第4話 鷹宮一派
レンの指が、カップの縁で止まる。
違和感に導かれるようにして、視線が入口へ向いた。
ついさっきまで、店内はいつもの形に戻りかけていた。
厨房の床にはまだ拭き取ったばかりの湿り気が残っている。
紗希はカウンターの内側、厨房に近い位置で布巾を畳んでいた。
恭介はカウンターの端に戻り、椅子の背にだらしなく身体を預けている。
レンはその少し横。
入口からカウンターまでは、テーブル席を二つ挟むだけの距離しかない。
だから、入ってきた者たちの気配は、すぐに店の奥まで届いた。
扉が開く。
外の空気が、わずかに遅れて流れ込んでくる。
温度は変わらない。
だが――。
(この歩き方、訓練された足運び。……なるほどね)
足音に、乱れがなかった。
先頭の男が、店内へ入ってくる。
黒いジャケット。
無駄のない姿勢。
視線が一瞬だけレンと合った。
測られる気配が、はっきりと伝わってきた。
(……鷹宮の一派か)
先頭に立つ男を見て、レンは即座に認識した。
面識はない。
だが、この鷹宮という男の名前は知っている。
WFA内でも好戦的なことで知られる現場指揮官。
強硬派。
実力はあるが、揉め事も多い。
タカ派、などという言葉がある。
名前の響きも含めて、嫌になるほど覚えやすい男だった。
(鷹宮には、副隊長格がいたはずだ)
レンは、鷹宮の背後へ視線を流しながら思う。
白石。
常に眠そうな、緩い空気の男。
だが、鷹宮の隣で判断を補うには、ああいう男の方が向いていた。
(……今日は、いないのか)
代わりに、鷹宮の斜め後ろにいたのは赤い髪の男だった。
視線が合う。
逸らさない。
笑ってもいないのに、どこか愉しげな空気がある。
何かが起きるのを待っているというより、何かを起こせる場所に来たことを喜んでいるような目だった。
(……何がそんなに楽しいんだか)
レンは内心で呟く。
さらに横へ視線を流す。
深いフードを被った、小柄な子供がいた。
ダボついたコートに身を包み、顔の大半は影に隠れている。
けれど、フードの奥からのぞく丸い目だけが、周囲を興味深そうに観察していた。
体つきは細い。
動いた時の重心が軽い。
少年のようにも見えるが、その軽さは少女のそれに近い気がした。
隣には、対照的にゴシック調のドレスを着た少女が立っていた。
栗色の髪。黒いカチューシャ。
先程の子供と年齢は近いように見える。
だが、こちらの方がわずかに背が高い。
彼女もまた店内を見ている。
ただ、その視線にあるのは好奇心ではなく警戒だった。
最後に、眼鏡の青年。
姿勢は普通だ。
服装も態度も、他の面々に比べれば落ち着いている。
だが、視線がわずかにずれている。
(……カイ、とかいったな。海と書いてカイ)
訓練場の記憶がかすめる。
この海という名前の青年だけは、レンも名前を知っていた。
(……だけどあいつ、あんな目してたか?)
