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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第7話 果報は寝て待て

 ――名前が、抜け落ちている。


 三文字だった。

 そう分かるのに、その三文字だけが、どうしても思い出せない。


 口にしたはずだった。

 何度も呼んだはずだった。

 笑いながら。

 怒りながら。


 すぐ隣を歩く誰かへ、当たり前みたいに、その名前を投げかけていたはずだった。

 なのに、音だけがない。

 記録を探した。

 連絡先を探した。

 古い紙束をめくり、名前の並んだ一覧を眺め、写真の裏に書かれた文字を指でなぞった。


 そこにいる。

 確かに、いた。


 けれど、名前だけがない。

 三文字分の空白だけが、どこにも埋まらない。

 誰かが、その名前を呼んでいる。

 夢の向こう側で。

 自分ではない誰かが。


 当然のように、その三文字を口にしている。

 聞こえそうで、聞こえない。

 思い出せそうで、思い出せない。

 喉の奥までせり上がってきた音は、最後の一歩で崩れて、ただの息になる。


 違う。

 それじゃない。

 そうじゃない。


 その人には、名前があった。

 大切な、名前があった。

 なのに。

 三文字だけが、ない。

 目覚めても、そこだけが欠けている。

 まるで夢の中から、名前だけを置き去りにしてきたみたいに。


 あるいは。

 名前の方が、最初からこちらへ来てくれなかったみたいに。



     ◆



「--まあ、私たちにとっては、ここが異界なんだが」


 満月を背負ったフードの少女の声が、旧工業地帯の夜に落ちた。

 誰も、すぐには口を開かなかった。

 錆びた配管の隙間から、水滴が落ちる。


 ぽたん、と。

 静かな音が、コンクリートの床に広がった。


 鷹宮は、地面に転がされた男を一瞥し、それから改めて二人の少女を見る。

 フードの少女。

 それから、ゴシック調のドレスを着た少女。

 子供に見える。

 だが、少なくとも、子供として扱っていい相手ではない。

 拘束されたフィアー犯罪者は、手足を封じられたまま、呻き声すらろくに上げられず床を這っていた。黒い紐のような拘束は、ただの縄ではない。力任せに抜けようとすればするほど、むしろ締まっていくように見える。

 不知火は、それを面白そうに眺めている。

 白石は脇腹を押さえながら、いつもの眠そうな目を少しだけ細めていた。

 海は黙っている。

 その視線が、ほんの一瞬、フードの奥へ向いた。


「……なるほど」


 鷹宮が口を開いた。


「“神隠し”の、その先の住人か」


 ゴシックの少女――ツバキの眉が、わずかに寄る。


「その言い方、あまり好きじゃないわね」


「失礼」


 鷹宮は素直に詫びた。

 しかし、視線は逸らさない。


「だが、こちら側の資料では、その呼称が最も近い」


「勝手に消えて、勝手に戻らないもの扱いされるの、趣味が悪いわ」


「戻らない、という点については事実だ」


 鷹宮は静かに続ける。


「では、もう一つ。君たちはどうやってこちらへ来た」


 フードの少女――歌留多が、面倒くさそうに首を傾げた。


「まだ聞くのか?」


「聞くとも」


 鷹宮は答える。


「神隠しに遭って異界へ落ちた人間が、戻ることはほぼ不可能と聞いている」


「戻ってきたんじゃないわ」


 ツバキが言った。


「巻き込まれたのよ」


「巻き込まれた?」


「向こうで死体が流れ着く場所を調べてたら、穴がひっくり返った」


 歌留多が雑に言う。

 鷹宮の眉が、わずかに動いた。


「穴が、ひっくり返った?」


「そう」


 歌留多は頷く。


「ぐわーってなった」


「説明になっていないわよ」


 ツバキがため息をついた。

 それから、鷹宮たちへ向き直る。


「あれは、道じゃないの。死体や黒が流れてくるだけの、排水口みたいなものよ」


「排水口」


 白石が、小さく繰り返す。


「ええ。生きている人間が通るためのものじゃない。死体とか、黒に汚れた物とか、そういうものが、勝手に流れてくるだけ」


「だから迷惑なんだ」


 歌留多が、地面に転がる男を睨む。


「捨てるなら、自分たちのところで捨てろ。こっちに流すな」


「捨てるな、でいいのよ。そこは」


 ツバキが即座に訂正した。


「そうとも言う」


「そうとしか言わないわ」


 短いやり取り。

 その温度だけ見れば、年頃の少女二人の口喧嘩にも見える。

 だが、その足元には拘束された犯罪者が転がっている。

 月明かりの下で、黒い拘束だけが、ずるずると床を這うように蠢いていた。


「その排水口が、なぜ君たちをこちらへ出した」


 鷹宮が問う。


「だから、周りが変に薄くなってたんだ」


 歌留多が言う。


「そしたら、こっちに出た」


「境界が逆流したのよ」


 ツバキが補足する。


「私たちも、自由に行き来できるわけじゃない。勘違いしないで」


「つまり」


 鷹宮は、ゆっくりと言葉を整理した。


「君たちは、異界側の漂着地点を調査していた。その最中、現世側から開かれた投棄穴が何らかの理由で逆流し、境界が一時的にこちらへ繋がった。結果、君たちはこちら側へ押し出された」


