第5話 石抱き刑
フードの奥で、白銀の髪が揺れた。
記憶の底で揺れていた、長い黒髪ではなく。
快活そうな、肩くらいまでのショートヘア。
小柄な身体。
軽い声。
小首を傾げる、幼い仕草。
一瞬だけ、重なった。
けれど、すぐに外れた。
重なったのは、名前だけだ。
声も。
気配も。
在り方も。
何もかもが、違う。
「……全然違うじゃねえか」
恭介は、俯いたまま小さく吐き捨てた。
歌留多は、フードの奥でまた首を傾げる。
「お? 違ったか?」
「……」
「でも、名前は合ってるぞ。私は歌留多だ」
悪びれない。
説明を求めているわけでもない。
ただ、自分の名前を確認しただけのような声だった。
その軽さが、恭介の神経を逆撫でした。
「……」
カウンターの内側で、紗希が静かに二人を見ている。
柔らかな笑みはいつも通り。
だが、その視線だけは少し鋭い。
レンも、今の一瞬を見逃さなかった。
カルタ。
歌留多。
同じ音。
けれど、恭介の反応は、偶然似た名前を聞いた程度のものではなかった。
何かに触れた。
それも、本人が思い出したくない場所に。
「そいつが、噂になってるバケモンか」
空気を割ったのは、赤髪の男だった。
不知火。
彼は肩を揺らすようにして、恭介を見ている。
笑ってはいない。
だが、目だけが妙に愉しそうだった。
「面白そうだ」
その視線は、獲物を見つけたというより、壊していい玩具を見つけた子供のそれに近い。
「……あとでやる。俺様がな」
空気が、わずかに沈む。
レンの指が、カップから離れた。
腰が、半分だけ浮く。
ツバキもまた、歌留多の前へ出るように一歩動いた。
「不知火」
鷹宮の声が落ちる。
大きな声ではない。
だが、その一言で、不知火の空気がわずかに止まった。
「まだだ」
「へいへい」
不知火は肩を竦めた。
従っている。
少なくとも、形の上では。
鷹宮はそれ以上、不知火を見なかった。
代わりに、歌留多の方へ視線を向ける。
「観察とやらは、終わったかな」
低く、静かな声。
「歌留多ちゃん」
「……うーん。なるほど?」
歌留多は、納得がいってるようないってないような、といった顔で頷いた。
だが、ツバキに袖を軽く引かれると、不満そうにしながらも一歩下がる。
「ツバキ、まだ途中だったんだが」
「充分よ。これ以上は揉める」
「揉めるのも観察対象になるぞ」
「しなくていい観察もあるの」
「なるほど。難しいな」
歌留多はやはり分かっていない声で言った。
それでも、これ以上前には出ない。
鷹宮が、改めて恭介へ向き直る。
「さて」
店内の空気が整う。
さっきまで、歌留多の好奇心と不知火の戦意で乱れていた気配が、鷹宮の一歩でひとつの方向へ揃えられていく。
レンは、その感覚に眉を寄せた。
この男は、ただ好戦的なだけではない。
場を読む。
場を締める。
そして、自分の目的に向けて迷わず進める。
だから厄介なのだ。
「私の要件は少々手荒なものだ」
鷹宮が、恭介へ指を向けた。
「……動くな」
鷹宮が指を向けた、その瞬間だった。
空気が揃う。
――そして、恭介は“沈んだ”。
音ではない。
圧でもない。
店内の空気そのものが、床へ向かって一段落ちたような感覚があった。
「……っ」
恭介の呼吸が詰まる。
椅子に座っていた身体が、勝手に沈みかけた。
床が近づく。肺が押し潰される。
外から押さえつけられているのではない。身体の内側にある黒へ、重さだけが流し込まれていく。
レンの目が、わずかに細くなった。
知っている。
この圧。
この沈み方。
クロだけを狙って、重さを与える感覚。
「……〈石抱〉」
低く、レンが呟いた。
「クロに、重さを与える能力だ」
指を向けたまま、鷹宮が薄く笑った。
「その通り。能力モチーフは“石抱刑の怨念”」
声は穏やかだった。
だが、店内にかかる重さは緩まない。
「普通の人間には意味がない。だが――」
鷹宮の視線が、恭介へ落ちる。
「こいつは別だ」
恭介の膝が、わずかに沈む。
カウンターの椅子が軋んだ。手が、無意識にカウンターの縁を掴む。指先に力が入り、木が小さく鳴った。
紗希は、カウンターの内側で動きを止めていた。
柔らかい笑みは消えていない。
ただ、手元のカップを置く音だけが、やけに小さく響いた。
「君の“お友達”は特殊らしい」
