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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第4話 踊り食い、のち小競り合い

 男の声が落ちた瞬間、レンの視線もまた、カウンターの下へ引かれた。


 何かいる。


 そう認識した時には、男はもう動いていた。


 しゃがみ込むというより、最初からそこに何が潜っているか分かっているみたいな角度で、迷いなく手を突っ込む。


「ちょ、先輩?」


 少女が短く声を上げる。


 だが、止めるには遅い。


 次の瞬間、男の腕がカウンターの影から引き抜かれた。


 その手には、黒い塊が掴まれていた。


 小さい。


 子供の頭ほどの塊にも見える。だが輪郭は定まらず、煙のようでもあり、濡れた布の束のようでもある。その表面からは、細い触手とも枝ともつかないものが不規則に伸び縮みしていた。


 前面には、無理やり貼りつけられたみたいな口元が浮いている。


 唇だけが妙に生々しい。開いては閉じ、開いては閉じるたび、湿った空気の抜ける音がした。


 レンの目が細くなる。


 同系統だ。


 夜道で追ってきたものと気配は似ている。だが軽い。濃度が足りない。中心じゃない。


 外へ伸びてきた先端。


 本体から剥がれて動いている端末みたいな感触だった。


 少女もそれを見て息を呑む。


 けれど悲鳴は上げない。ただ目だけを丸くして、男の手元を見る。


「うわ……ほんとにいたんですか」


「さっきからカサカサうるせえんだよ」


 男は、まるで裏口に入り込んだネズミでも摘んだみたいな言い方をした。


 黒い塊はその手の中で激しく暴れる。


 触手が空気を引っかき、ぴしぴしと乾いた音を立てた。口元のような部分が何かを噛もうとするみたいに歪み、そのたびに、他人の呼気の残り滓みたいな音が漏れる。


 レンは半歩前へ出た。


「それ、離せ」


 説明のためじゃない。


 警告だった。


「そいつ、本体じゃないが危険だ。触るな」


 だが、男はレンの声より先に怪異の方を見ていた。


 興味を持った野犬みたいな目だった。


「へえ」


 口の端だけで笑う。


「じゃあ、なおさらツマミにしかならねえな」


 次の瞬間、黒い塊がぐねりと裏返った。


 底面から細い触手が何本も弾ける。


 先程まで液体のように弛んでいた“それ”が生やした触手は、強張り、硬質な光沢を放っていた。


 文字通りの矛先が向いていたのは、男の前腕だった。


 ぶす、ぶす、と嫌な音が続く。


 ただ刺さるんじゃない。


 食い込んだ先へ、そのまま潜ろうとしている。黒が皮膚の下を這い、肉の奥へ入り込もうとする。


「まずい!」


 レンの声が鋭くなる。


「そいつ侵食する気だ、離せ!」


 少女も目を見開く。


 その直後、男の腕から血がどっと溢れた。


 じわり、なんて量じゃない。


 押し出されるみたいに赤が噴き、手首を伝う。


 指の間から滴って、カウンターの木目に落ちる。


 床にも跳ねる。白いシャツの袖口が一瞬で汚れる。普通なら、一歩引くか、顔をしかめるか、せめて舌打ちの一つくらい出る量だった。


 だが、男は傷口より先に怪異の方を見ていた。


「結構活きがいいじゃねえか」


 低く言って、目を細める。


 腕から、めきめきと骨が軋む音がしている。


「こいつぁ、食いでがありそうだな」


 レンは本気で眉をひそめた。


 強がりじゃない。


 こいつ、本気でそう言っている。


「おいあんた、聞いてんのか。危ねぇって」


 レンが低く詰める。


 男はようやく視線だけをこちらへ向けた。


「聞いてる聞いてる。……あー、このケガ? 気にすんな、いつものことだしよ」


 その声にも、切迫感がない。


 痛みに鈍いとか、我慢強いとか、そういう範囲を少し外れている。


「こんなケガ、つばでもつけときゃ治っちまう」


「治るわけあるか」


 レンの反射的なツッコミを、黒い塊の湿った悲鳴が掻き消した。


 怪異がもう一度暴れる。


 口の群れが一斉に開き、閉じ、噛み合わないまま叫び声らしき形だけを作ろうとする。


