第4話 踊り食い、のち小競り合い
男の声が落ちた瞬間、レンの視線もまた、カウンターの下へ引かれた。
何かいる。
そう認識した時には、男はもう動いていた。
しゃがみ込むというより、最初からそこに何が潜っているか分かっているみたいな角度で、迷いなく手を突っ込む。
「ちょ、先輩?」
少女が短く声を上げる。
だが、止めるには遅い。
次の瞬間、男の腕がカウンターの影から引き抜かれた。
その手には、黒い塊が掴まれていた。
小さい。
子供の頭ほどの塊にも見える。だが輪郭は定まらず、煙のようでもあり、濡れた布の束のようでもある。その表面からは、細い触手とも枝ともつかないものが不規則に伸び縮みしていた。
前面には、無理やり貼りつけられたみたいな口元が浮いている。
唇だけが妙に生々しい。開いては閉じ、開いては閉じるたび、湿った空気の抜ける音がした。
レンの目が細くなる。
同系統だ。
夜道で追ってきたものと気配は似ている。だが軽い。濃度が足りない。中心じゃない。
外へ伸びてきた先端。
本体から剥がれて動いている端末みたいな感触だった。
少女もそれを見て息を呑む。
けれど悲鳴は上げない。ただ目だけを丸くして、男の手元を見る。
「うわ……ほんとにいたんですか」
「さっきからカサカサうるせえんだよ」
男は、まるで裏口に入り込んだネズミでも摘んだみたいな言い方をした。
黒い塊はその手の中で激しく暴れる。
触手が空気を引っかき、ぴしぴしと乾いた音を立てた。口元のような部分が何かを噛もうとするみたいに歪み、そのたびに、他人の呼気の残り滓みたいな音が漏れる。
レンは半歩前へ出た。
「それ、離せ」
説明のためじゃない。
警告だった。
「そいつ、本体じゃないが危険だ。触るな」
だが、男はレンの声より先に怪異の方を見ていた。
興味を持った野犬みたいな目だった。
「へえ」
口の端だけで笑う。
「じゃあ、なおさらツマミにしかならねえな」
次の瞬間、黒い塊がぐねりと裏返った。
底面から細い触手が何本も弾ける。
先程まで液体のように弛んでいた“それ”が生やした触手は、強張り、硬質な光沢を放っていた。
文字通りの矛先が向いていたのは、男の前腕だった。
ぶす、ぶす、と嫌な音が続く。
ただ刺さるんじゃない。
食い込んだ先へ、そのまま潜ろうとしている。黒が皮膚の下を這い、肉の奥へ入り込もうとする。
「まずい!」
レンの声が鋭くなる。
「そいつ侵食する気だ、離せ!」
少女も目を見開く。
その直後、男の腕から血がどっと溢れた。
じわり、なんて量じゃない。
押し出されるみたいに赤が噴き、手首を伝う。
指の間から滴って、カウンターの木目に落ちる。
床にも跳ねる。白いシャツの袖口が一瞬で汚れる。普通なら、一歩引くか、顔をしかめるか、せめて舌打ちの一つくらい出る量だった。
だが、男は傷口より先に怪異の方を見ていた。
「結構活きがいいじゃねえか」
低く言って、目を細める。
腕から、めきめきと骨が軋む音がしている。
「こいつぁ、食いでがありそうだな」
レンは本気で眉をひそめた。
強がりじゃない。
こいつ、本気でそう言っている。
「おいあんた、聞いてんのか。危ねぇって」
レンが低く詰める。
男はようやく視線だけをこちらへ向けた。
「聞いてる聞いてる。……あー、このケガ? 気にすんな、いつものことだしよ」
その声にも、切迫感がない。
痛みに鈍いとか、我慢強いとか、そういう範囲を少し外れている。
「こんなケガ、つばでもつけときゃ治っちまう」
「治るわけあるか」
レンの反射的なツッコミを、黒い塊の湿った悲鳴が掻き消した。
怪異がもう一度暴れる。
口の群れが一斉に開き、閉じ、噛み合わないまま叫び声らしき形だけを作ろうとする。
だが、男はそれを最後までやらせなかった。
そのまま口を寄せる。
