第6話 不法投棄
――これは、喫茶店〈灯〉のドアベルが、まだ彼らを迎える前の夜だ。
旧工業地帯の夜は、錆の匂いが濃かった。
海に近いわけでもないのに、潮を含んだような湿った風が、割れたフェンスの隙間を抜けていく。黄色いKEEP OUTのテープは、もう何年も前からそこにあるみたいに色褪せ、錆びたゲートに絡みついたまま、風に揺れていた。
頭上には、折れた配管が蜘蛛の巣のように走っている。
その継ぎ目から、水滴が落ちる。
緩い水音を響かせて。
暗いコンクリートの床に、小さな音が響いた。
鷹宮は、その音を聞きながら、工場地帯の奥を見据えていた。
黒いジャケットの裾が、風にわずかに揺れる。
その横で、不知火が退屈そうに首を鳴らした。
「で、隊長」
赤い髪の男は、口元だけで笑った。
「結局ここにいるっていう“オキクムシ”とやらを退治しに来たんスか?」
「違う」
鷹宮は即答した。
不知火が、片眉を上げる。
「あ?」
「オキクムシなどという怪異が実在すると見るより、まずは噂を隠れ蓑にした能力者犯罪と考えるべきだ」
鷹宮の声は、静かだった。
だが、その静けさには、最初から怪談を信じる気などないという硬さがある。
「失踪者。白い蛹状の痕跡。消えた動画。そして旧工業地帯」
後ろから、白石が緩い声で続けた。
いつも眠そうな目をしている男だった。
だが、その声はぼんやりしているようで、拾うべき要素だけは外さない。
「条件は揃っています」
「ああ」
鷹宮は頷く。
「異界への死体遺棄。その処分場として、この場所が使われている可能性もある」
「マジすか。怪談退治じゃなくて、ゴミ捨て場の掃除ッスか」
不知火は、つまらなそうに吐き捨てる。
「退屈なら帰ってもいいぞ」
「やだなあ、隊長。俺様ほど真面目な部下、他にいないでしょ」
「真面目な部下は、任務前に獲物を探す目をしない」
「バレてました?」
「隠す気がないだろう」
白石が苦笑する。
その少し後ろで、海は黙って周囲を見ていた。
眼鏡の奥の視線は静かだ。
配管。壁。割れた窓。白く湿った霧。床に残る黒ずみ。
一つずつ確かめるように、ゆっくりと動いている。
調査員としては、自然な視線だった。
少なくとも、この時点では。
「我々の本来の任務は、該当工業地帯の調査だ」
鷹宮は言った。
「オキクムシの噂。失踪者。白い蛹状の痕跡。そして、噂を隠れ蓑にしたフィアー犯罪者の可能性」
そこで一度、言葉を切る。
「まず追うべきは、そこだ」
「はいはい」
不知火が、肩をすくめた。
「で、そのフィアー犯罪者サマは、どこにいるんスかね」
「……来ます」
白石が言った。
その声だけが、さっきまでと少し違っていた。
不知火の目が、楽しそうに細くなる。
鷹宮は無言で、足を止めた。
「数は」
「一人。ですが、周囲に黒の反応があります」
「一人なら俺がやる」
「単独先行は許可しない」
「つまんねえな」
「不知火」
鷹宮が名を呼ぶ。
それだけで、不知火は舌打ちしながらも、半歩だけ下がった。
次の瞬間。
錆びた配管の奥で、何かが跳ねた。
影だった。
人影に見える。
けれど、足元が奇妙に黒く滲んでいる。濡れたインクを引きずるように、床へ黒い筋を残しながら、影は搬入通路の奥へ走った。
「隊長、右です」
白石が告げる。
「散開」
鷹宮の指示が飛んだ。
不知火が笑う。
指先に、小さな火が灯った。
赤い炎が、夜の湿気を舐める。
「待ってました」
「殺すな」
「分かってますよ」
「お前の分かっているは信用できん」
鷹宮が短く返す。
影は、配管の影を縫うように逃げた。
人間の足音。
だが、時々、床を蹴る音が一つ多い。
何かを引きずっているのか。
あるいは、人間ではない何かが、足の代わりに増えているのか。
白石が一歩、前へ出た。
「左の通路、塞がれます」
その言葉と同時に、黒い枝のようなものが床から伸びた。
鉄筋の隙間を割って、白石の脇腹をかすめる。
「……っ」
短い息が漏れた。
「白石!」
鷹宮が振り返る。
白石は片手で脇腹を押さえ、浅く笑った。
「問題、ありません。かすっただけです」
「見せてください」
すぐに海が近づいた。
白石は、少し困ったように目を細める。
「大丈夫です。脇腹を少し」
「傷口から黒が入ることもあります。確認だけでも」
海の声は穏やかだった。
正しい。
医療担当としても、調査員としても、その判断は間違っていない。