「そういうこと。むしろ私たちこそが、神隠しに遭ってしまったというわけなの」


 ツバキが頷く。


「で、出た先にこいつがいた」


 歌留多が、拘束された男を爪先で示す。


「死体を放り込もうとしていたのよ」


 ツバキが言う。


「だから捕まえた」


 歌留多は当然のように言い切った。

 不知火が、くつくつと笑った。


「雑だなあ」


「な、なんだと?」


「いや、褒めてるんだよ。たぶんな」


「たぶんで褒めるな」


 歌留多がむっとする。

 不知火の指先が、また火を欲しがるように動いた。

 だが、鷹宮が視線だけで制する。

 不知火は舌打ちし、手を下ろした。


「利害は一致しているだろう、やめたまえ」


 鷹宮が言った。

 歌留多の目が、フードの奥で動く。


「ほう?」


「こちらは犯罪者を追っている。君らは、死体の漂着を止めたい」


 鷹宮は、地面の男へ一度視線を落とす。


「協力しないか」


 歌留多は小さく首を傾げた。


「……なるほど?」


「分かってないでしょ」


 ツバキが横から言う。


「分かってるぞ」


「じゃあ説明してみなさい」


「つまり、こいつらは私たちに手伝ってほしい」


「半分だけ正解」


 ツバキは呆れたように肩を落とした。

 歌留多は、にしし、と笑う。

 それから、鷹宮へ向き直った。


「とはいえ、ダウトなのは分かってる」


 鷹宮の眉が、かすかに上がる。


「ほう」


「お前らの不始末を、お前らで解決するのは当たり前だ」


 歌留多の声は幼い。

 けれど、その言葉の芯は妙に硬かった。


「私たちは、警告に来ただけだぞ」


「そうね」


 ツバキが続ける。


「相互不干渉で行きたい、というのが私たちの主張なのよ。私たちは、困っているということを伝えに来ただけ」


 ツバキの声には、疲れが混じっていた。

 怒鳴るほどではない。

 だが、見過ごす気はもうない。

 そんな温度だった。


「こいつらのように」


 歌留多が、足元の男を見る。


「異世界を利用しようとする、その“発想”の根本を断ちたい」


 袖の奥で、小さな手が握られる。


「それが私たちの想いだ」


 風が吹いた。

 割れた窓枠が、かすかに鳴る。

 鷹宮は、しばらく黙っていた。


 その沈黙の間、不知火はつまらなそうに足元の男を眺め、白石は眠そうな顔で歌留多とツバキを見比べていた。


 海だけが、少し遅れて瞬きをする。


 そして、何かを確かめるみたいに、フードの少女の輪郭を見ていた。


 やがて、鷹宮は薄く笑った。


「では、こちらが確認した危険個体の情報を提供する、というのはどうかな」


 ツバキの表情が変わる。


「危険個体?」


「ああ」


 鷹宮は静かに言った。


「ブラックベインを喰う個体が確認されている」


     ◆


 止まった壁時計の下で、白石は目を開けた。


 古いソファの背もたれ。

 薄い毛布。

 自販機の青白い光。


 白石は、ゆっくりと瞬きをした。

 そして、刺さるような痛みに身体をこわばらせる。


「いたたっ! ……この怪我のせいだな、一昨日から夢見が悪いや」


 寝起きの声は、いつものように緩かった。


 外では、配管から落ちる水滴の音がしている。


「白石」


 鷹宮の声だった。


 白石は、ゆっくりと瞬きをした。


「あ、おはようみんな」


 寝起きの声は、いつものように緩かった。


 鷹宮。

 不知火。

 海。


 そして、最近同行するようになった二人の少女。


 深いフードの少女と、ゴシック調の少女。


 白石は、少しだけ笑った。


「どうだった、WFAで噂になってる怪物の彼」


 眠たげな声が、休憩室棟の青白い光に落ちる。


「……ブラックベインの脈を啜る“吸血鬼くん”は?」

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