が寄る土地ってやつだ」


 レンはカウンターへ肘をつかないようにしながら、少しだけ身を引く。


「でも、ここがそうだとはね。“そういう仕事”をしてても聞いたことがなかったよ」


 紗希は「でしょうねえ」という顔で肩をすくめた。


 恭介は特に驚くでもなく、湯の温度を見るようにケトルへ目を落としている。


 そこでようやく、レンの中でさっきの違和感が一つの形にまとまった。


 あれは、あの怪異は。


 ただ近くにあった店へ飛び込んだわけじゃない。


 逃げ場として、ここを選んだ可能性がある。


 ブラックベインが淀む場所なら、それも不自然じゃない。危険を避けたというより、もっと本能的に、寄るべき場所へ寄った。


「……なるほどな」


 レンは小さく息を吐く。


「さっきのがここへ逃げ込んだ理由としては、筋が通る」


 紗希がそこで、少しだけ得意げな顔をした。


「でしょう?」


「いや、そこで自慢げになるのもどうかと思うけどな」


 レンが軽く言うと、紗希は平然と豆をミルへ移しながら答える。


「だって、うちの立地が最悪だって話ですからね。自慢じゃなくて諦めです」


「最悪って自分で言うんだな」


「言いますよ。住んでる側の特権です」


 恭介が、横からぼそっと差し込む。


「だから俺以外に、空き部屋に住むやつがいないんだろ。……替えの利かない資金源なんだから、大事に扱ってほしいぜ」


「今それ言います?」


「今言っとかねえと、あとでまた家賃の話になるだろ」


「なりますよ。先輩が物を大事にしないからです」


 ブラックベインの滞留点。

 怪異が逃げ込む土地。


 そんな話をしているのに、会話の端では平然と家賃の話になる。


 しかし、窓の外の夜はまだ続いている。

 あれはまだ、どこかにいるというのに。


 やはりこの店は、どこかおかしかった。


 そして、そのおかしさにこの二人はもう、すっかり馴染んでいる。

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