第2話 乳製品と怪奇事件
「これ、切り抜きなんだけど」
美和は、スマートフォンの画面をこちらへ向けた。
「本家はもう消えてるっぽい。投稿主のアカウントごと」
「アカウントごと、ですか」
紗希はカウンター越しに画面を覗き込む。
そこに映っていたのは、暗い工業地帯だった。
錆びたゲート。
黄色い立入禁止のテープ。
剥がれかけた看板。
その向こうに続く、黒く沈んだ搬入路。
動画は縦長で、画質はあまり良くない。手ブレもひどく、画面の端には切り抜き主が後から乗せたらしい字幕が流れているが、肝心の投稿主の声は生音声のままだ。
『はい、というわけで今日はですねー、噂の旧工業地帯に来ております』
動画の中の投稿主は、わざと明るい声を出していた。
懐中電灯の丸い光が、錆びた配管を照らす。
ぽたり。
水滴が落ちる音がする。
通路の奥には、白い霧が薄く流れていた。
「ここ、たぶん外周ゲート抜けた先だと思うんだよね。コメントだと、搬入通路じゃないかって言われてた」
「なるほど。配管と床の幅を見る限り、資材搬入用の通路っぽいですね」
「なんで分かるの」
「工場跡なら、たぶんそういう構造かなと」
「怖い話への理解が早いんだよなあ」
美和は呆れたように言いながらも、画面を進める。
動画の中で、投稿主はさらに奥へ進んでいく。
ライトが揺れる。
配管の影が壁を這う。
霧が濃くなる。
『うわ、なんか白いな。なにこれ。煙?』
投稿主の声は、まだ冗談めいていた。
怖がってはいるが、それでも再生数を意識した明るさがある。
やがて画面は、広い倉庫のような場所へ入った。
天井は高い。鉄骨が剥き出しになり、上の方に割れた天窓が見える。床には黒ずんだ水たまりがあり、ライトが動くたびに、濁った光を反射していた。
「ここから。ここ、マジで無理」
美和の声が小さくなる。
懐中電灯の光が、壁に向いた。
白い。
最初は、塗料が膨らんでいるように見えた。
あるいは、湿気を吸った断熱材か、古い壁紙が浮いたものか。画面越しでは、すぐには分からない。
けれど、投稿主が近づくにつれて、それが人の肩の形をしていることが分かった。
肩。
首。
腕。
頬の片側。
白い膜に包まれた何かが、半分ほど壁に沈み込んでいる。
『え、待って。これ、マネキン?』
投稿主が笑おうとする。
けれど、声は引きつっていた。
ライトがさらに寄る。
白い膜の表面に、細い筋が浮いていた。血管のようで、枝のようで、虫の羽に走る脈のようにも見える。白い皮膚の下を、さらに白い線が這っているせいで、輪郭がひどく曖昧だった。
美和が、画面を指差す。
「ほら、ここ。ここ見て」
壁から、指先が出ていた。
白い膜に埋もれた手の、先端だけ。
爪が割れている。
第一関節のあたりまで白く濁っている。
その指が、ほんの一度だけ、曲がった。
助けを求めるように。
美和が、小さく肩を震わせる。
「最初、ほんとにマネキンかと思ったんだけどさ。指、動いたんだよ」
「動いていますね」
「冷静に確認しないで」
動画の音が、少し大きくなった。
ひゅう。
ひゅう。
細い呼吸音が、スマートフォンのスピーカーから漏れる。
口は見えない。白い膜に塞がれている。
それなのに、息のような音だけがしていた。
「ここ、ほんと無理。口塞がってるのに、息してるっぽいの」
「確かに、呼吸音に聞こえますね」
「聞こえますね、じゃないんだよ紗希ちゃん」
紗希は画面に顔を近づけた。
美和が「近い近い」と慌てている横で、紗希は少しだけ眉を寄せる。
「あ、これ」
「なに?」
「人の身体が溶けて白くなってませんか?」
その瞬間、カウンターの端でスプーンを持っていた恭介の手が止まった。
「……おい」
「はい?」
「今俺、クリームシチュー喰ってんだからよ。そういうのやめろや」
隣に座ったレンも、自分の皿を見下ろした。
「お、俺はカニクリームコロッケ……」
「え? すみません。食感の話ではなく、性質の話です」
「本当に飲食やってる人間の発言か!」
レンが珍しく強めに突っ込んだ。
恭介も眉間に皺を寄せる。
「人の事ノンデリとかよく言えるよなおまえ!」
「え~、そんなに見た目、似てるかなあ。私の料理。……ディスられちゃいました、ショックです。……ヨヨヨ……」
「無敵かてめえ!」
男性陣がカウンターの端でぶーぶーと騒ぎ始める。
美和はその様子を見て一瞬だけ、ぽかんとしたあと。力なく笑った。
「いや、ほんと……この店、怪談聞く空気じゃないんだよなあ」
「そうですか? 落ち着いて分析できる良い環境だと思います」
「その分析が怖いんだって」
紗希は、メモ帳へ視線を落とした。
白い膜。
壁との癒着。
口の閉塞。
呼吸音。
白い筋。
蛹化途中?
