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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第15話 私の名前は

 ツバキは、歌留多の言葉に一瞬だけ固まった。

 逃げた方がいい。

 そう言われて、ようやく理解する。

 これは、歌留多のいつもの悪ふざけではない。

 不知火の炎は、すでに壁の内側へ入り込んでいる。床の隙間にも、鉄骨の継ぎ目にも、天井へ伸びる古い配管にも、赤い熱が這い始めていた。

 逃げ道は、まだある。

 歌留多が仕掛けていた障害物は、恭介を叩きつけた衝撃と、広がる炎で崩れている。出入口までの道は、かろうじて開いていた。


「……っ、クソ。見せたくなかったのに!」


 ツバキが舌打ちする。

 床に落ちた自分の影へ、足をかけた。

 影の縁が、薄い輪のように歪む。


「“チェンジ・リング”!」


 ツバキの身体が、影へ沈んだ。

 次の瞬間、出入口付近の別の影から弾き出される。

 一瞬だけ振り返った。

 歌留多は、まだ倉庫の中にいる。恭介と不知火は、炎の中でぶつかっている。

 助けに戻る。

 その選択肢が、喉元までせり上がる。

 けれど、ここに残れば足手まといになる。

 ツバキは歯を食いしばり、視線を切った。

 そのまま、倉庫の外へ走る。




 ――そうして、残ったのは、三人だった。

 恭介。

 不知火。

 歌留多。

 炎はさらに広がり、白い霧は濃くなる。

 熱い。

 だが、それだけではない。

 歌留多は、わずかに眉を寄せた。


(……なんだこれ、炎だけじゃない?)


 霧が逃げていない。

 炎に押されて散るのではなく、炎と混ざるように形を変えている。熱を含んだ白が、床を這い、壁の隙間へ沈み、また別の場所からゆっくり滲み出す。

 湿っているはずなのに、喉の奥だけが乾く。


(混ざってる)


 何かが。

 けれど、それが何なのかまでは分からない。

 恭介と不知火は止まらない。

 不知火が炎を走らせ、恭介がそれを喰い破る。熱が欠け、黒い口元へ吸い込まれるたび、不知火の顔が苛立ちに歪む。

 それでも、不知火は笑っていた。

 床へ、壁へ、天井へ。

 火を散らし続ける。


「てめえ、往生際悪いぞ! いい加減にしやがれ!」


 恭介が舌打ちし、不知火へ踏み込もうとした、その時だった。

 天井の一部が崩れた。

 恭介も不知火も、舌打ちして身を翻し、瓦礫を回避する。


 焼けた鉄骨が落ち、コンクリート片が床に散る。壁に走っていた亀裂が、熱に押し広げられるように大きく裂けた。

 その奥から、何かが露出する。


「……!?」


 人の形だった。

 半分が壁に埋まり、そのまま固定されている。

 壁に沈んだまま、こちらを向いていた。

 目は見開かれ、口はわずかに開いている。

 何かを吸おうとして、そのまま止められたような形だった。

 焼けていない。

 この場で唯一、不知火の炎の影響を受けていなかった。


「……なんだ、これ」


 恭介が止まった。

 拳を下ろしたまま、壁の中の人型を見る。

 不知火も動きを止めた。

 炎が、わずかに揺らぐ。


「これ、てめえの仕業か?」


 低い声が漏れる。

 その視線が、壁の中の死体に固定された。

 数秒、完全な静止が落ちる。

 乾いている。

 血も、肉も、周囲の熱とは無関係に。

 ずっと前からそこにあったように、固まっていた。


「……俺の炎で焼いた人間じゃねえ」


 不知火が言った。

 即座に。

 迷いなく。

 恭介が、鼻を鳴らす。


「今燃えた匂いじゃねえ」


 焦げた空気の中で、歌留多も死体を見つめていた。

 歌留多は、その雰囲気に見覚えがある。

 顔そのものではない。けれど、資料か写真か、そういう形で一度見た記憶がある服装、シルエット。


(こいつ、写真で見たやつじゃないか?)


 鷹宮たちが探していた、フィアー犯罪者。

 今回の本命。


(……なら、どうして本命が死体で出てくる?)