鷹宮は一瞬だけ犯人の逃げた方向を見たが、すぐに判断した。
「海。応急処置を」
「はい」
海が膝をつく。
白石の服の裂け目を確認し、血の滲み具合を見る。
指先が、傷の深さを探るように止まった。
「……浅いですね」
「でしょう」
「ですが、無理はしない方がいい」
「副隊長が前に出ないと、隊長が一人で全部背負うので」
「それを言われると困ります」
海は静かに答えた。
不知火が、舌打ちする。
「おいおい、マジで逃がしたか?」
湿った風が、搬入通路を抜けた。
黒い筋は、途中で途切れている。
霧の奥へ溶けたみたいに、犯人の気配は見えなくなっていた。
鷹宮の目が細くなる。
「逃がしたか」
その時だった。
「お前らが探してるのは、こいつか?」
幼い声がした。
全員の視線が、同時に上を向いた。
月が出ていた。
割れた屋根の向こう。
雲の切れ間から、満月が顔を出している。
その光を背負うようにして、二つの影が立っていた。
一人は、深いフードを被った小柄な少女。
袖の長すぎる服が、夜風にふわりと揺れている。顔はよく見えない。ただ、フードの奥で、丸い目だけがこちらを見下ろしていた。
もう一人は、ゴシック調のドレスを着た少女だった。
栗色の髪に、黒いカチューシャ。フードの少女よりわずかに背が高く、呆れたような顔で隣に立っている。
次の瞬間、何かが地面へ落ちた。
鈍い音。
人間だった。
黒い紐のようなものでぐるぐる巻きにされ、手足を封じられている。口元も塞がれ、床の上で芋虫みたいに転がった。
不知火が、口元を歪める。
「は?」
鷹宮は、地面に転がされた男と、満月を背負う二人を見比べた。
「……誰だ」
「質問する前に、まず受け取れ」
フードの少女が言った。
「ちょっと、投げるならせめて声をかけなさいよ」
ゴシックの少女がため息をつく。
「かけたぞ」
「そういう意味じゃないわよ」
フードの少女は、悪びれもしなかった。
それから、地面に転がる男を指さす。
「死体を、私たちの住んでいたところに放り込んできた不届きものだよ。こいつは」
「……その男を捕らえたのは、君たちか」
鷹宮が問う。
少女は、ふん、と鼻を鳴らした。
「仲間なのか、敵なのかは知らん。けど、これ以上の不届きは――」
長い袖の奥から、小さな指先がわずかに覗く。
「……私が許さないぞ?」
幼い声だった。
だが、その言葉が落ちた瞬間、工場跡の空気が一段冷えた。
不知火の指先に、また火が灯る。
それを見て、ゴシックの少女が眉をひそめた。
「ちなみに」
彼女は、不知火を横目で警戒しながら言った。
「流れてきた死体は、私たちが丁重に弔りました」
その言葉に、白石の目がわずかに動く。
「昔から、こういうのは珍しくないからね。無縁のものが流れ着くこと自体は、まあ、あるわ」
そこで、少女の声が少しだけ冷える。
「ただね。いくらなんでも、こっちもキャパオーバーなのよ。もうやめてもらえないかしら?」
数秒、沈黙が落ちた。
水滴の音だけがする。
ぽたん。
ぽたん。
不知火が、笑った。
笑っているのは口ではなく、目だった。
「いいじゃねえか、隊長。あれ、絶対やれるぜ」
「不知火」
鷹宮の声が落ちた。
「あ?」
「消せ」
「まだ何もしてねえっスよ」
「二度は言わん」
空気が、わずかに軋む。
不知火はしばらく鷹宮を見ていたが、やがてつまらなそうに舌打ちし、指先の炎を握り潰した。
「……へいへい」
鷹宮は、満月の下の二人へ視線を戻す。
「なるほど。子供の姿で判断するべき相手ではない、ということか」
「子供じゃないぞ」
フードの少女が即座に言った。
「そういうところが子供なのよ」
隣の少女が、ぼそりと返す。
「うるさいな、ツバキ」
「うるさくさせてるのはあなたでしょ」
鷹宮は、そのやり取りを聞きながらも、表情を変えなかった。
「君らは、何者だ」
フードの少女は、満月を背負ったまま、少しだけ顎を上げる。
「フン。大体、察してるんだろう?」
「答えを聞きたい」
「お前らが“異界”とか呼んでる場所の住人だよ」
その言葉で、白石の眠そうな目が、わずかに開いた。
海は黙っていた。
ただ、少女のフードの奥を見ている。
フードの少女は、小さく肩をすくめた。
「まあ、私たちにとっては、ここが異界なんだが」
月明かりの下で、その言葉だけが妙にはっきりと響いた。




