第3話 危険な喫茶店任務
監視任務。
そう言われれば聞こえはいい。
常盤恭介の観察。
灯紗希の観測。
喫茶店〈灯〉周辺のブラックベイン発生状況の記録。
任務内容として並べれば、それなりに重要そうに見える。
だが、実際に相馬レンがやっていることといえば、喫茶店のカウンター席に腰を下ろし、コーヒーを飲みながら、店内の様子をぼんやり眺めることだった。
白いカップから、湯気が立っている。
昨日と同じ香り。
昨日と同じ温度。
昨日と同じ、妙に落ち着いた店内。
カウンターの内側では、灯紗希がノートを広げていた。
正確には、メモ帳とノートと、何枚かの付箋と、スマートフォンの画面を並べている。
その中心には、昨日美和から聞いた怪談の単語が書かれていた。
オキクムシ。
旧工業地帯。
白い蛹。
壁の中の呼吸音。
投稿主失踪。
甘く腐った匂い。
誘引臭。
虫はどっち?
最後の一文だけ、妙に大きく丸で囲まれている。
「……それ、宿題か何か?」
レンが訊くと、紗希は顔を上げた。
「自由研究です」
「題材が自由すぎるなあ」
「そうでしょうか。怪談、都市伝説、映像記録、失踪情報、先輩の感覚証言。素材としてはかなり良いと思います」
「素材って言い方が怖いんだよね」
「じゃあ、資料」
「より悪いかな」
紗希は首を傾げた。
本当に分かっていない顔だった。
レンはカップを指先で回しながら、内心で息を吐く。
平和なら、それを記録しろ。
崩れるなら、崩れる瞬間を記録しろ。
管理官の言葉を思い出す。
記録対象としては、確かにこの店は面白い。
面白いが、正常ではない。
怪談の動画を見た翌日に、店の娘がそれを嬉々として整理している。
その横で、黒を喰う男が椅子にだらしなく座っている。
そして自分は、監視任務という名目でコーヒーを飲んでいる。
成立している。
だが、どう考えても正常ではない。
「で、恭介」
レンは視線を横へ向けた。
常盤恭介は、カウンターの端にいた。
椅子の背にもたれ、足を投げ出し、いかにもやる気のなさそうな顔で煙草を指の間に転がしている。火はついていない。紗希に店内禁煙を叩き込まれた結果、最近はただ持っているだけのことが多い。
「あ?」
恭介が片目だけを向ける。
「この間さ、紗希ちゃんに聞いたんだよ」
「何を」
「二人って、どういう関係なのって」
「ああ?」
恭介の眉が、面倒くさそうに寄った。
レンは、少しだけ笑う。
「そしたら、“兵器です”って返された」
恭介は、驚かなかった。
むしろ、少し呆れたように笑った。
「ああ。その呼び方好きだよな、あいつ」
「好きで済ませていい単語かな、それ」
「要は用心棒とか番犬って話に近いんだが――」
そこで恭介は、わざとらしく背筋を伸ばした。
声の調子を、ほんの少しだけ丁寧に変える。
「“いえ、兵器でなくてはならないんです。兵器になってください”って契約だからよ」
言い終えると、元のだらけた姿勢に戻る。
「ゴッコ遊びに付き合う大人は、大変だねー! かっかっか!」
「笑っていい話なのか、それ」
「笑うしかねえだろ」
「紗希ちゃんの声真似、微妙に寄せようとしてるのも気色が悪いんだよな」
「そこかよ」
レンはコーヒーを一口飲んだ。
笑い話の形をしている。
だが、笑って流すには言葉が重い。
兵器。
WFAの報告書で見れば、処理装置、観測注意対象、戦力評価。そういった無機質な言葉に置き換えられるもの。
それを、灯紗希は正面から言った。
そして常盤恭介は、それを怒っていない。
そこが引っかかる。
「恭介はいいのか?」
「何が」
「兵器扱い」
「別に」
恭介は煙草を指先でくるりと回した。
「まあ、代わりにお代は貰ってるから、俺からは文句はねえよ」
「お代?」
「宿。仕事。それに――」
そこで、恭介はほんの一瞬だけ言葉を止めた。
止めた、ように見えた。
「視界と――」
レンの指が、カップの縁で止まる。
「視界。よく言ってるアレか」
「――あとは、飯だ」
恭介は強引に続けた。
レンは笑わず、今の言葉を頭の中で繰り返す。
宿。
仕事。
視界。
飯。
その並びに入る単語として、「視界」は明らかに浮いている。
「ちなみに、俺はまだ恭介の視界については、詳しいことは聞かされてないんだけどな?」
「聞き流せ」
「無茶言うなあ」
「忘れろ」
「もっと無茶言うね」
恭介は面倒くさそうに舌打ちした。
それから、カウンターの奥へ視線を向ける。
