第8話 工場地帯のすれ違い
ポケットの中で、短く振動が走った。
レンは歩みを止めないまま、端末を取り出す。
黒い画面に、文字だけが浮かぶ。
《VEIN》
「来い」
位置情報
(……短いな)
それ以上の説明はない。
だが、送り主を考えれば、用件の種類くらいは察しがついた。
レンは一度だけ息を吐き、端末をポケットに戻す。足の向きを変えた。
街の灯りが、背後に遠ざかっていく。
舗装は次第に荒くなり、歩道の端には錆びたフェンスが増え始める。人通りは減り、代わりに古い倉庫とコンテナの影が、街灯の届かない場所で黒く沈んでいた。
やがて、剥き出しの配管が頭上を走る区域に入る。
潮の匂いに、油と鉄が混じっている。
風が強い。
どこかで、金属が鳴った。
――カン。
――カン。
遠くで波の音がする。
人の気配はない。
最初から、そんなものは存在していないような静けさだった。
(連中の狙いが、結局分からねえ)
レンは、足を止めなかった。
(恐らくだが、恭介だけが狙いじゃないはずだ)
昼間の喫茶店での騒動。
黒いジャケットの男。
赤髪の男。
眼鏡の男。
フードの少女。
ゴシック調の少女。
そして、恭介に向けられた視線と、店内で使われた〈石抱〉。
あれは、ただの確認ではない。
危険度の測定。
利用価値の検分。
あるいは、排除対象としての確認。
そのどれにも見えた。
(俺一人で話すことで、漏れてくる情報はあるはずだ。同じ組織の人間として、な)
外周ゲートを抜け、さらに奥へ進む。
搬入通路の向こう側に、開けた場所が見えてきた。
崩れたコンクリート。
錆びた鉄骨。
月光に照らされた工場跡地。
中央に、人影があった。
レンは、数歩手前で止まる。
鷹宮。
その右に、不知火。
少し外れた位置に、海。相変わらず、眼鏡の奥の瞳は、どこか遠くを見据えているようだった。
そして、壁にもたれかかるようにして、もう一人の男がいた。
昼の騒動の際、喫茶店にはいなかった人物。
だが、“鷹宮の右腕”として名の知れた男だ。もちろん、レンも名前くらいは知っている。
(確か、能力がやたら強力らしいって聞いたな。鷹宮が重宝してるとかいう)
名前は、白石。
その白石が、壁にもたれたまま、眠そうに片手を上げた。
「やあ、初めまして。副隊長の白石だよ。相馬レンくんだよね」
「……初めまして、でいいんすよね」
レンは軽く目を細める。
「名前だけは知ってます。鷹宮隊の副隊長さん」
「うん。僕も名前だけは知ってる」
白石は、眠たげな顔のまま笑った。
「昼間は僕も、例の喫茶店ってやつに行ってみたかったんだけどね。“安静にしておけ”って話になっちゃったもので」
そう言って、白石は自分の脇腹あたりを軽く押さえた。
レンの視線が、そこへ落ちる。
服の下に、包帯か、応急処置の布でも巻いているのだろう。立ってはいるが、体重のかけ方が少しだけ不自然だった。
「……ああ、隊長さんの指示なんすね」
「ちょっと違うよ」
白石は、ゆるく首を振る。
「まあ、占いみたいなものだね。夢占いとでも言おうかな?」
「夢占い?」
レンの眉が、わずかに動いた。
「それ、ただの比喩じゃなさそうっすね」
「比喩じゃない方が、仕事では役に立つからね」
白石はそれ以上、説明しなかった。
その緩さが、逆に厄介だった。
冗談めかしているのに、冗談ではない。
眠そうなのに、何かを見落としているわけではない。
そういう種類の男なのだと、レンは短く判断する。
少し距離を置いた場所には、二人の少女がいた。
深いフードの少女と、ゴシック調の少女。
歌留多と、ツバキ。