ばり、と湿った音がした。
触手が引き千切れる。
黒い表面が裂ける。いくつもの口が歪み、空気の抜けるような悲鳴が散る。
男は気にせず、もう一口いく。
噛み砕く。
飲み込む。
文字通り、喰っていた。
「味が濃いけど、量がちょっとな~」
呑気な調子で感想を呟きながら、男は咀嚼を続けている。
口の端から、どす黒い墨のような液体が滴っていた。
レンの喉が一瞬だけ詰まる。
危険だ。
異常だ。
だが、その異常さの質が、さっきまで追っていた怪異とも違う。
目の前の男は、危険に襲われた一般人じゃない。
危険を危険として扱ってすらいない。
怪異を踊り食いする存在。
そんなもの、レンは聞いたことがなかった。
男が最後の一欠片を噛み砕くと、店の中に残っていた嫌な気配が、ようやく少しだけ薄くなった。
レンは、そこで初めて男の腕を見た。
傷は浅くない。
触手の刺さった箇所からは、まだ血が流れている。
だが、レンが気にしたのは出血ではなかった。
「……あんた、刺された場所に異常はねえのか」
「あ?」
男が眉をひそめる。
「痛ぇかどうかじゃねえ。指は動くか。感覚はあるか。目は見えてるか。息は苦しくねえか」
「なんでそっちを聞くんだよ」
「ああ、そういうことですか」
横で聞いていた少女が、ぽんと手を打つように口を挟んだ。
「相馬レンさんが気にしてるのは、傷じゃなくて、機能の方ですね」
「機能?」
男が、ますます怪訝そうな顔をする。
「目が見えにくくなるとか、耳が聞こえにくくなるとか、息がしづらくなるとか。あとは、身体が冷えたり、感情のバランスがおかしくなったり。……エトセトラ、エトセトラ」
「へえ。お前、詳しいんだな」
完全に他人事みたいな声だった。
少女は肩をすくめ、にこりと笑う。
「当たり前です。こっちは、ちっちゃい頃からだいたい全部やられて育ってますから」
それから、自分の首元の包帯を軽く指で押さえた。
「被害者界のエリートですよ?」
「嫌な肩書きだな」
「この道歩んで16年!」
少女は、なぜか得意げに自分の腕を曲げて、ポンポンと叩いてみせた。
その横で、男は“言ってて、悲しくなんねえ?”と言いながら、手首を振る。
「……で。異常はあるのか、ないのか」
レンが訊ねる。
「ねえよ」
男は即答した。
「見えるし、聞こえるし、息もしてる。感情のバランスは知らねえ。元からこんなんだ」
「そこは少し疑問を持ってほしいところですね」
少女がぼそりと言う。
「うるせぇ」
男は軽く言い返すと、まだ黒の残った指先をぺろりと舐めた。
「怪異なぁ」
男が、面倒くさそうに言う。
「紗希に寄ってんのか、この店に寄ってんのか、俺にも分かんねぇんだよな」
レンの視線が、男へ向く。
紗希。
そう呼ばれた少女が、カウンターの奥で一瞬だけ動きを止めた。
「……先輩。その言い方、誤解を招きます」
「事実だろ」
「事実を雑に言うから問題なんです」
「まあ、おかげで俺は食いっぱぐれねぇ」
「ほら、また雑に言う」
レンは、返す言葉を一拍失った。
今、かなり重要なことを言った。
たぶん、本人は重要だと思っていない。
この男にとっては、怪異が寄ってくる理由より、それを喰えるかどうかの方が先なのだ。
そして、少女の方も同じだった。
怪異を見ても悲鳴を上げない。
男が腕を刺されても逃げない。
今の発言にも、驚きより先に訂正が来る。
巻き込まれた民間人、なんて分類で片づく相手じゃない。
この二人は一般人じゃない。
そう認めるしかなかった。
レンはその残り香を吸い込み、静かに息を吐く。
やはり、本体じゃない。
夜道で見た白い少女の形。反射の中だけを渡り、声を奪おうとしたあれは、まだ外にいる。
問題はそこだ。
あれは、一度ここへ来ている。