紗希はメモ帳に向かって、まだ何かを書き足している。こちらの会話を聞いているのかいないのか、表情だけでは分からない。
「紗希はな」
恭介が言った。
「怪異を惹きつける体質なんだと」
レンは、すぐには返さなかった。
「……惹きつける?」
「街灯に、虫が群がってくるような感じなんだろうよ」
恭介の言い方は雑だった。
だが、昨日のオキクムシの話を聞いた後では、その比喩は妙に嫌な響きを持っていた。
「怪異が寄ってくる。黒が寄ってくる。そういう体質、ってこと? この喫茶店のある土地も、そういう性質があったよな、確か。その性質が、あの子にも?」
「因果だの理由だの、細かいことは知らねえ。そういう小難しいのはあいつに聞け」
恭介は顎で紗希の方を示す。
「んで、俺にとっても似たようなもんでよ。あいつのいるところだけ、ぼんやり照らされるのよ」
「照らされる」
「見えるって話じゃねえ」
恭介は、少しだけ眉をひそめた。
自分でも言葉にしづらいのだろう。
「分かるんだよ。あいつがそこにいるって」
レンは黙った。
常盤恭介の視界が悪いことは、実は既に報告に上げてしまっている。
昨日の動画でも、紗希が「目もまともに見えてないんですから」と叫んでいた。
しかし、その視界の悪さと灯紗希の存在が、どう繋がるのか。
そこまでは知らない。
少なくとも、報告書にはない。
「……それ、かなり重要な話じゃない?」
「知らねえよ」
恭介は悪びれもしない。
「あいつが“共生です”とか何とか言ってただろ」
「共生」
「そうそう。あいつが俺の視界を照らす。代わりに、俺があいつに寄ってくる怪異を喰う。喰えなかったらぶっ殺す」
軽い口調だった。
だが、言っている内容は軽くない。
「そういう兵器なんだとよ、俺は」
レンは、すぐには返せなかった。
共生。
兵器。
視界。
怪異を惹きつける体質。
雑談で流していい単語ではない。
だが、恭介は完全に雑談の温度で話している。
「……紗希ちゃんは、自分が何を頼んでるのか分かってて“兵器”って言ってるのか?」
「さあな」
「さあなって」
「分かってるんじゃねえの」
恭介は、火のついていない煙草を咥えるようにして、またすぐに外した。
「少なくとも、あいつは俺を犬扱いしてるわけじゃねえよ。ドッグフードを皿に盛って食わせてこないのがその証拠だ」
「たとえが嫌だなあ」
「たとえ話で兵器とか言ってくる女よりはマシだろうが」
レンはカップの中の黒い液面を見た。
管理官なら、この話をどう記録するだろうか。
灯紗希。
怪異誘引体質の可能性。
常盤恭介との相互依存関係。
常盤恭介は灯紗希を位置感知の基準として認識。
灯紗希は常盤恭介を怪異対抗戦力として運用。
書けば、そうなる。
けれど、それだけでは足りない気がした。
この店の空気は、書類にすると何かが抜け落ちる。
恭介は紗希を雑に扱っている。
紗希も恭介を兵器などと呼んでいる。
だが、そこにあるのは単なる利用関係ではない。
かといって、保護でもない。
もっと妙な形で、二人は噛み合っている。
レンがそれを言葉にしようとした、その時だった。
カウンターの奥から、紗希の声がした。
「……あっ」
レンが振り向く。
紗希は、厨房の入口あたりにしゃがみ込んでいた。
いつの間に移動したのか分からない。
手にはメモ帳。
視線は、床の隅へ向いている。
「新手の怪異が、台所に出てきましたよ」
レンは、ゆっくり目を瞬かせた。
「……え?」
紗希は、床の隅を覗き込みながら、ひどく冷静に続ける。
「なるほどなるほど。小型ですが、目玉がついてるんですね」
紗希は、床の隅を覗き込みながら呟いた。
厨房の入り口。冷蔵庫と棚のあいだの、少し暗くなった隙間に、それはいた。
大きさは、丸めた雑巾ほどだろうか。
黒い。
毛玉のようにも、焦げた肉の塊のようにも見える。表面は濡れているのに、輪郭だけが妙にざらついていた。足はない。だが、下面に細かな棘のようなものがいくつも生えていて、それを床に引っかけるようにして、じりじりと動いている。
その中央に、目玉が一つ。
大きすぎる目が、ぎょろりと紗希を見ていた。
「足は……ない? いや、下面に細かい棘のようなものがありますね。移動方法は、這うというより滑る感じでしょうか」
「紗希ちゃん?」
レンが、椅子から半分だけ腰を浮かせた。
「それ、近づいて観察するものじゃないと思うんだけど」