そこまで書いてから、もう一度画面を見る。
動画は進んでいた。
『え、なにこれ。なんか、腕、変なんだけど』
投稿主の声が、急に近くなる。
画面が大きく揺れた。自分の腕を映しているのだと分かるまで、少し時間がかかった。
袖がまくられている。
その皮膚の下に、白い筋が浮かんでいた。
細く、枝分かれしながら、手首から肘へ伸びていく。
『いやいやいや、待って待って。これ、なんか付いた? かぶれた?』
投稿主の息が荒くなる。
その奥で、何かが聞こえた。
声。
誰かが名前を呼んだような音だった。
だが、動画のノイズに潰れて聞き取れない。
『え?』
投稿主が振り返る。
白い霧が画面いっぱいに広がった。
壁が映る。
白い人型が、いくつも浮き出ているように見える。
そのうちの一つが、こちらを向いた。
ように見えた。
次の瞬間、映像は途切れた。
黒い画面に、切り抜き動画の再生バーだけが残る。
「……ここで終わり」
美和はスマートフォンの画面を伏せた。
さっきまでの軽さは、少しだけ薄れていた。
「この人、その数日後から更新が止まってる。で、本家の動画も消えた。アカウントごと」
レンの声が、少しだけ低くなる。
「その動画、元の投稿はもう見られないんだね?」
「え? あ、うん。本家は消えてる。切り抜きなら残ってるけど」
「消えてる、か」
「なに。お兄さんも気になる感じ?」
「仕事柄ね」
「カウンセラーって、廃墟動画も見るの?」
レンは、いつもの軽い笑顔に戻した。
「最近のカウンセラーは多忙なんだよ」
「へえ。大変なんだね、カウンセラー」
「そうそう。心の闇から廃墟探索まで幅広くね」
「絶対そんな仕事じゃないよね?」
「内緒」
レンは笑って流した。
だが、視線だけは伏せられたスマートフォンから離れていなかった。
消えた動画。
消えた投稿主。
壁の中で呼吸していた人型。
投稿主の腕に浮いた白い筋。
ただの怪談として片付けるには、少し形がありすぎる。
「あとさ」
美和が、思い出したように言った。
「その動画の途中で、投稿主が変なこと言ってたんだよね」
「変なこと?」
「匂い。なんか、変な匂いがするって」
恭介が、そこで初めてはっきり顔を上げた。
「……匂い?」
「うん。甘いけど腐ってる、みたいな。コメントだと、熟れすぎた果物っぽいって言われてた」
「熟れた桃みてぇな匂いか」
恭介の声が、わずかに低くなる。
紗希はすぐにそれを拾った。
「先輩?」
「甘くて腐った匂い出してんだろ」
恭介は、スプーンを皿に置いた。
もうシチューを食べる気はなくなったらしい。
「そりゃあよ、誘き寄せてんだよ」
「誘き寄せるって、何を?」
美和が首を傾げる。
「虫だろ」
「いや、だからオキクムシが――」
「違ぇよ」
恭介は面倒くさそうに言った。
「虫はどっちだって話だ」
美和が言葉に詰まる。
紗希は、ペン先をメモ帳に当てたまま、少しだけ考え込んだ。
「つまり、オキクムシが人を襲っているというより、人間が誘引されている可能性がある、と」
「知らねぇ。そういう小難しい話は、てめーが一人でやってろ」
「誘引臭、ですね」
「蜂が飛ぶーってな」
「先輩、その言い方だと急に童謡になります」
「そこ突っ込むとこかよ」
恭介は不機嫌そうに皿を遠ざけた。
シチューはまだ半分ほど残っている。
