第15話 私の名前は
ツバキは、歌留多の言葉に一瞬だけ固まった。
逃げた方がいい。
そう言われて、ようやく理解する。
これは、歌留多のいつもの悪ふざけではない。
不知火の炎は、すでに壁の内側へ入り込んでいる。床の隙間にも、鉄骨の継ぎ目にも、天井へ伸びる古い配管にも、赤い熱が這い始めていた。
逃げ道は、まだある。
歌留多が仕掛けていた障害物は、恭介を叩きつけた衝撃と、広がる炎で崩れている。出入口までの道は、かろうじて開いていた。
「……っ、クソ。見せたくなかったのに!」
ツバキが舌打ちする。
床に落ちた自分の影へ、足をかけた。
影の縁が、薄い輪のように歪む。
「“チェンジ・リング”!」
ツバキの身体が、影へ沈んだ。
次の瞬間、出入口付近の別の影から弾き出される。
一瞬だけ振り返った。
歌留多は、まだ倉庫の中にいる。恭介と不知火は、炎の中でぶつかっている。
助けに戻る。
その選択肢が、喉元までせり上がる。
けれど、ここに残れば足手まといになる。
ツバキは歯を食いしばり、視線を切った。
そのまま、倉庫の外へ走る。
――そうして、残ったのは、三人だった。
恭介。
不知火。
歌留多。
炎はさらに広がり、白い霧は濃くなる。
熱い。
だが、それだけではない。
歌留多は、わずかに眉を寄せた。
(……なんだこれ、炎だけじゃない?)
霧が逃げていない。
炎に押されて散るのではなく、炎と混ざるように形を変えている。熱を含んだ白が、床を這い、壁の隙間へ沈み、また別の場所からゆっくり滲み出す。
湿っているはずなのに、喉の奥だけが乾く。
(混ざってる)
何かが。
けれど、それが何なのかまでは分からない。
恭介と不知火は止まらない。
不知火が炎を走らせ、恭介がそれを喰い破る。熱が欠け、黒い口元へ吸い込まれるたび、不知火の顔が苛立ちに歪む。
それでも、不知火は笑っていた。
床へ、壁へ、天井へ。
火を散らし続ける。
「てめえ、往生際悪いぞ! いい加減にしやがれ!」
恭介が舌打ちし、不知火へ踏み込もうとした、その時だった。
天井の一部が崩れた。
恭介も不知火も、舌打ちして身を翻し、瓦礫を回避する。
焼けた鉄骨が落ち、コンクリート片が床に散る。壁に走っていた亀裂が、熱に押し広げられるように大きく裂けた。
その奥から、何かが露出する。
「……!?」
人の形だった。
半分が壁に埋まり、そのまま固定されている。
壁に沈んだまま、こちらを向いていた。
目は見開かれ、口はわずかに開いている。
何かを吸おうとして、そのまま止められたような形だった。
焼けていない。
この場で唯一、不知火の炎の影響を受けていなかった。
「……なんだ、これ」
恭介が止まった。
拳を下ろしたまま、壁の中の人型を見る。
不知火も動きを止めた。
炎が、わずかに揺らぐ。
「これ、てめえの仕業か?」
低い声が漏れる。
その視線が、壁の中の死体に固定された。
数秒、完全な静止が落ちる。
乾いている。
血も、肉も、周囲の熱とは無関係に。
ずっと前からそこにあったように、固まっていた。
「……俺の炎で焼いた人間じゃねえ」
不知火が言った。
即座に。
迷いなく。
恭介が、鼻を鳴らす。
「今燃えた匂いじゃねえ」
焦げた空気の中で、歌留多も死体を見つめていた。
歌留多は、その雰囲気に見覚えがある。
顔そのものではない。けれど、資料か写真か、そういう形で一度見た記憶がある服装、シルエット。
(こいつ、写真で見たやつじゃないか?)
鷹宮たちが探していた、フィアー犯罪者。
今回の本命。
(……なら、どうして本命が死体で出てくる?)