 だが、男はそれを最後までやらせなかった。


 そのまま口を寄せる。


 ばり、と湿った音がした。


 触手が引き千切れる。


 黒い表面が裂ける。いくつもの口が歪み、空気の抜けるような悲鳴が散る。


 男は気にせず、もう一口いく。


 噛み砕く。


 飲み込む。


 文字通り、喰っていた。


「味が濃いけど、量がちょっとな~」


 呑気な調子で感想を呟きながら、男は咀嚼を続けている。


 口の端から、どす黒い墨のような液体が滴っていた。


 レンの喉が一瞬だけ詰まる。


 危険だ。


 異常だ。


 だが、その異常さの質が、さっきまで追っていた怪異とも違う。


 目の前の男は、危険に襲われた一般人じゃない。


 危険を危険として扱ってすらいない。


 怪異を踊り食いする存在。


 そんなもの、レンは聞いたことがなかった。


 男が最後の一欠片を噛み砕くと、店の中に残っていた嫌な気配が、ようやく少しだけ薄くなった。


 レンは、そこで初めて男の腕を見た。


 傷は浅くない。


 触手の刺さった箇所からは、まだ血が流れている。


 だが、レンが気にしたのは出血ではなかった。


「……あんた、刺された場所に異常はねえのか」


「あ?」


 男が眉をひそめる。


「痛ぇかどうかじゃねえ。指は動くか。感覚はあるか。目は見えてるか。息は苦しくねえか」


「なんでそっちを聞くんだよ」


「ああ、そういうことですか」


 横で聞いていた少女が、ぽんと手を打つように口を挟んだ。


「相馬レンさんが気にしてるのは、傷じゃなくて、機能の方ですね」


「機能?」


 男が、ますます怪訝そうな顔をする。


「目が見えにくくなるとか、耳が聞こえにくくなるとか、息がしづらくなるとか。あとは、身体が冷えたり、感情のバランスがおかしくなったり。……エトセトラ、エトセトラ」


「へえ。お前、詳しいんだな」


 完全に他人事みたいな声だった。


 少女は肩をすくめ、にこりと笑う。


「当たり前です。こっちは、ちっちゃい頃からだいたい全部やられて育ってますから」


 それから、自分の首元の包帯を軽く指で押さえた。


「被害者界のエリートですよ?」


「嫌な肩書きだな」


「この道歩んで16年!」


 少女は、なぜか得意げに自分の腕を曲げて、ポンポンと叩いてみせた。


 その横で、男は“言ってて、悲しくなんねえ?”と言いながら、手首を振る。


「……で。異常はあるのか、ないのか」


 レンが訊ねる。


「ねえよ」


 男は即答した。


「見えるし、聞こえるし、息もしてる。感情のバランスは知らねえ。元からこんなんだ」


「そこは少し疑問を持ってほしいところですね」


 少女がぼそりと言う。


「うるせぇ」


 男は軽く言い返すと、まだ黒の残った指先をぺろりと舐めた。


「怪異なぁ」


 男が、面倒くさそうに言う。


「紗希に寄ってんのか、この店に寄ってんのか、俺にも分かんねぇんだよな」


 レンの視線が、男へ向く。


 紗希。


 そう呼ばれた少女が、カウンターの奥で一瞬だけ動きを止めた。


「……先輩。その言い方、誤解を招きます」


「事実だろ」


「事実を雑に言うから問題なんです」


「まあ、おかげで俺は食いっぱぐれねぇ」


「ほら、また雑に言う」


 レンは、返す言葉を一拍失った。


 今、かなり重要なことを言った。


 たぶん、本人は重要だと思っていない。


 この男にとっては、怪異が寄ってくる理由より、それを喰えるかどうかの方が先なのだ。


 そして、少女の方も同じだった。


 怪異を見ても悲鳴を上げない。


 男が腕を刺されても逃げない。


 今の発言にも、驚きより先に訂正が来る。


 巻き込まれた民間人、なんて分類で片づく相手じゃない。


 この二人は一般人じゃない。


 そう認めるしかなかった。


 レンはその残り香を吸い込み、静かに息を吐く。


 やはり、本体じゃない。


 夜道で見た白い少女の形。反射の中だけを渡り、声を奪おうとしたあれは、まだ外にいる。


 問題はそこだ。


 あれは、一度ここへ来ている。