その白さが、さっきの動画の壁と少しだけ重なって見えたのか、彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「もう食わねぇ」
「残すんですか?」
「お前のせいだろ」
「私は料理の出来に問題があるのかと思って、少し傷ついていたところなんですが」
「その心配できる神経がすげぇよ」
美和が、力なく笑った。
「紗希、やっぱり怪談聞いてる時のリアクション変だよね」
「そうですか?」
「ふりでいいから怖がってよ。怪談話してるこっちが不安になるから」
「なるほどなるほど。今後の課題にします」
「絶対やる気ない返事だ」
紗希はメモ帳に、最後の一文を書き足した。
――虫は、どっち?
その文字を見て、恭介が顔をしかめる。
「俺の台詞、勝手にメモんな」
「重要証言です」
「証言じゃねえ。飯がまずくなっただけだ」
「でも、先輩がそういう時は、だいたい後で面倒なことになりますから」
「人を厄介事の前兆扱いすんな」
「前兆ではなく、観測器官とでも言ってほしいですねえ」
「余計悪いわ」
紗希は、メモ帳を閉じた。
オキクムシ。
旧工業地帯。
白い蛹。
甘く腐った匂い。
誘引臭。
虫はどっち。
ただの怪談としては、情報が揃いすぎている。
けれど、事件として扱うには、まだ足りない。
紗希は、伏せられたスマートフォンを見た。
美和は冗談めかして話している。怖がりながら、それでも誰かに聞いてほしくて持ってきた話。
恭介は不機嫌そうにシチューを睨んでいる。
レンは笑っているが、その目の奥だけは少し冷えている。
それぞれの反応が、少しずつ違う。
紗希は、その違いを覚えておくことにした。
「美和」
「ん?」
「コーヒー一杯、無料です」
「やった」
「……ただし」
「ただし?」
「その切り抜き、あとで送ってください」
美和は、あからさまに嫌そうな顔をした。
「ええ……見返すの?」
「資料ですから」
「資料って言えば何でも許されると思ってる?」
「だめですか?」
「だめって言っても見るんでしょ」
「はい」
「正直だね!」
美和がため息をつく。
けれど、スマートフォンを鞄にしまう手つきは、どこかほっとしているようにも見えた。
誰かに話したことで、ほんの少しだけ怖さが薄まったのかもしれない。
その一方で、レンはカップを手に取ったまま、短く息を吐いた。
「旧工業地帯、ね」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、確認するような呟きだった。
紗希はそれを聞き逃さなかった。
「レンさんも、気になりますか?」
「まあね。最近のカウンセラーは多忙だから」
「便利な職業ですね」
「そう思うなら、ならない方がいいよ」
レンはそう言って、コーヒーを一口飲んだ。
湯気の向こうで、その目だけが笑っていなかった。
外では、夕方の光が少しずつ薄くなっている。
〈灯〉の中には、コーヒーとクリームシチューと、少し焦げたコロッケの匂いが残っていた。
そのどれにも混ざらない、まだここにはないはずの匂いを、恭介だけが嫌そうに思い出している。
甘くて、腐った匂い。
熟れすぎた果物のような。
虫を誘き寄せるための匂い。
恭介は舌打ちをして、皿をさらに遠ざけた。
「……最悪だ」
「料理の話ですか?」
「違ぇよ」
そう言いながら、恭介は少しだけ視線を窓の外へ向けた。
西の空に、薄い雲がかかっている。
雨が近いのかもしれなかった。