海の視線が、一瞬だけカウンター内へ滑る。
紗希の方だった。
見た、というより、測った。
器の厚みでも確かめるような目。
だが、その視線はすぐに外れた。
五人は、入口からすぐの通路で足を止める。
先頭の鷹宮だけが半歩前。
赤髪の男はその斜め後ろ。
フードの子供とゴシックの少女は、互いの距離を詰めたまま横に並び、眼鏡の青年は最後尾に近い位置で店内を見ている。
五人が店内に入る。
というより、空気の中に割り込んできたような感覚だった。
紗希が顔を上げる。
片手には、まだ畳んだばかりの布巾がある。
けれど、声だけは普段と変わらなかった。
「いらっしゃいませ」
柔らかい声。
いつもの接客。
だが、空気だけがわずかに沈む。
「……客じゃねえ」
恭介が言った。
椅子の背にもたれたまま、入口側を見ている。
足を投げ出していた姿勢だけは変わらない。
それでも、その目だけは少し鋭い。
「なんだ、こいつら」
誰も答えない。
その時、フードの子供がわずかに隣を見た。
長いまつげが、ぱちりと動く。
フードの奥の目が、恭介へ向く。
「……なあ、触ってみていいか?」
唐突な問いだった。
誰に許可を求めているのかも分からない。
少なくとも、店員に向ける言葉ではなかった。
ゴシック調のドレスを着た少女が、すぐに眉を寄せる。栗色の髪が、黒いカチューシャの下でわずかに揺れた。
「やめなさい、歌留多」
凛とした声だった。
短い。
だが、制止の意思ははっきりしている。
名前を呼ばれたフードの子供が、小さく首を傾げた。
一拍。
その奥で、丸い目がぱちりと瞬く。
「ツバキはわかってないな。研究観察は詳細に、なんだぞ」
「それを、人の店で勝手にやるなと言っているの」
「なるほど?」
分かっていない顔だった。
けれど、分かったふりだけはした。
歌留多と呼ばれた子供は、すぐに前を向く。
視線の先にいるのは、カウンターの端に座る恭介だった。
レンは、わずかに目を細めた。
普通なら、近づかない。
常盤恭介という男は、ただ座っているだけでも妙な圧がある。人相が悪い。口も悪い。さっきまで小型怪異を握り潰して啜っていた男でもある。
だが、歌留多は一切迷わなかった。
テーブル席の間を、一直線に抜けてくる。
軽い足取りだった。
子供のようにも見える。
だが、ただの子供ではない。
フードの下で、白い何かがわずかに揺れた。髪の端か、光の反射か、レンには判別できない。
歌留多は、恭介の目の前で足を止めた。
「あ?」
恭介が、低く返す。
「なんだこのチビ」
歌留多は怯まない。
むしろ、興味深そうに恭介を見ていた。
観察する目。
袖の奥から、細い指が伸びる。
その動きに、ためらいはなかった。
――つん。
軽い接触。
ただ指先で突いただけのように見えた。
だが、恭介の肩が、わずかに止まる。
「これ、本物か?」
「……は?」
恭介の声が低くなる。
歌留多は、もう一度、同じように指を伸ばした。
――つん。
「これが、ブラックベインを啜る怪物なのか?」
その瞬間。
恭介の視界が、ずれた。
ノイズ。
店内の輪郭が、一瞬だけほどける。
カウンター。
椅子。
入口。
レン。
紗希。
それらが、薄い膜の向こうへ押しやられる。
代わりに、桜が舞った。
白い花びら。
黒い影。
白と黒が、重なる。
『キョウ』
声がした。
近い。
近すぎる。
『また怪異食べてきたの?』
誰かが笑っている。
責めているのではない。
からかっているのでもない。
ただ、そこにいる。
そういう声。
黒が滲む。
白い輪郭が揺れる。
『――まさに、怪物だね』
無機質な声。
そして、切れる。
現実が戻った。
遅れて、呼吸が戻る。
恭介は、歌留多の指先を見ていた。
さっきまでの苛立ちとは、少し違うものが顔に浮かんでいる。
レンは、それを見逃さなかった。
動揺。
常盤恭介が、明らかに何かに触れられた顔をしている。
紗希もまた、カウンターの内側で小さく目を細めていた。
柔らかい笑顔はそのまま。
だが、視線だけが恭介を見ている。
「……カルタ」
恭介が呟いた。
声は小さい。
けれど、店内の沈んだ空気の中では、妙にはっきり聞こえた。
「お?」
フードの少女が、小首を傾げる。
「知り合いだったっけか?」
一拍。
それから、歌留多はいたずらっぽく笑った。
「まあ、いかにも?」
フードの奥の目が、楽しげに細まる。
「私が歌留多だが?」