昼間の喫茶店では、鷹宮の連れてきた異物のように見えた二人。だが、こうして旧工業地帯の月明かりの下に立っていると、むしろこちら側の方が似合っているようにすら見える。
人間の施設の廃墟に、人間ではない気配を持つ少女が立っている。
それだけで、場所の意味が少しずれる。
「来ると思っていた」
鷹宮の声は、風に流れない。
重いまま、場に落ちた。
「呼び出しといてそれかよ」
レンが返す。
声の調子は軽い。だが、足は動かない。距離は詰めない。
その時だった。
「……事情に興味はないが」
歌留多が、ふと顔を上げた。
風が、フードを揺らす。
「WFAとかいったっけか? 組織の中での話が始まるみたいだな」
視線は、もう別の方向を見ている。
「私たちは蚊帳の外ってわけだ」
そう言って、歌留多は小さく欠伸をした。
もう興味を失っているのが見てとれる。
「それはつまんないな。……というわけで、私はこれで」
「待て」
鷹宮の声が飛んだ。
歌留多は、片足を浮かせたまま、面倒くさそうに振り返る。
「なんだ」
「遠くへ行くな。まだ君たちを完全に信用したわけではない」
「こっちもだぞ」
歌留多は、悪びれずに言った。
「だから、見えるところにいろと言っている」
「見えるところ、ねえ」
フードの奥で、歌留多が小さく笑う。
「お前らの目で見えるところが、私のいるところとは限らんぞ」
「もー、屁理屈でゴネるのやめなさいって!」
ツバキが横から怒鳴った。
「だって、つまらないんだもん」
「だもん、じゃないわよ。あなたね、自分がどういう状況か分かってる?」
「分かってるぞ」
「じゃあ言ってみなさい」
「えーと」
歌留多は、少し考えるように首を傾げた。
「知らないところに来て、知らないやつらに囲まれて、知らない組織の話が始まりそう」
「分かってるなら大人しくしてなさい!」
「嫌だ」
「即答するな!」
ツバキが頭を抱える。
歌留多は、その隙に地面を蹴った。
「じゃ、そういうことで! ……ドロン!」
身のこなしは、紙のように軽い。
月明かりに白い袖だけが一瞬揺れたかと思うと、そのまま影へ滑り込むようにして、文字通り、音もなく消えた。
「ああっ、待ってよ歌留多!」
ツバキが慌てて声を上げる。
「……もう、また迷子になられたら困るわよ!」
そう言いながら、ツバキは駆け出した。
その横を、不知火がすれ違う。
ほんの一瞬。
赤髪の男の指先が、ツバキの袖口に触れた。
「……今、触った?」
ツバキが足を止め、不快そうに振り返る。
「悪い悪い。狭かったもんでな」
不知火は笑って、両手を軽く上げた。
「気色悪い。次やったら指を折るわよ」
「怖ぇなあ」
不知火は、口元だけで笑う。
ツバキはまだ不審そうに彼を睨んでいたが、すぐに歌留多の消えた方向へ視線を戻した。
「本当に、もう……!」
舌打ちするように息を吐き、ツバキも闇の中へ駆けていく。
靴音が数回、コンクリートを叩いた。
それもすぐに、風と金属音の中へ消えた。
残された空気が、少しだけ沈む。
だが、誰もそれを追わない。
一筋の風だけが、工場跡地を吹き抜けた。
「で」
レンが口を開く。
短い。
「何の用だ」
「本来の用件は、この工業地帯の調査だ」
鷹宮は言った。
レンの問いに対する返答としては、少し遠回りだった。
だが、鷹宮の声には、話の順序を変えるつもりはないという硬さがある。
「……いきなり本題が重そうっすね」
「軽い用件なら、君をここへは呼ばない」
「でしょうね」
レンは肩をすくめる。
周囲には、相変わらず人の気配がない。
錆びた鉄骨。
剥き出しの配管。
月光に白く浮かび上がるコンクリートの床。
どこかで金属が鳴るたびに、この場所そのものが古い肺で呼吸しているように思えた。
