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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第10話 マッドサイエンティスト

 鉄扉の内側で、何かが暴れていた。

 鈍い衝撃が、断続的に扉を歪ませる。

 金属の軋む音が、薄く白い霧の中に広がっていった。

 倉庫の中は、白い。

 霧が充満している。

 ただし、外のそれとは違う。

 流れず、滞留し、熱を持ったままその場に留まっている。

 逃げ場を失った水蒸気が、無理やり押し込められているようだった。


「……こんなことして、本当に来るのかしら」


 ツバキが腕を組み、鉄扉の奥を見る。


「ふふん」


 歌留多が鼻を鳴らした。


「私の作戦は完璧なのだ」


 その奥に、“それ”がいる。

 輪郭は獣に近い。

 四足の、大型の何か。

 だが、それは一匹で完結している怪異ではなかった。


 頭が足りない。

 喉が足りない。

 背中から伸びる黒い枝が、何かを探すように空中を掻いている。

 低い唸りが、ひとつではなく、三つの喉で重なり損ねたように歪んでいた。


「“あれ”なら、絶対に来る」


 歌留多が、倉庫の奥を指す。

 怪異が、また鉄扉へ体をぶつけた。

 扉が内側から大きくたわむ。

 蝶番が悲鳴を上げるように軋んだ。

 だが、開かない。


「そもそも、どうやって捕まえたのよあんなの。どう見ても猛獣そのものじゃない」


 ツバキは視線を逸らさない。

 だが、足は半歩だけ引いている。


「それに、あれ。一匹で完結してないわよ」


 ツバキは、倉庫の奥を睨んだ。


「何かを呼んでる。というか、戻ろうとしてる。……足りない部分を探してるみたい」


「だから餌になる」


「言い方!」


 ツバキが即座に噛みつく。

 歌留多は悪びれない。


「戻ってくるなら、追ってくるやつもいる。追ってくるやつがいれば、あの喰うやつも来る」


「理屈は分かるけど、言い方とやり方が最悪なのよ」


「効率的、と言ってくれ?」


「言わないわよ」


 ツバキはため息をついた。

 倉庫の奥で、怪異がまた身をよじる。

 背中の黒い枝が、霧の中で何かを縫い合わせるようにうごめいた。


「それでどうやったの、あれは。……結構強そうだけど。」


「そこはそれ」


 歌留多が笑う。


「私の“栄光の手”なら、造作もないことなのだ」


 言葉と同時に、奥の空気がわずかに歪む。

 怪異の輪郭が、一瞬だけ引き寄せられた。

 見えない手に掴まれたように、胴体が横へねじれる。

 すぐに、元へ戻った。


「……ああ、なるほどね」


 ツバキが息を吐く。


「そういえば、あんたなら無理矢理できたわね。ほんと、馬鹿力っていうか……」


「褒めているのか、それは」


「半分くらいはね」


「半分かよ〜」


 歌留多は少し不満げに頬を膨らませる。

 その仕草だけなら、年相応の子供に見えた。

 だが、視線は違う。

 倉庫の奥で暴れる怪異を見ている目は、無邪気というより、観察者のそれだった。


「……コホン。さてと、観察対象は、条件を揃えた方がいい」


 歌留多は腕を組み、得意げに言う。


「逃げられない。壊せない。動く」


「だから?」


「それで十分だ」


 歌留多は、むふー、と鼻から息を吐いた。

 ツバキは横目でそれを見る。


「あんた、その口調のとき、ちょっとテンションおかしいのよねえ」


「ええー、そうか? 研究者としてのキャラクターは徹底しているつもりなんだがな」


「徹底する方向が間違ってるのよ」


 その時だった。

 外の空気が、わずかに揺れた。

 足音が近づく。

 一定のリズム。

 迷いがない。

 ただし、人間のものではない。

 爪が、コンクリートを叩く音だった。

 倉庫の奥で、閉じ込められていた怪異が反応する。

 背中の黒い枝が、一斉に扉の方を向いた。

 ツバキが息を止める。


「……来た?」


 歌留多が笑った。


「うん。計画通りだぞ」


「んなアホな……」


 次の瞬間、鉄扉の外側に何かが叩きつけられた。

 獣の唸り声。

 だが、それより低い声が、外から落ちた。


「邪魔だ」


 鈍い衝撃。

 扉の向こうで、何かが壁に叩きつけられる。

 黒いものが潰れる湿った音が、鉄扉越しに響いた。

 そして、足音が一つ残る。

 人間の足音だった。

 ツバキの顔が、引きつる。


「……ねえ。あれ、もしかして」


「来たな」


 歌留多は満足げに頷いた。


「やはり私の作戦は完璧――」


 軽い衝撃が、鉄扉に伝わった。

 押される。

 だが、開かない。

 外にいる男は、すぐに理解した。

 壊せないのではない。

 押さえられている。

 扉の端が、少しずつずれた。

 金属が歪み、隙間から白い霧が外へ逃げる。

 熱を持った空気が、押し出されるように漏れた。

 その隙間に、影が差した。


「……食い足りねえ」


 低い声。

 男の足元で、黒い獣の残骸がずるりと崩れた。


「一匹じゃ足りねえ」


 ぼさついた黒髪の奥で、三白眼が鈍く光る。

 常盤恭介が、倉庫の中へ踏み込んだ。



 常盤恭介が、倉庫の中へ踏み込んだ。

 その視線は、歌留多にもツバキにも向いていない。奥に閉じ込められた怪異だけを、まっすぐ捉えている。

