第9話 「店員さん」
喫茶店〈灯〉を出て、二人の女が夜道を歩いていた。
「この時間、人少なくて穴場なんだよね」
「分かる。静かだし、コーヒー美味しいし」
「しかも店員さん、レベル高くない?」
「あの子? ワイルド系イケメンって感じの?」
「そうそう。ちょっと怖そうだけど、結構スラっとしてるし」
「でもさ、店主のJKとすっごい仲良さそうじゃなかった?」
「付き合ってるでしょ、あれは」
「やっぱり?」
「距離感がもうそういうやつだった」
二人は笑いながら、街灯の下を抜けていく。
「そういえば聞いた? この喫茶店の周り、オバケ出るんだって。オバケ!」
「オバケって……ずいぶんざっくりした言い方するじゃん」
「なんか、色んな怪談話が入れ代わり立ち代わり、って感じみたいよ?」
「まあ、JKに制服のまま接客させたら、そりゃ変態も湧いてくるってもんでしょ~」
「そっちのオバケじゃないと思うけど」
スマホが震えた。
「あれ、通知?」
画面を見る。
何も表示されていない。
ただ、液晶の端を、黒い染みのようなものが一瞬だけ横切った。
「……バグった?」
「古いんじゃない?」
「いや、先月買い替えたばっかなんだけど」
笑いながら歩き出す。
その笑い声が、路地に入ったところで、少しだけ細くなった。
街灯が少ない。
風が冷たい。
どこかから、甘く腐ったような匂いがした。
「……何、この匂い」
「ゴミ?」
爪の音がした。
かつん。
かつん。
犬、に見えた。
けれど、違った。
背中から、黒い枝が生えている。
顔の目の位置がおかしい。
口が、裂け目みたいに開いた。
「……え」
前方の路地に、一体。
背後の暗がりに、もう一体。
逃げ道が、塞がれていた。
「ちょ、なに、犬?」
「犬じゃないでしょ、あれ……!」
片方が後ずさる。
足がもつれた。
鞄が落ちる。
黒い獣が、低く唸った。
その声は、一匹のものではなかった。
複数の喉が、同時に鳴っているみたいだった。
「やだ、やだやだやだ……!」
獣が飛んだ。
その瞬間。
何かが、横から突っ込んできた。
人だった。
さっきまで喫茶店で、気だるそうに皿を下げていた店員だった。
男は、黒い獣の頭を片手で掴んだ。
そのまま、壁へ叩きつける。
鈍い音がした。
「下がってろ」
低い声。
言われるより先に、二人は動けなかった。
男は獣の背中から伸びた黒い枝を掴む。
引き千切った。
黒い飛沫が、壁に散る。
獣が暴れる。
男は、それを床へ叩き伏せた。
助かった、と思った。
その直後、その考えは消えた。
男は、助けに来た人間の動きではなかった。
獣を止めるのではなく、壊していた。
黒い獣の喉元へ、男が顔を近づける。
噛んだ。
喰っている。
そう見えた。
黒いものが、獣の身体から引きずり出され、男の口元へ吸い込まれていく。
獣が痙攣する。
男は、動かなくなったそれを見下ろし、最後に首元を踏み砕いた。
怖い。
獣が怖いのではない。
その獣を、何の迷いもなく壊している男の方が、ずっと怖かった。
「て、店員、さん……?」
返事はなかった。
もう一体の獣が、低く唸る。
男が振り向く。
その瞬間、獣は跳ねるように逃げ出した。
逃げた。
そう見えた。
けれど、男は舌打ちした。
「逃げてんじゃねえな」
夜の奥を見る。
見えているのかどうか分からない目で、男は暗がりの先を睨んでいた。
「戻ろうとしてやがる」
獣は路地の奥へ駆ける。
工場地帯の方角だった。
男の口元が、獣みたいに歪む。
「……工場地帯か。確か、オキクムシがどうのとか言ってたな」
男は一歩、踏み出した。
「ついでにそいつも、喰えるか試してみようじゃねえか」
「え……」
「ちょ、ちょっと、店員さん……?」
男は振り返らない。
黒い獣を追って、夜道の奥へ走っていく。
足音はすぐに遠ざかった。
残された二人は、しばらく動けなかった。
「今の、何……?」
「分かんない……」
さっきまで二人が噂していた“店員さん”は、もうどこにもいなかった。
夜道には、潰れた黒い染みと、甘く腐った匂いだけが残っていた。