 黒の筋は、確かにこの店の前で途切れていた。端末だけが迷い込んだにしては、痕跡の向きが妙だった。餌を探して這い回るだけなら、もっと人通りの多い場所へ向かうはずだ。


 なのに、ここへ来た。


 喫茶店〈灯〉へ。


 なぜだ。


 その横で、別方向の悲鳴が上がった。


「あぁっ!」


 レンがそちらを見ると、少女は怪異でも男の腕でもなく、カウンターと床へ飛び散った血を見ていた。


「お店が血で汚れちゃうのはまずいですよ、色々と!」


 レンは一瞬だけ無言になる。


 男も「あ?」という顔をしたが、すぐ納得したように頷く。


「おっ、そうか。わりーわりー!」


 軽い。


 そう言うなり、男は近くにあった布をひったくると、血の流れる自分の腕をそのまま乱暴に拭いた。


 止血というより、汚れを雑に片づける勢いだった。


 続いて床に流れ落ちた血液を、ごしごしと遠慮なく擦る。


 少女の顔が、一拍遅れて凍る。


「……先輩」


 静かな声。


 だが怒っている。


 男がしゃがみこんだ姿勢で、床を擦りながら振り向く。


「ん?」


「それ」


 少女は、彼が握っている布を指差した。


「私が次に使おうと思ってた新品のエプロンなんですけど」


 一瞬、店の空気が止まった。


 男が手元を見る。


 生成り色の布。


 そこから二つのひもが垂れ下がっている。


 確かにエプロンだ。


 しかも、少女が今身につけているものとは別で、折り目のまだ残った新しい一枚だった。今はその真ん中に、男の血が容赦なくべったり広がっている。


「……あ」


「“あ”じゃないです!」


 今度ははっきり抗議が飛ぶ。


「なんでよりによってそっち使うんですか! それピカピカの新品なんですよ!?」


「知らねえよ、そこにあったからだろ」


「そこにあったからって雑巾にしていい物と駄目な物があるんです!」


 少女が本気で怒っている。


 男は腕を貫かれて血を流した直後で、口元にはまだ黒い汚れが残っている。


 なのに、二人の間では新品のエプロンの方が大問題として扱われていた。


 レンはその光景を前に、ほんの少しだけ無言になった。


 危険な怪異を処理しているのに、店の床と新品のエプロンの方が大問題として扱われている。


 レンは額の冷や汗を袖で拭いながら、息を大きくついた。


 目の前には、怪異を喰う男。


 その男を「先輩」と呼び、店の備品を心配する少女。


 少女と男は、じり、と互いを睨み合う。


「ぐぬぬ……」


「むむむ……」


 下らない喧嘩に巻き込まれた。


 レンは、そう思いかけた。


 逃げたい。


 できれば、すぐにでも距離を取りたい。


 だが、逃げた本体より先に、この店とこの二人を確認しないわけにはいかなかった。


 黒の痕跡は、ここで途切れた。


 端末は、ここに潜んでいた。


 そしてこの二人は、それを日常の延長みたいに処理した。


 ここを放置して外へ出る方が、後でよほど面倒なことになる。


 なら、乗るしかない。


 この妙な日常――いや、文字通りの“茶番”に。


「おい」


 男が、唐突に言った。


 レンは反射的に身構える。


「そこのお前、ちょっとそこで待ってろ」


「……は?」


「審査員はお前だ」


 言葉の意味が分からず、レンはしばしの間、目を丸くした。


 その横で、少女がまだ不満そうな顔から、しかし妙に素早く気持ちを切り替えた。


「いいですよ。お題は?」


「コーヒーにしよう」


 男は顎でカウンターの奥をしゃくった。


「美味くできた方が勝ち。負けた方がエプロン代をもつ。これなら文句あるめぇ」


 少女は一拍だけ考える素振りをして、すぐ頷いた。


「いいですね。受けて立ちます」


 そしてそのまま、二人の視線が同時にレンへ向いた。


 嫌な予感がした。


 というか、その予感はもう遅かった。


 少女が、ぱっと接客用の笑みを浮かべる。


「無料で絶品コーヒーが飲めるんですよ、お兄さん。ラッキーです!」


 レンは数秒、無言になった。


「……えぇ……」


 それが、この場で出せた精いっぱいの反応だった。

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