第14話 そして炎上する会場
旧工業地帯の倉庫棟。
先に動いたのは、不知火だった。
炎が腕を包む。
指先から肘へ、肘から肩へ。赤い熱が皮膚の上を這い、白い霧を押しのけるように広がっていく。
「喰えるもんなら、喰ってみろよ」
不知火が笑った。
次の瞬間、炎をまとった拳が、恭介の顔面へ伸びる。
恭介は避けなかった。
踏み込む。
真正面から。
燃える腕へ、噛みついた。
「……っ」
炎が欠けた。
赤い熱が、恭介の口元へ吸い込まれていく。火の輪郭が乱れ、不知火の腕を覆っていた炎が、噛み千切られたみたいに歪んだ。
不知火の目が、一瞬だけ開く。
「……マジで喰いやがった」
驚き。
だが、すぐに笑みに変わる。
「はは。やっぱりいいなあ、お前」
「味は悪くねえな」
恭介が、口元を拭う。
「ただ、しつけえ。雑味が多すぎる」
不知火がもう一度、炎を腕へまとわせる。
恭介は、それより速く前へ出た。
拳が、不知火の腹へ入る。
「ぐっ。……てめえっ」
身体が折れた。
不知火の足が床を擦り、背後の鉄骨へ肩がぶつかる。
だが、倒れない。
炎を吐き出すようにして、無理やり間合いを作る。
恭介は構わず進む。
炎が顔を焼く。
肩に絡みつく。
腕へ巻きつく。
そのたびに、恭介は噛み砕いた。
赤い熱が欠ける。
欠けた分だけ、不知火の炎は弱まる。
完全には消えない。
けれど、勢いは削れている。
「……っ、そこまで喰うかよ」
不知火の笑みが、わずかに引きつった。
恭介は止まらない。
炎を喰い、霧を割り、一直線に距離を詰める。
また拳が入る。
不知火の頬が歪み、赤い髪が揺れる。身体が横へ流れ、床を踏み直すより先に、恭介の膝が腹へ突き刺さった。
息が詰まる。
不知火の喉から、笑い損ねた音が漏れた。
「調子……乗ってんじゃねえぞ」
炎が広がる。
しかし、恭介はそこへ手を突っ込んだ。
燃える熱を掴み、握り潰すように口へ運ぶ。炎が千切れ、不知火の周囲を覆っていた赤が、一瞬だけ薄くなった。
「火種ごと喰わねえと終わらねえタイプか」
恭介が、低く言う。
「だったら、火元をぶち壊しておかねえとな!」
不知火の表情から、余裕が抜けた。
楽しんでいる。
それはまだ消えていない。
だが、それだけではなくなっていた。
焦りが混じる。
目の前の男は、火を恐れない。
燃やしても止まらない。
喰われる。削られる。そのまま、本体へ届く。
「……ヒ」
不知火の口元が、震える。
「ヒヒ……」
笑い声の形をしていた。
だが、汗が額を伝っている。
不知火の手が、近くに転がっていた鉄パイプへ伸びた。
恭介が一歩、踏み込む。
「くたばれ、化け物が!」
不知火は、炎ではなく鉄を振り抜いた。
鉄パイプが、恭介の額を打つ。
鈍い衝撃が、霧の中へ沈んだ。
恭介の頭が、わずかに横へ振れる。額が割れ、血が片目の端へ流れ落ちた。
それでも、倒れない。
不知火の腕だけが、先に止まっていた。
「っ! 痛えなあ!」
恭介が、低く言った。
額から流れた血が、目元を濡らす。
「目にでも入ったらどうすんだ!」
怒る場所が、そこだった。
頭を殴られたことではない。
血で視界が塞がれることに、怒っていた。
度を超えた耐久力を前提にした、ズレた怒り。
不知火の頬が、ひくつく。
「ヒ、ヒヒヒ……!」
笑い声が漏れる。
だが、もう余裕の笑いではない。
「化け物がよぉ……」
不知火の足元で、炎が揺れた。
腕だけではない。
床へ。
壁へ。
柱へ。
火が、倉庫そのものを探し始める。
恭介が、血の混じった唾を吐いた。
「おい」
声が低くなる。
「逃げんのか」
不知火は、引きつった笑みのまま顔を上げた。
「逃げる?」
炎が、床のひびへ入り込む。
「違ぇよ、まだ終わりじゃねえ。勘違いすんな!」