鷹宮が一歩進む。
一歩ごとに、空気がさらに沈む。
「……まるで――」
レンが言いかけるより先に、鷹宮が口元を歪めた。
「“怪異みてぇだ”って言うんだろ」
レンは、皮肉っぽく鼻を鳴らした。
「次はこうだ。“排除対象にならないのはおかしい”」
「分かっているじゃないか」
「分かりたくて分かってるわけじゃないんでね」
レンの声は軽い。
だが、目は笑っていなかった。
その横で、赤髪の男が肩を揺らした。
「そうだよ。今やっちまってもいいんだぜ?」
声が弾んでいる。
冗談ではない。
本当に、そうなっても構わないと思っている声だった。
鷹宮が、視線だけを横へ向ける。
「……不知火」
名前を呼ばれた赤髪の男は、わずかに口元を歪めた。
「自重するように。店の方に、ご迷惑じゃないかね」
「へいへい」
形だけの返事。
それでも、不知火は動かない。
鷹宮の制止には従う。
少なくとも、今は。
空気が締まる。
恭介は歯を食いしばった。乱れた呼吸を、無理やり整える。重さはまだ抜けない。内側の黒が、鉛でも流し込まれたみたいに重い。
だが――。
「……こんなんで、俺をどうこうできると思ってんのか」
にやりと笑った。
影に沈んだ顔の奥で、三白眼が鈍く光る。
悪役みたいな笑い方だった。
紗希が、ほんの少しだけ眉を動かす。
レンは内心で舌打ちした。
今の顔だけ切り取れば、どちらが危険人物か分かったものではない。
鷹宮は、わずかに表情をしかめた。
それから、手を下ろす。
重さが消えた。
だが、恭介の身体の内側には、まだわずかに残っている。呼吸が荒い。肩が上下している。それでも、彼は笑ったままだった。
「確認した」
鷹宮が言う。
「……怪異に近い存在だ」
店内の空気が、さらに一段冷える。
フードの奥で、歌留多が目を細めた。
「面白いな」
小さな声だった。
「気に入った」
ツバキが、すぐに眉を寄せる。
「歌留多」
「次は何を試そうかな」
歌留多は、悪戯を思いついた子供みたいに、にしし、と笑った。
「毒でも飲ませてみるか。いっそ解剖でもしてみるか」
レンの表情が引きつる。
恭介は、露骨に不機嫌そうな顔をした。
「物騒なチビだな」
「まったく」
ツバキが深くため息をついた。
「……言うだけ言って、いつも中途半端なゴッコ遊びで終わるくせに」
「え、そういうのやめろよ。ゴッコじゃないんだよ!」
歌留多が、その場でぴょんぴょんと跳ねる。
「私は本当に研究者なんだよ!」
「はいはい……」
「はいは一回だぞ!」
「は〜い」
「そういう意味じゃない!」
そのやり取りだけ見れば、子供同士の喧嘩みたいだった。
けれど、言葉の中身は毒と解剖だ。
〈灯〉の空気は揺れた。
だが、壊れない。
変わった。
だが、崩れてはいない。
まだ、均衡は保たれている。
その中で、紗希がカウンターの内側から静かに口を開いた。
「……父がいたら、今ので出禁でしたよ」
鷹宮が、ほんの少しだけ視線を向ける。
「店主か」
「はい。名義上は。今は出張中ですけど」
「では、君が責任者というわけだ」
「実質は」
紗希は柔らかく笑った。
「なので、次に店内で変な力を使ったら、私の判断で出禁です」
店内が、一瞬だけ静まる。
鷹宮は紗希を見た。
測るような目だった。
だが、そこに侮りはない。
「それは失礼した」
形式的な謝罪。
軽く頭を下げる。
謝ってはいる。
けれど、目的を撤回する気はない。
確認は済んだ。
そういう態度だった。
鷹宮は背を向ける。
誰も振り返らない。
五人は、そのまま出ていく。
置いていくように。
歌留多は最後まで恭介の方を見ていたが、ツバキに袖を引かれて、不満そうにしながらも歩き出した。
「次はちゃんと研究するからな」
「はいはい」
「またはいはいって言った!」
その声が、ドアの方へ遠ざかっていく。
最後に、眼鏡の青年が足を止めた。
海。
レンの記憶にある名前が、頭の中で引っかかる。
彼は、カウンターの内側にいる紗希を一瞥した。
見た、というより測った。
器の厚みでも確かめるような、静かな目だった。
その視線はすぐに外れる。
海は何も言わず、ドアを後ろ手に閉めた。
――カラン。
一転して、店内は静かになった。
だが、空気は戻らない。
張りついたまま。
その中で、紗希が恭介を見た。