黒の筋は、確かにこの店の前で途切れていた。端末だけが迷い込んだにしては、痕跡の向きが妙だった。餌を探して這い回るだけなら、もっと人通りの多い場所へ向かうはずだ。
なのに、ここへ来た。
喫茶店〈灯〉へ。
なぜだ。
その横で、別方向の悲鳴が上がった。
「あぁっ!」
レンがそちらを見ると、少女は怪異でも男の腕でもなく、カウンターと床へ飛び散った血を見ていた。
「お店が血で汚れちゃうのはまずいですよ、色々と!」
レンは一瞬だけ無言になる。
男も「あ?」という顔をしたが、すぐ納得したように頷く。
「おっ、そうか。わりーわりー!」
軽い。
そう言うなり、男は近くにあった布をひったくると、血の流れる自分の腕をそのまま乱暴に拭いた。
止血というより、汚れを雑に片づける勢いだった。
続いて床に流れ落ちた血液を、ごしごしと遠慮なく擦る。
少女の顔が、一拍遅れて凍る。
「……先輩」
静かな声。
だが怒っている。
男がしゃがみこんだ姿勢で、床を擦りながら振り向く。
「ん?」
「それ」
少女は、彼が握っている布を指差した。
「私が次に使おうと思ってた新品のエプロンなんですけど」
一瞬、店の空気が止まった。
男が手元を見る。
生成り色の布。
そこから二つのひもが垂れ下がっている。
確かにエプロンだ。
しかも、少女が今身につけているものとは別で、折り目のまだ残った新しい一枚だった。今はその真ん中に、男の血が容赦なくべったり広がっている。
「……あ」
「“あ”じゃないです!」
今度ははっきり抗議が飛ぶ。
「なんでよりによってそっち使うんですか! それピカピカの新品なんですよ!?」
「知らねえよ、そこにあったからだろ」
「そこにあったからって雑巾にしていい物と駄目な物があるんです!」
少女が本気で怒っている。
男は腕を貫かれて血を流した直後で、口元にはまだ黒い汚れが残っている。
なのに、二人の間では新品のエプロンの方が大問題として扱われていた。
レンはその光景を前に、ほんの少しだけ無言になった。
危険な怪異を処理しているのに、店の床と新品のエプロンの方が大問題として扱われている。
レンは額の冷や汗を袖で拭いながら、息を大きくついた。
目の前には、怪異を喰う男。
その男を「先輩」と呼び、店の備品を心配する少女。
少女と男は、じり、と互いを睨み合う。
「ぐぬぬ……」
「むむむ……」
下らない喧嘩に巻き込まれた。
レンは、そう思いかけた。
逃げたい。
できれば、すぐにでも距離を取りたい。
だが、逃げた本体より先に、この店とこの二人を確認しないわけにはいかなかった。
黒の痕跡は、ここで途切れた。
端末は、ここに潜んでいた。
そしてこの二人は、それを日常の延長みたいに処理した。
ここを放置して外へ出る方が、後でよほど面倒なことになる。
なら、乗るしかない。
この妙な日常――いや、文字通りの“茶番”に。
「おい」
男が、唐突に言った。
レンは反射的に身構える。
「そこのお前、ちょっとそこで待ってろ」
「……は?」
「審査員はお前だ」
言葉の意味が分からず、レンはしばしの間、目を丸くした。
その横で、少女がまだ不満そうな顔から、しかし妙に素早く気持ちを切り替えた。
「いいですよ。お題は?」
「コーヒーにしよう」
男は顎でカウンターの奥をしゃくった。
「美味くできた方が勝ち。負けた方がエプロン代をもつ。これなら文句あるめぇ」
少女は一拍だけ考える素振りをして、すぐ頷いた。
「いいですね。受けて立ちます」
そしてそのまま、二人の視線が同時にレンへ向いた。
嫌な予感がした。
というか、その予感はもう遅かった。
少女が、ぱっと接客用の笑みを浮かべる。
「無料で絶品コーヒーが飲めるんですよ、お兄さん。ラッキーです!」
レンは数秒、無言になった。
「……えぇ……」
それが、この場で出せた精いっぱいの反応だった。