「オキクムシの噂。失踪者。白い蛹状の痕跡。異界への死体遺棄」
鷹宮は、一つずつ言葉を置いていく。
「君にも、ある程度は共有しておく必要がある」
「……お優しいことで」
「皮肉を言う余裕があるなら結構だ」
「いや、だってねえ」
レンは、わずかに顎を上げて、工場跡地の奥を見た。
「位置情報だけ送ってきて、説明もなしに呼び出して、出てきた単語がオキクムシに異界投棄。普通に考えて、帰りたくなるでしょ」
「帰るか?」
鷹宮が問う。
レンは笑った。
「帰してくれるんすか?」
「必要な話を聞いた後ならな」
「つまり帰れねえってことじゃないすか」
白石が、壁にもたれたまま、くすりと笑う。
「話が早くて助かるね」
「助かってねえんですよ、こっちは」
レンは白石へ軽く返し、それから視線を鷹宮へ戻す。
「で。旧工業地帯の調査ってのは分かった。だが、それだけなら俺を呼ぶ理由としては弱い」
「君は“木こり”だ」
「便利な言葉だな」
「便利だから使われる」
鷹宮は、淡々と言った。
「ここには、ブラックベインの枝分かれが絡んでいる可能性がある。加えて、君は今日、あの喫茶店にいた」
レンの目が、少しだけ細くなる。
「……喫茶店の話か」
「ああ」
鷹宮は頷いた。
「彼は危険だ」
短い断定だった。
名前を出さない。
だが、誰のことを言っているのかは、聞くまでもない。
「だから排除?」
レンの声が、少しだけ低くなる。
「管理できないならな」
鷹宮は、迷わず答えた。
「……便利な言い方だな」
「責任のある言い方だ」
鷹宮の目は揺れなかった。
「保護できるなら保護する。管理できるなら管理する。だが、それが不可能なら、排除も選択肢に入る」
「それを決めるのは誰だ」
「現場だ」
「随分と偉い現場だな」
「被害が出てから会議を開くよりは、よほどましだ」
言葉が、冷たいコンクリートの上に落ちる。
論理は通っていた。
通っているから、嫌な話だった。
危険なものを野放しにしない。
被害が出る前に動く。
それは、正しい。
正しすぎるからこそ、その中に混ざるものが見えづらくなる。
「その“危険”ってのは、誰が決める」
レンは言った。
「結果だ」
「逆だろ」
ほんの少しだけ、間を置く。
「観測してから判断するもんだ」
「観測している間に被害が出る」
鷹宮は言う。
「組織の好むやり方だな。だが、それでは遅い」
沈黙が落ちた。
風が吹く。
鉄骨のどこかで、古いボルトが鳴った。
カン、と。
不知火が、つまらなそうに首を回す。
「めんどくせえな」
赤髪の男は、口元だけで笑った。
「危険なら潰せばいいだろ」
「お前に聞いていない」
鷹宮が即座に切る。
「けど、事実っスよ。危険なんでしょ。なら早い方がいい」
「早いことと、正しいことは違う」
「隊長がそれ言います?」
不知火が、楽しそうに目を細める。
鷹宮は答えない。
代わりに、レンへ視線を戻した。
「君の扱いは、些か粗いな」
「……何の話だ」
「“木こり”を単独で動かす。護衛も付けずに」
レンは一瞬だけ黙った。
(……あーはいはい、勧誘ね)
思ったより露骨だった。
「我々の運用なら、そうはしない」
鷹宮は言う。
「必要な情報、装備、後方支援、現場判断の権限。君の能力は、もっと組織的に使える」
「そいつは魅力的な話で」
「軽く聞き流すな」
「聞き流したくなる話なんすよ」
レンは、少しだけ笑う。
「俺、そっちの空気、あんまり得意じゃないんで」
「得意不得意の問題ではない」
「いや、そこ大事でしょう」
レンは白石をちらりと見る。
白石は、眠そうな目で二人のやり取りを眺めていた。