「先輩、みんなから注目集めてましたね。人気者になっちゃって」
「うるせぇ」
「フードの子に、赤髪の人に、黒いジャケットの人。それに――」
紗希の視線が、ちらりとレンへ向く。
「レンさんも」
「……俺も入るの?」
「はい。客を装って監視中ですから」
「装って、って言い方が嫌だなあ」
「違いますか? そこ否定しちゃうと、本当に毎日、仕事もせずに喫茶店にいる人ってことになっちゃいますけど」
「……返す言葉もございません」
恭介が舌打ちする。
「こんなに嬉しくねえ人気者ってのも、そうそうねえもんだな」
「ですね」
紗希は柔らかく笑った。
その笑みのまま、少しだけ間を置く。
「……で、さっきの人たち、何だったんですか?」
恭介が肩を回した。
まだ違和感が残っているのか、眉間に皺が寄っている。
「知らねえよ」
煙草を指で弾く。
「いきなり変な力使いやがって! ……フィアー能力ってやつか、あれ」
レンは、小さく息を吐いた。
「あいつらは組織の、鼻つまみもんだよ」
二人の視線が向く。
「俺のとこのチームとは別系統の、まあ好戦的なことで有名なやつらでね」
それ以上は言わない。
だが――。
「面倒なのが来たもんだな」
一言、呟くだけで。
現状は十全に理解できた。
紗希が、小さく頷く。
「なるほど……」
少しだけ間を置いて、柔らかい声のまま続ける。
「じゃあ、しばらくは賑やかになりそうですね」
軽く言う。
だが、誰も笑わない。
レンは、カップを指先で回した。
先程の連中を思い返す。
鷹宮。
赤い髪の男、不知火。
眼鏡の男、海。
そこまではいい。
悪名も含めて、組織の一員ならよく知っている有名人だ。
問題は――。
(……あの二人だ)
フードの少女と、ゴシックの少女。
年齢。
立ち位置。
空気。
どれもが、噛み合っていない。
(同じ組織の人間じゃねえ)
少なくとも。
(あの二人は、“鷹宮の配下”じゃない)
確信に近い違和感。
フードの奥からのぞいた視線を思い出す。
好奇心。
無邪気さ。
物騒な言葉。
そして、WFAの職員が持つはずの、あの独特の擦り切れ方がなかった。
(……あれは、“WFAの人間の目”じゃない)
レンは、小さく息を吐いた。
(……なんだ。何を“混ぜた”んだ、鷹宮は)
ただのトラブルでは終わらない。
そんな予感だけが、確かに残っていた。
しばらく、店内に沈黙が残った。
さっきまで妙に騒がしかった扉の向こうは、もう静かだ。
雨の気配だけが、窓の外で薄く滲んでいる。
カウンターの内側で、紗希が割れた空気を整えるように、何事もなかった顔で布巾を畳んだ。
「……先輩」
その声に、恭介は反応しなかった。
カウンター端の椅子に座ったまま、片肘をつき、ひどく不機嫌そうに黙り込んでいる。
視線は入口の方へ向いているようで、実際には何も見ていない。
見えていないはずなのに、そこにまだ何かが残っているみたいに、恭介の眉間には深い皺が寄っていた。
「さっきのチビガキの声、動き、顔――いや、面影か」
ぼそりと、恭介が吐き捨てた。
「……そんなもんでここまでイラついたの、生まれて初めてだぜ」
「“顔”……」
紗希が、少しだけ首を傾げる。
「先輩、視界が悪いんじゃないんですか?」
「あんま見えてねえよ」
恭介は忌々しそうに舌打ちした。
「だから面影っつったろ。あんま見えねえから、余計イライラするんだよ」
その声には、怒りだけではないものが混じっていた。
何かを見間違えた苛立ち。
見間違いだと分かっているのに、切り捨てきれない不快感。
喉の奥に小骨でも刺さったような、雑で、説明のつかないもどかしさ。
(……なんだ、このもどかしさ)
恭介は、胸の奥で毒づいた。
(“見たい”って感じと、“見たくねえ”感じが、同じとこに引っかかってやがる。すげえ気分悪い)
「名前、確か歌留多ちゃんって言われてましたっけ」
「知らん!」
恭介は即答した。
「名前なんかいらねえだろ。もう会うこともねえ!」
レンは、その言葉を聞いて、思わず目を細めた。
――たぶん、そうはならない。
口には出さなかった。
出したところで、恭介が余計に機嫌を悪くするだけだ。
ただ、さっき扉の向こうへ消えていったフードの少女の軽い足取りと、恭介の苛立ちだけが、妙に噛み合わない形で店内に残っていた。