 歌留多が一歩、近づく。

 壁に埋まった死体の目が、こちらを見ている。

 焦点は合っていない。

 それなのに、視線だけが合っているように見えた。


 その足元に、白い機械が転がっていた。

 小型の加湿器。

 煤けた倉庫の中で、その白さだけが妙に浮いて見える。

 細いノズルの先から、蒸気が漏れていた。

 一定の量で、まっすぐに立ち上っている。

 風も、炎も、空気の流れも無視していた。

 ランプは点いている。

 だが、コードがない。

 どこにも繋がっていない。

 それでも、動いている。


「……加湿器?」


 歌留多が、小さく呟いた。

 蒸気が、わずかに死体の口元へ流れている。

 吸われているように見える。

 いや。

 吸われていない。

 ただ、“そう見える形”だけが成立している。

 不知火が、低く息を吐いた。


「こいつ……今回のターゲットだ。だが、何でこんなとこから?」


 消えぬ炎が揺らめく中。

 誰も、すぐには動かなかった。


 その静止を破ったのは、別の壁が崩れる音だった。


 炎で脆くなっていたのか。

 それとも、内側から押されたのか。


 白いものが、壁の奥からずるりと落ちる。

 それも、人の形をしていた。


 ただし、一体目とは違う。


 壁に固定されきっていない。半分だけ埋まったまま止められた死体ではなく、こちらは形を保てないまま、床へ崩れ落ちていた。


 全身が、白い膜に覆われていた。

 皮膚というより、濡れた蛹の殻に近い。ところどころがひび割れ、内側から乾いた粉のようなものが零れている。


 それでも、胸だけがわずかに動いていた。


「……おい」


 恭介が眉を寄せる。


「こいつ、生きてんのか?」


「ほんとだ」


 歌留多が一歩近づいた。


 白い霧が足元に絡む。

 床へ崩れたその人影は、息とも痙攣ともつかない動きを繰り返していた。


「あっ、こいつまだ生きてるぞ」


「近づくな」


 不知火が低く言った。

 だが、歌留多は聞かない。


「おーい、大丈夫か?」


 しゃがみ込み、指先で白い肩をつついた。


 その瞬間。


 白い腕が跳ねた。


 歌留多の手首を掴む。


「きゃあっ!」


 悲鳴だった。


 短く、素の声。


 歌留多自身が一番驚いたように目を見開く。


 白い手は、細い。

 だが、妙に強い。


 崩れかけた指が、歌留多の手首に食い込む。

 白い膜に覆われた口が、わずかに開いた。


「あげ……は」


 声は、息に近かった。


「あげ、は」


 歌留多の動きが止まる。


「……ワタシ、は」


 白い唇が震える。


「あ、げ、は」


 次の瞬間、身体が崩れた。


 白い膜が剥がれ、乾いた蛹の殻みたいに床へ散っていく。形を保っていた胴体も、脚も、頭も、音もなく崩れていった。

 歌留多の手首を掴んでいた腕だけが、しばらく残る。

 やがて、それも指先から崩れ、白い粉になって落ちた。

 歌留多は、自分の手首を見下ろしたまま固まっている。



「あ、死んだ」


 恭介が、しゃがみ込んだ。

 崩れた破片を、じっと見る。


「言い方」


 歌留多が小さく抗議する。

 恭介は気にしない。


「あげは、っつったな」


 白い粉になった残骸を見下ろしたまま、首を傾げる。


「なんだそりゃ。蝶か?」


 誰も答えない。

 白い霧だけが、ゆっくりと足元を流れている。

 恭介は、そこでようやく歌留多を見た。


「……しっかし」


「なんだ」


「“キャー”とか言うんだな。キャラブレすぎだろ、お前」


 歌留多の顔が、一瞬で赤くなった。


「うっ……うるさいうるさい! 聞き違いだ!」


「聞き違いであんな声出るかよ」


「出てない!」


「出てただろ」


「出てない!」


 歌留多は両手でフードを押さえ、必死に顔を隠す。

 だが、その横で、不知火だけは笑っていなかった。

 崩れた二体目を見下ろし、口元から表情を消している。


「……こいつもだ」


 低い声だった。

 歌留多が、そちらを見る。


「こいつも?」


「俺らが追ってた連中の一人だ」


 不知火の炎が、指先で小さく揺れる。


 だが、その火勢は先ほどより弱い。

 怒りなのか、困惑なのか、判別できない揺らぎ方だった。


「一人じゃねえ。複数で動いてた。死体を運び込んでた連中の一人だよ」


 恭介が鼻を鳴らす。


「じゃあ、犯人が死体になって出てきたってわけか」


「……そうなるな」


 不知火は吐き捨てるように言った。

 歌留多は、床に散った白い粉を見る。

 鷹宮たちが追っていた犯罪者。

 死体を異界へ流していた連中。

 その一人が、壁に固定された死体として出てきた。

 もう一人は、白い蛹のように崩れながら、“あげは”と名乗って死んだ。


「……なるほど?」


 歌留多は小さく呟く。

 だが、今度の声には、いつもの得意げな響きがなかった。

 分かったようで、分からない。

 繋がりそうで、繋がらない。


 白い加湿器は、まだ動いている。

 コードもないまま。

 細いノズルから、一定の蒸気を吐き続けている。

 その蒸気が、床へ落ちた白い粉の上を撫でるように流れた。


 直後、霧が濃くなった。

 ゆっくりと。

 だが、明確に。


 倉庫の奥も、出口の方角も、白く曖昧になっていく。


 炎の音が遠くなる。


 崩れかけた鉄骨の軋みも、壁のひび割れる音も、厚い布の向こう側へ押し込められたみたいに鈍くなる。


 外の気配が、消えていく。

 恭介が顔を上げた。


「……出口の匂いが消えやがった」


 低く呟く。

 歌留多も、ようやく気づいた。

 空気そのものが閉じている。

 ここはもう、さっきまでの倉庫ではない。


「……まずいな」


 歌留多が呟く。

 白い霧が、さらに濃くなる。

 不知火の炎すら、その中で輪郭を鈍らせていた。


 霧は、今まさに閉じようとしていた。

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