歌留多が一歩、近づく。
壁に埋まった死体の目が、こちらを見ている。
焦点は合っていない。
それなのに、視線だけが合っているように見えた。
その足元に、白い機械が転がっていた。
小型の加湿器。
煤けた倉庫の中で、その白さだけが妙に浮いて見える。
細いノズルの先から、蒸気が漏れていた。
一定の量で、まっすぐに立ち上っている。
風も、炎も、空気の流れも無視していた。
ランプは点いている。
だが、コードがない。
どこにも繋がっていない。
それでも、動いている。
「……加湿器?」
歌留多が、小さく呟いた。
蒸気が、わずかに死体の口元へ流れている。
吸われているように見える。
いや。
吸われていない。
ただ、“そう見える形”だけが成立している。
不知火が、低く息を吐いた。
「こいつ……今回のターゲットだ。だが、何でこんなとこから?」
消えぬ炎が揺らめく中。
誰も、すぐには動かなかった。
その静止を破ったのは、別の壁が崩れる音だった。
炎で脆くなっていたのか。
それとも、内側から押されたのか。
白いものが、壁の奥からずるりと落ちる。
それも、人の形をしていた。
ただし、一体目とは違う。
壁に固定されきっていない。半分だけ埋まったまま止められた死体ではなく、こちらは形を保てないまま、床へ崩れ落ちていた。
全身が、白い膜に覆われていた。
皮膚というより、濡れた蛹の殻に近い。ところどころがひび割れ、内側から乾いた粉のようなものが零れている。
それでも、胸だけがわずかに動いていた。
「……おい」
恭介が眉を寄せる。
「こいつ、生きてんのか?」
「ほんとだ」
歌留多が一歩近づいた。
白い霧が足元に絡む。
床へ崩れたその人影は、息とも痙攣ともつかない動きを繰り返していた。
「あっ、こいつまだ生きてるぞ」
「近づくな」
不知火が低く言った。
だが、歌留多は聞かない。
「おーい、大丈夫か?」
しゃがみ込み、指先で白い肩をつついた。
その瞬間。
白い腕が跳ねた。
歌留多の手首を掴む。
「きゃあっ!」
悲鳴だった。
短く、素の声。
歌留多自身が一番驚いたように目を見開く。
白い手は、細い。
だが、妙に強い。
崩れかけた指が、歌留多の手首に食い込む。
白い膜に覆われた口が、わずかに開いた。
「あげ……は」
声は、息に近かった。
「あげ、は」
歌留多の動きが止まる。
「……ワタシ、は」
白い唇が震える。
「あ、げ、は」
次の瞬間、身体が崩れた。
白い膜が剥がれ、乾いた蛹の殻みたいに床へ散っていく。形を保っていた胴体も、脚も、頭も、音もなく崩れていった。
歌留多の手首を掴んでいた腕だけが、しばらく残る。
やがて、それも指先から崩れ、白い粉になって落ちた。
歌留多は、自分の手首を見下ろしたまま固まっている。
「あ、死んだ」
恭介が、しゃがみ込んだ。
崩れた破片を、じっと見る。
「言い方」
歌留多が小さく抗議する。
恭介は気にしない。
「あげは、っつったな」
白い粉になった残骸を見下ろしたまま、首を傾げる。
「なんだそりゃ。蝶か?」
誰も答えない。
白い霧だけが、ゆっくりと足元を流れている。
恭介は、そこでようやく歌留多を見た。
「……しっかし」
「なんだ」
「“キャー”とか言うんだな。キャラブレすぎだろ、お前」
歌留多の顔が、一瞬で赤くなった。
「うっ……うるさいうるさい! 聞き違いだ!」
「聞き違いであんな声出るかよ」
「出てない!」
「出てただろ」
「出てない!」
歌留多は両手でフードを押さえ、必死に顔を隠す。
だが、その横で、不知火だけは笑っていなかった。
崩れた二体目を見下ろし、口元から表情を消している。
「……こいつもだ」
低い声だった。
歌留多が、そちらを見る。
「こいつも?」
「俺らが追ってた連中の一人だ」
不知火の炎が、指先で小さく揺れる。
だが、その火勢は先ほどより弱い。
怒りなのか、困惑なのか、判別できない揺らぎ方だった。
「一人じゃねえ。複数で動いてた。死体を運び込んでた連中の一人だよ」
恭介が鼻を鳴らす。
「じゃあ、犯人が死体になって出てきたってわけか」
「……そうなるな」
不知火は吐き捨てるように言った。
歌留多は、床に散った白い粉を見る。
鷹宮たちが追っていた犯罪者。
死体を異界へ流していた連中。
その一人が、壁に固定された死体として出てきた。
もう一人は、白い蛹のように崩れながら、“あげは”と名乗って死んだ。
「……なるほど?」
歌留多は小さく呟く。
だが、今度の声には、いつもの得意げな響きがなかった。
分かったようで、分からない。
繋がりそうで、繋がらない。
白い加湿器は、まだ動いている。
コードもないまま。
細いノズルから、一定の蒸気を吐き続けている。
その蒸気が、床へ落ちた白い粉の上を撫でるように流れた。
直後、霧が濃くなった。
ゆっくりと。
だが、明確に。
倉庫の奥も、出口の方角も、白く曖昧になっていく。
炎の音が遠くなる。
崩れかけた鉄骨の軋みも、壁のひび割れる音も、厚い布の向こう側へ押し込められたみたいに鈍くなる。
外の気配が、消えていく。
恭介が顔を上げた。
「……出口の匂いが消えやがった」
低く呟く。
歌留多も、ようやく気づいた。
空気そのものが閉じている。
ここはもう、さっきまでの倉庫ではない。
「……まずいな」
歌留多が呟く。
白い霧が、さらに濃くなる。
不知火の炎すら、その中で輪郭を鈍らせていた。
霧は、今まさに閉じようとしていた。