「大丈夫です。まだ距離があります」
「その距離感がもう信用できないんだよなあ」
紗希は聞いていなかった。
メモ帳を片手に、さらに少しだけ顔を近づける。
「目玉の動きに反応性あり。こちらを追っていますね。光への反応は……」
その瞬間、黒い塊の目玉が、ぎゅるりと縦に開いた。
「……あっ」
紗希が小さく声を漏らす。
「目から怪光線。あっ」
青白い光が、厨房の床を走った。
音はほとんどない。だが、光が紗希の顔の前で弾けた途端、彼女の肩がびくんと跳ねた。
「あっ、あばばばば……!」
「何かヤバい攻撃されてね!?」
レンが立ち上がる。
「やっぱ、ほっといたら大変なことになるよね紗希ちゃんって!」
恭介は、椅子にもたれたまま、ちらりと厨房の方を見た。
「お、流石の俺も気づかなかった。……まあ丁度いいや、ほれ。ああいう感じだ」
「説明に使うな!」
恭介はようやく椅子から立ち上がる。
口調だけは、まるで落としたスプーンでも拾いに行くような気軽さだった。
「わりーわりー、紗希。そのままやられててくれ」
「あばばば……やられててくれって言いました!?」
「言っただけだろ。まだ死んでねえじゃん」
「“まだ”って言いましたね今!」
抗議する紗希を横目に、恭介は厨房へ踏み込んだ。
小型怪異の目玉が、今度は恭介の方を向く。
ぎょろりとした瞳孔が収縮し、再び光が集まりかけた。
だが、遅い。
恭介の手が、黒い塊を上から掴んだ。
ぐに、と嫌な音がする。
怪異が暴れた。棘のような下面を床に擦りつけ、黒い汁を飛ばしながら、恭介の指の隙間から逃げようとする。
「小せぇな」
恭介はそれを、口の上まで持ち上げた。
レンが一瞬、何をするのか分からず固まる。
次の瞬間、恭介の手の中で、怪異が潰れた。
ぐちゃり。
果実を握り潰すような音だった。
黒い液体が、恭介の手の中から垂れる。彼はそれを、まるで熟れた果物の汁でも啜るように、口元へ流し込んだ。
美味そうですらあった。
だが、傍から見れば、小動物を生きたまま握り潰しているようにしか見えない。
「うわ……」
レンが素直に引いた。
「俺、踊り食い以上にグロい食い方してるやつ見たの、生まれて初めてかもしれねえ……」
「喰えりゃ同じだろ」
「同じじゃないから言ってるんだよ」
紗希はようやく痺れから復帰し、片手で頬を押さえながら立ち上がった。
「先輩、厨房でそういう処理しないでください」
「怪異だろ」
「怪異でもです。衛生観念というものがあります」
「さっきまで怪光線浴びてた奴が、よく言うぜ」
「被害者だからこそ言います」
恭介の足元で、ぽろぽろと何かが転がった。
目玉だった。
怪異の中に詰まっていたのか、潰された拍子に床へこぼれたらしい。小さな目玉がいくつか、コロコロと厨房の床を転がっていく。
恭介はそれを見下ろした。
「……ここは喰えない所っぽいな」
「食材みたいな分類やめてください」
恭介は返事の代わりに、足を上げた。
ぐしゃ。
目玉の一つが潰れる。
さらに、ぐしゃ、ぐしゃ、と雑に踏み潰していく。
黒い染みが床に広がった。
紗希が、心底嫌そうに眉を寄せる。
「掃除するの、私なんですけど」
「仕事増えてよかったな」
「よくないです」
レンは、厨房の床に残った黒い染みと、踏み潰された目玉の跡を見て、しばらく言葉を失っていた。
怪異は、もういない。
恭介が握り潰し、啜り、残った部分は踏み潰した。
ただそれだけだ。
ただそれだけで、さっきまで台所の隅にいた異常は、跡形もなく処理されている。
討伐ではない。
祓魔でもない。
処理という言葉ですら、まだ綺麗すぎる。
捕食だった。
「……た、頼むからさ」
レンは、ようやく声を出した。
「怪異を見つけたら、俺か恭介を呼んでくれ。マジで」
紗希は頬を押さえたまま、きょとんとした顔をする。
「でも、観察しないと特徴が分かりませんし」
「観察より先に生存を優先してくれない?」
「生存したうえで観察したいですね」
「そこは“まず逃げます”って言ってほしかったなあ」
紗希は少し考えてから、申し訳なさそうに首を振った。
「すみません。嘘はよくないと思います」
「正直さがつらい」
レンが額を押さえる。
恭介は厨房の床に残った黒い染みを靴底で雑に擦りながら、鼻で笑った。
「あいつ、ちょっと馬鹿なんだよ」
「聞こえてますよ」
「聞こえるように言ったんだよ」
「なお悪いです」
