第13話 パーティ会場は工場地帯
カップの底に残ったコーヒーの粉を、軽く叩き落とす。
静かな音が、厨房に響いた。
湯気。コーヒーの香り。いつも通りの〈灯〉の空気。
――の、はずだった。
「……一人でやる仕事量じゃないでしょ、これぇ」
紗希は溜息をついてから、ふと顔を上げた。
カウンターの向こうへ視線を向ける。
誰もいない。
いつもなら、そこにいるはずの男がいない。
椅子が少しだけ引かれたままになっている。カップも、そのまま。飲みかけ。
途中で立った形だった。
「……あの人」
静かに呟く。
怒鳴らない。大きくため息もつかない。ただ、口元だけがわずかに歪む。
「また、逃げましたね」
にこりと笑う。
そのまま、手元の布巾でカウンターを拭いた。動きはいつも通り。けれど、ほんの少しだけ力が強い。
「掃除、頼んだはずなんですけど」
机の端に、拭き残しがある。
わざと雑に済ませた跡。すぐ分かる。
「……帰ってきたら」
布巾を、ぎゅっと絞る。
水が滴った。
「どうして、やりましょう、かねえ!」
声は柔らかい。笑顔も変わらない。
だが、その奥に、わずかな棘があった。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。
短い振動。
紗希の手が止まる。
スマホを取り出し、画面を見る。知らない番号。知らないアドレス。通知だけが浮かんでいる。
親指で開く。
メッセージだった。
『お友達は、みんな君を待ってる。ついに始まるよ』
短い。
意味は分からない。けれど、その下には位置情報が添付されていた。
地図が開く。
表示された場所は、橙原町の外れ。工場地帯。
美和が見せてきた、あの白い動画の場所。
オキクムシ、という雑な名前で呼ばれていた噂の中心。
「……分かりやすい罠ですねえ」
紗希は、しばらく画面を見つめる。
警戒。
違和感。
そして、少しだけ呆れ。
「……どうせいなくなってるってことは、先輩が絡んでるんだろうなあ」
ぽつりと呟く。
「ほんとに、もう」
くす、と笑う。呆れたように。少しだけ、楽しむように。
「巻き込むくらいなら、仕事をきっちりこなしてからにして欲しかったな」
エプロンを外し、椅子の背にかける。
鍵を手に取った。
店内を一度だけ見回す。
静かな〈灯〉。何も変わらない。日常。そのまま。
ドアへ向かう。
手をかけて、一瞬だけ止まる。
「……」
考える。
ほんの少しだけ。
そして。
「まあ、いいでしょう」
扉を開けた。
夜の空気が流れ込む。ひんやりとした風。けれど、どこか湿っている。
外へ出る。
扉を閉め、鍵をかけた。
振り返らない。
そのまま、歩き出す。
街灯の明かりが、途切れていく。
住宅地を抜ける。人通りが減る。音が減る。
やがて、工場地帯の入口が見えてきた。
古びた看板。
錆びた柵。
その向こう。
白い。
「……霧?」
紗希は、足を止めた。
遠目にも分かる。地面に沿って広がる白。
だが、妙だった。
揺れていない。
風があるはずなのに、流れていない。
ただ、そこに“ある”。
「……変ですね」
一歩、近づく。
白と外の境目。
紗希は手を伸ばした。
指先が、霧に触れる。
ひんやりとした感触。
普通の霧。の、はずだった。
「……あれ?」
指を離す。
霧が動かない。
触れたのに、揺れない。戻らない。
紗希は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……ただの噂話にしては、手触りがありますね」
もう一歩、踏み込む。
霧の中へ。
視界が、白くなる。
だが、完全には遮られない。数メートル先は見える。それ以上は、ぼやける。
音が、少し遠くなった。
足音が柔らかくなる。
呼吸をする。
空気が、少し重い。
「……湿ってるのに」
胸に手を当てる。
制服のシャツの感触を確かめながら、紗希は小さく首を傾げた。
「乾く、感じ……?」
言葉にしてみる。
しっくり来ない。
だが、違和感ははっきりしている。
視線を上げた。
霧の奥。
うっすらと、光が見える。
赤い。
揺れている。
「……そして。この湿度で、火事ですか」
小さく呟く。
炎。
倉庫の方角。
紗希は、そのまま歩き出した。
迷いはない。
恐怖も、ない。
ただ、少しだけ興味がある。
「……また、面白いことに、なってますね」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
そして。
霧の奥へ。
紗希は、消えていった。