「……いい“夢”見られるかもね」
ぼんやりとした調子で、白石が付け足す。
「そっち方面の勧誘文句としては、かなり怪しいっすよ」
「そうかな」
「そうっすね」
レンは即答した。
「断る」
声は軽い。
だが、拒絶だけは明確だった。
鷹宮は、特に驚いた様子もない。
断られることも織り込み済みだったのだろう。
「即答ではない分、検討の余地はあったか」
「ないです」
「残念だ」
「残念そうに見えねえなあ」
レンが言うと、白石がまた小さく笑った。
その時。
「……んー」
白石が、ふと顔を上げた。
先ほどまでの眠たげな調子のままだ。
けれど、その声だけが、ほんの少し沈んでいた。
「結果は……もう出てる気もするけどねぇ」
レンが眉をひそめる。
「結果?」
「うん」
白石は、ゆっくりと瞬きをした。
「見た、というより……見ちゃった、かな」
「夢占いってやつか」
「まあ、そんなところ」
白石は曖昧に笑う。
その曖昧さが、かえって笑えなかった。
不知火がポケットに手を入れる。
何かを確認するような、短い動きだった。
「俺、ちょっとやることあるわ」
「待って」
白石の声が、それを止めた。
不知火が振り返る。
「あ?」
「来るよ」
短い一言だった。
鷹宮は驚かなかった。
むしろ、待っていたものが来たとでもいうように、静かに息を吐く。
レンは、反射的に周囲へ意識を向けた。
風。
金属音。
水滴。
そして、その奥。
搬入通路の暗がりから、何かが擦れる音がした。
足音ではない。
布を引きずる音に近い。
濡れた紙を床に擦りつけるような、嫌な音だった。
白い霧が、通路の奥から薄く流れ出してくる。
その中に、何かが立っていた。
一体。
いや、違う。
二体。
三体。
白いものが、霧の中から這い出してくる。
人間だった。
人間だった、はずのものだった。
皮膚の一部が、白く濁った膜に覆われている。
口元は薄い膜で塞がり、開かない。
それでも喉だけが浅く震え、湿った呼吸音が、笛のように漏れていた。
背中には、翅になりそこねたような筋が浮いている。
肩甲骨から腰にかけて、白い線が皮膚の下を走っていた。
歩くたびに、身体のどこかがずれる。
関節が、人間のものより少しだけ遅れてついてくる。
「――やはりか」
鷹宮が呟いた。
白石は、その背後に立ったまま動かない。
眠そうな目だけが、霧の奥を見ていた。
白石の夢を、鷹宮は疑っていなかった。
だからこそ、驚きより先に確認が出た。
レンは、その事実に背筋が冷えるのを感じた。
(……こいつら、これを待ってたのか)
その横で、海がわずかに息を呑む。
「……予知通りだ、これ」
声は震えていた。
少なくとも、そう聞こえるような声だった。
レンは一瞬だけ海を見る。
眼鏡の奥の瞳は、霧の中から現れた白い人型を見ている。
怯えているように見える。
だが、どこかで、その視線は少しだけ遅れているようにも見えた。
見知らぬものを見ているのではなく。
知っているものが、予定通りに現れたのを確認しているような。
(……いや)
レンは、その考えを一度切る。
今は、そちらを考えている暇はない。
不知火が笑った。
「まあ、多少は暴れとかねえとな」
赤い炎が、彼の腕を舐めるように立ち上がる。
湿った霧に、熱が差す。
白い膜をまとった人型たちが、その熱に反応したように、揃って首を動かした。
レンは舌打ちする。
足元の影へ手を突っ込む。
黒い影が、斧の形を取った。
柄を握る。
引きずり出す。
影から生まれた斧が、月光を吸い込むように黒く揺れた。
「何がどうなってんだ、こいつは――!」
霧の中で、白い蛹たちが一斉に顔を上げた。