紗希が抗議するが、恭介はまるで気にしていない。
「……まあ、そのおかげで、怪異がそこにいるって分かりやすいから、俺は止めねえんだけどな」
「止めろ。マジで!」
レンが思わず言う。
恭介は肩を竦めた。
「普通に止めて聞くような奴かよ」
「それは……まあ……」
レンは、否定できなかった。
紗希はその横で、痺れの残る指先を軽く動かしながら、すでにメモ帳へ何かを書こうとしている。
「目からの光線は、痛みより痺れに近いですね。神経系への干渉でしょうか。あと、視界が一瞬白く飛びました」
「自分の被害を冷静に資料化しないで」
「新鮮なうちに記録しないと」
「魚かよ」
恭介がぼそっと言った。
紗希は、メモを取りながら平然と返す。
「鮮度は大事ですよ」
「本当に飲食店の娘か?」
「飲食店の娘だからです」
「その理屈はおかしい」
レンは、二人のやり取りを見ながら、ふと以前の出来事を思い出した。
進路指導室での一件。
状況を打破するために、紗希は自分の腕を切った。
迷いがなかったわけではない。痛みがなかったわけでもない。
それでも、やった。
必要だと判断したから。
死ぬのが怖くないのか、この子は。
そう思いかけて、レンは少しだけ違うと感じた。
怖くないわけではない。
おそらく、恐怖はあるはず。
ただ、怖がって立ち止まるより先に、見る方を選ぶ。
痛がるより先に、記録する。
逃げるより先に、意味を探す。
それが灯紗希という少女の、どうしようもなく歪んだ生存法なのだろう。
「あと、こないだの志藤の時にもあったけど」
恭介が、思い出したように言った。
レンが顔を上げる。
「こいつの血液でも“照らせる”って分かったから、ぶっ刺されて返り血でも浴びせてくれれば、もうね」
恭介は、ニヤリと口元を歪めた。
「……サイコーだぜ」
レンは真顔になった。
「サイテーだよ」
紗希も、静かに頷いた。
「先輩。発想が悪人のそれです」
「結果的に助かるならいいだろ」
「よくないです」
「細けぇなあ」
「命に関わる話を細部扱いしないでください」
レンは、思わず深く息を吐いた。
常盤恭介は、紗希を守るために動いているわけではない。
少なくとも、本人はそういう言い方をしない。
紗希も、守られるために恭介のそばにいるわけではない。
彼女は、自分に寄ってくる怪異を観察し、記録し、必要なら自分の身体すら材料にする。
恭介は、それを喰う。
喰えなければ壊す。
歪んでいる。
けれど、その歪みは噛み合っている。
この店では、異常が日常の手順に組み込まれている。
紗希が見つける。
恭介が喰う。
紗希が記録する。
恭介が文句を言う。
レンが突っ込む。
流れとしては、奇妙なほど自然だった。
だが、正常ではない。
絶対に。
「紗希ちゃん」
「はい?」
「怪異に襲われた直後くらい、少しは怖がってもいいんだよ」
「怖がるふりですか?」
「いや、ふりじゃなくて」
「本気で怖がる場合、それが邪魔をして観察精度が落ちる可能性があります」
「う~ん、わかった。もういいや」
レンは諦めた。
恭介が、厨房の床を顎で示す。
「おい紗希。掃除」
「先輩が汚したんですけど」
「俺が処理したんだろ」
「処理と清掃は別工程です」
「めんどくせぇ店だな」
「飲食店なので」
紗希はそう言って、布巾と消毒用のスプレーを取りに行く。
ほんの数十秒前に怪光線を浴びて「あばばばば」となっていた人間とは思えないほど、動きがこなれていた。
普通に戻るのが早すぎる。
レンは、そのことに少しだけ怖さを覚えた。
報告書にすれば、こうなるだろう。
灯紗希。
怪異誘引体質の可能性。
危険対象への接近傾向あり。
恐怖反応より観察反応が先行。
常盤恭介との相互依存関係を確認。
常盤恭介。
灯紗希の異常接近に対し即応。
言動は粗暴。
処理方法は捕食。
対象の無力化速度は極めて高い。
書けば、そうなる。
だが、やはり足りない。
書類にすると、この店の温度が抜け落ちる。
コーヒーの匂い。
床を拭く紗希の背中。
恭介の不機嫌そうな顔。
怪異を喰った直後なのに、何事もなかったように戻ってくる会話。
異常なのに、成立している。
その均衡が、どれほど脆いものなのかは分からない。
分からないが――
その時だった。
――カラン。
ドアベルが鳴った。
軽い。
妙に軽い音だった。
レンの指が、カップの縁で止まる。
違和感に導かれるようにして、視線が入口へ向いた。