その声には、焦りと、意地と、歪んだ誇りが混ざっていた。
「俺様の炎を。“ブレス・トゥ・バーン”をよ。こんなもんだと思われちゃ困るぜ」
不知火の足元で、炎が広がった。
腕から溢れたわけではない。
床のひびへ入り込む。
壁の内側へ潜る。
鉄骨の継ぎ目を舐めるように這い上がる。
燃え移っている、というより、火の置き場を増やしているようだった。
倉庫そのものを、火種に変えていく。
「チッ……!」
恭介が前に出る。
床から立ち上がった炎を噛み砕く。赤い熱が欠け、黒い口元へ吸い込まれた。
だが、次の瞬間には、別の場所が燃えている。
壁。
柱。
天井へ伸びる鉄骨。
火は一つではない。
不知火の足元から、倉庫全体へ散っていく。
「面倒な燃え方しやがる」
恭介が低く吐き捨てる。
「火種散らしてんじゃねえぞ」
「喰えるなら喰えよ、火以外も食えるんならな!」
不知火が笑った。
額には汗が滲んでいる。
声も、さっきより少しだけ荒い。
それでも笑っていた。
焦りを、炎で塗り潰すみたいに。
「床も、壁も、天井も、全部まとめて喰ってみろよ」
炎が、壁を這い上がる。
古い塗装が焦げ、鉄骨が熱を持ち始める。倉庫の奥で、何かが軋んだ。白い霧が赤く照らされ、逃げ場を失ったように低く淀む。
恭介は、炎を喰いながら不知火へ迫る。
ただし、まっすぐ届かない。
床から炎が上がる。
壁から熱が押し寄せる。
頭上から、焼けた埃が落ちてくる。
不知火本人ではなく、倉庫そのものが攻撃になっていた。
「箱ごと燃やしゃ、どいつも一緒だろ」
不知火が、歯を剥く。
「化け物だろうが、異界のガキだろうが、逃げ場がなきゃ燃える」
「てめえ……!」
恭介が踏み込む。
その足元で、床板の隙間から炎が噴き上がった。
恭介はそれを噛み潰す。だが、その一瞬で不知火が距離を取る。
逃げたのではない。
倉庫の奥へ火を流すために、位置を変えた。
恭介の額から流れた血が、また片目の端を濡らす。
「クソが」
乱暴に袖で拭う。
「まとめて喰われてえなら、そう言えよ」
「ヒヒ……!」
不知火が喉を鳴らす。
「やってみろよ。俺様ごと、この倉庫ごとな」
熱が膨らんだ。
壁の内側から、低い音が響く。鉄骨が悲鳴を上げるように歪み、天井のどこかで焦げた破片が剥がれ落ちた。
炎は、もう不知火の周囲だけに留まっていなかった。
倉庫の奥半分は、すでに赤く染まり始めている。壁際の棚に火が移り、床のひびを走った炎が、天井近くの鉄骨へ細く絡みついていた。
出口側までは、まだ届いていない。
だが、熱だけは先に回っていた。白い霧とも蒸気とも違う、乾いた熱が、入口までの空気をゆらゆらと歪ませている。
その横で、ツバキが一歩下がる。
「……これ、マズいでしょ」
視線は戦闘から外さない。
だが、足は出口の方へ向いていた。
歌留多が仕掛けていた障害物は、もう形を保っていない。恭介を叩きつけた衝撃と、広がる炎に崩され、逃げ道だけはかろうじて開いていた。
今なら、まだ出られる。
その判断が、ツバキの目に浮かぶ。
「おっと」
不知火の声が、炎の向こうから飛んだ。
「逃げても意味ねえぞ?」
恭介と殴り合いながら、笑う。
「全部焼くからな」
不知火の宣言ともとれる言葉に、ツバキの表情が歪む。
「……っ、あいつ……!」
その隣で、歌留多は炎の流れを見ていた。
口元を、への字に曲げる。
「うぇー」
歌留多が、心底嫌そうに声を漏らした。
「あいつホントにイカれてるんだな」
炎が天井へ這い上がる。
熱で歪んだ空気の中、恭介と不知火の影がぶつかり、また離れた。
歌留多は、ツバキの方を見ずに言う。
「……ツバキ、逃げた方が良いかもだ」
少しだけ間を置く。
「あいつ、建物ごと全員殺すつもりだぞ」