 見えている、というより、黒の濃い方を嗅ぎ分けているようだった。


「なんだこれ」


 恭介は一歩、倉庫の奥へ踏み込む。熱を持った霧が、足元で薄く割れた。


「押し込められてたみてえだな」


 罠かどうかを読む気はない。そこに黒があり、喰えるものがある。恭介の動きは、それだけで決まっていた。

 怪異が反応する。

 欠けた頭部が、無理やり恭介の方へ向いた。背中の黒い枝が霧の中で震え、次の瞬間、獣の輪郭がまっすぐ突っ込んでくる。

 速い。

 だが、恭介は避けなかった。


「おせぇ」


 前へ出る。

 拳が、怪異の頭部へめり込んだ。

 獣の輪郭が霧の中で潰れ、黒い枝が暴れる。それでも怪異は止まらない。崩れた形を無理やり繋ぎ直し、再び恭介へ食らいつこうとする。


「……へえ」


 恭介の口元が歪んだ。

 今度は拳ではなく、掴んだ。指が霧の奥へ沈む。曖昧な輪郭の奥に、確かな“芯”がある。


「そこか」


 引き寄せる。

 怪異が暴れる。恭介は構わず、その芯へ噛みついた。

 そして、そのまま顎を引き、首の角度を大きく傾けた。

 同時に、噴水のように噴き出す血飛沫。

 黒い体液と霧が混ざり合う。怪異の身体が大きく痙攣した。

 恭介は喰う。

 引き裂き、叩きつけ、動きが鈍ったところをさらに喰らう。それは戦闘というより、解体に近かった。

 怪異の輪郭が崩れていく。背中の黒い枝が、何かを探すように空を掻いたが、もうどこにも届かない。

 やがて、怪異は完全に沈黙した。

 倉庫の中から、暴れていた音が消える。残ったのは、恭介の呼吸と、黒い体液が床へ滴る音だけだった。


「……なるほど?」


 歌留多が呟いた。

 フードの奥から、恭介をじっと見ている。


「……あれを“喰う”のか」


 少しだけ間を置いて、歌留多は小さく頷いた。理解した、というより、理解した“つもり”になった顔だった。


「納得するところなの、それ……?」


 ツバキが引いた声を出す。

 歌留多は答えない。

 その視線の先で、恭介が口元を拭った。黒く汚れた手の甲を一度見てから、ゆっくりと振り向く。


「……なんだ、こいつら。どこに隠れてやがった」


 低い声だった。

 警戒というほどではない。ただ、邪魔なものを確認するような声。

 歌留多は、わずかに首を傾げる。


「恭介とか言ったな」


「ちょっと、待ちなさい」


 ツバキが一歩前に出た。


「まだ敵って決まったわけじゃないでしょ」


 だが、歌留多は見ない。


「……なるほど」


 小さく呟く。何かが繋がった“気”になっている。


「やっぱり危ない奴にしか見えないな」


「だから待ちなさいって」


「壊れるかだけ、試してみよう!」


「人の話を聞きなさい!」


 ツバキの声は、もう遅れていた。

 歌留多が一歩、前へ出る。その拍子に、フードが少しだけずれた。

 白っぽい髪と、小さな顔が覗く。

 恭介は眉を寄せた。


「てめえ、そんな顔してやがったか。やっぱガキじゃねえか」


 歌留多は、慌てて両手でフードを引き下ろす。


「だからガキじゃない! あと、人の髪を見るな!」


 見えたのは、小さな顔だけのはずだった。

 それなのに、恭介の腹の底が、わずかにざらつく。見たいような、見たくないような、不快感だけが喉に引っかかった。

 恭介は舌打ちする。

 昼間、店でつついてきた小さい影を思い出した。


「……何の用だよ。つついたって何も出てきやしねえぞ。チビガキ」


 歌留多は答えない。

 ただ、まっすぐに恭介を見る。

 そして。


「ガキじゃなーーーい!!」


 空気が止まった。

 ツバキが息を吸う。


「――待っ」


 歌留多の足が、地面を蹴った。

 小さな体が、一瞬で距離を消す。フードの影が、恭介の視界へ飛び込んだ。

 重い衝撃が、倉庫の空気を震わせる。


「痛ってー!?」


 恭介の体が宙に浮き、そのまま壁へ叩きつけられた。

 コンクリートが砕け、鉄骨が軋む。黒く汚れた飛沫が、霧の中へ散った。


 恭介は床へ落ち、そのまま動かなくなった。

 音が消える。

 滴る音だけが残る。

 ツバキが固まり、歌留多は着地した姿勢のまま、じっと壁際を見ていた。


「フン、人をガキだって言って舐めてるから、こう言う目にあうのだ!」


 数秒、何も起きない。

 その次の瞬間。

 壁際に崩れていた体が、動いた。

 恭介が、ゆっくりと体を起こす。血と黒い汚れが、顔の半分を覆っていた。

 歯を鳴らす。

 首を鳴らす。


「……てめえ」


 顔を上げる。

 口の端から血を垂らしたまま、笑った。


「てめえみてえなガキはよ」


 一歩、踏み出す。足音が、霧の中で重く響いた。


「しっかり躾けてやらねえとなぁ!!」


 完全にキレていた。

 その様子を、歌留多はわずかに目を細めて見ていた。


「ほう」


 小さく、感心する。


「壊すつもりで蹴ったんだが」


 首を傾げる。


「凄まじい生命力だな」


 一拍。


「……なるほど?」


 納得した“つもり”で、頷いた。


「ちょっと待ちなさいって言ったのに!」


 ツバキが叫ぶ。

 だが、もう止まらない。

 恭介が、さらに一歩踏み出す。


 倉庫の中の温度が、わずかに上がった。霧が揺らぎ、誰も動いていないのに、空気だけが先に逃げ始める。

 その境界線を、恭介が越えた。


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