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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第20話 養蚕場

 夢の中に、自分がいた。


 いや。


 自分に似た誰かがいた。


 顔はよく見えない。

 輪郭は、霧の向こうに沈んでいる。


 けれど、分かる。


 それは、自分だった。


 自分と同じ声で笑い、同じ手で誰かの手を取っていた。

 同じ歩幅で、同じ道を歩いていた。


 ただ一つだけ、違っていた。


 その自分は、幸せそうだった。


 隣には、誰かがいる。


 名前は思い出せない。


 三文字だった気がする。

 柔らかくて、羽のようで、声に出すだけで胸の奥が少し軽くなるような名前。


 でも、思い出せない。


 夢の中の自分は、その名前を知っている。

 その人の笑い方を知っている。

 手の温度を知っている。


 なのに、目覚めたこちら側の自分だけが、それを知らない。


 知らないはずなのに。


 奪われたような気がした。


 もともと自分のものではないのに。

 最初から、自分が持っていたものではないのに。


 それでも、胸の奥で何かが囁く。


 あれは、僕の幸福だった。


 どこかの自分が持っているのなら。


 それは、僕のものでもあるはずだ。


◆


 一方、鷹宮らがレンたちと別行動を始め、探索を始めてから。

 “そこ”に到達するまで、そう時間はかからなかった。


 休憩室へ向かう途中だった。

 三人が足を止めたのは、倉庫のさらに奥、荷棚と仕切り壁に挟まれた細長い一画。

 鷹宮が先頭に立ち、半歩遅れて白石、そのさらに後ろを海が追っている。


「……休憩室へ向かう途中にしては、ずいぶん嫌な感じの脇道ですね」


 白石が小さく言った。

 鷹宮は答えない。

 一歩、足を踏み入れた瞬間だった。

 音が消えた。

 霧は薄く、視界もある。なのに空間だけが不自然なほど静まり返っていて、耳に入るのは自分たちの衣擦れと呼吸の気配ばかりだった。


「……止まれ」


 鷹宮が低く告げると、白石と海もすぐに足を止めた。

 熱がある。

 肌にまとわりつくような湿気もある。

 だが、それは蒸し暑いというより、何か別のものが空気の中に均一に溶け込んでいるような、不快な重さだった。


「2人とも。この先、空気がおかしいと思わないか?」


 白石が小さく頷く。


「温度が均一すぎます」


「均一?」


 海が首を傾げた。


「まあ、要は不自然ってことだよ、海君」


 自然現象ではない。

 誰かの意図か、何らかの作用がここを支配している――そう考えさせられてしまう。


 鷹宮は慎重に一歩進み、床へ目を落とした。

 濡れている。

 だが、水溜まりではない。

 蒸気が冷えて、じわじわと凝結したものだ。

 そのまま視線を上げる。

 正面。

 行き止まりのコンクリ壁を見たところで、動きを止めた。


「……なんだ、これは」


 行き止まりの壁に、人間が埋まっていた。

 五体。

 横並びではない。

 ばらばらの高さに、ばらばらの姿勢で押し込まれたまま、石膏の中に半ば沈められた標本のように固着している。

 白石が息を呑んだ。


「……人、ですね」


「見れば分かる」


 鷹宮は短く返し、そのまま壁へ近づく。

 白石もその隣まで寄るが、海だけは数歩後ろに残ったままだった。

 一体目は男。

 三十前後。

 表情は強張ったまま固まっており、目立った外傷はない。

 だが、喉元だけが不自然に膨れていた。


「……窒息か」


 鷹宮が小さく漏らす。

 二体目も似ていた。

 胸郭は沈んだまま、動きの痕跡がない。皮膚に焼損も見当たらない。

 三体目で、鷹宮の足が止まった。


「……女?」


 高齢の女性。

 そう見えたのは一瞬だった。

 右半身だけが、おかしい。

 皮膚は滑らかで、皺が消えている。腕の線も細く、若い。まるで別人の身体が、途中から無理やり継ぎ足されたように見えた。


「……いや、違うな」


 すぐに自分で否定する。

 変質している、のか。

 鷹宮は一瞬そう考え、すぐに保留した。

 皮膚や骨格が変わったというより、輪郭がわずかにぶれて見える。元の身体の上に、別の形が薄く滲んでいるようにも見えた。

 だが、断定はできない。

 ここ最近確認されていた行方不明事件の資料が、脳裏をよぎる。


 消えた人間。

 途切れた足取り。

 現場に残されていた、説明のつかない痕跡。


 今見ているものは、それに近い。

 四体目は若い男だった。

 口がわずかに開き、苦悶の途中で止まったような顔をしている。

 その口元に、一瞬だけ柔らかな線が重なった。

 女の口だった。

 瞬きをした次の瞬間には、もう消えている。

 五体目には、組織の制服の一部が見えた。

 見覚えがある。


「……おい、見てみろ」


 鷹宮の声がさらに低くなる。

 白石が隣まで来て、目を細めた。


「……WFAの人間ですね」


 鷹宮には、その顔にも見覚えがあった。

 ただの隊員ではない。

 ここ最近の行方不明事件を追っていた別動隊の補助員だ。失踪者の動線と、現場に残された不明瞭な痕跡を洗っていた男だった。


「この人、別動の補助に回ってた人ですよね」


「ああ」


 鷹宮の声が硬くなる。


「行方不明事件の捜査に入っていた人間だ」


 呟いた声は低く、硬い。

 鷹宮の顎がわずかに強張った。

 海だけは、その場に留まり、壁の向こうを透かして見るように目を細めていた。


「……いる」


 誰にも届かないほど小さな声が、唇の隙間から零れる。

 鷹宮はそれに気づかない。

 白石も反応しない。

 ただ壁に固定された死体を見つめたまま、それぞれに情報を繋ぎ合わせている。

 五つの死体に共通しているのは明白だった。

 外傷がない。

 焼けてもいない。

 そして全員、呼吸だけを止められたように死んでいる。


「……嫌な揃い方してますね」


 白石が低く言った。


「外傷なし、焼損なし。……なのに、全員、呼吸だけ止められたみたいに死んでる」


 鷹宮はもう一度、三体目の女へ視線を戻した。

 半身だけが若い、その異様なずれ。

 見間違いでは片づけにくい。

 だが、いまはそこへ踏み込まない。

 まず見るべきは死因。

 次に手段。

 その先に、ようやく犯人がくる。

 順序を誤れば、全部見失う。

 鷹宮は一歩引き、空間全体を見渡した。

 霧。

 壁。

 埋め込まれた死体。

 ばらついているようで、揃いすぎている状態。

 ここには、答えへ繋がるだけの材料がもう揃っている。

 鷹宮の思考が、静かに動き出した。

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