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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第2章 夢蝶はそこにいるか
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第1話 更屋敷

 喫茶店〈灯〉には、昼と夜のあいだみたいな時間がある。


 客足が途切れ、コーヒーの香りだけが店内に残り、外の通りを歩く人の声が、窓越しに少しだけ薄まって聞こえる時間だ。


 カウンターの内側で、灯紗希は洗い終えたカップを布巾で拭いていた。


 白い陶器の表面を、指先で軽くなぞる。水滴が残っていないことを確かめ、棚へ戻す。時計の針は、夕方にはまだ少し早い位置を指している。


 店は静かだった。


 ただし、静かだからといって平和とは限らない。


 カウンターの端では、常盤恭介がクリームシチューを食べていた。片肘をつき、やる気のない顔でスプーンを動かしている。制服でも仕事着でもない、適当な格好。客なのか従業員なのか、今日も境界が曖昧だった。


「先輩」


「あ?」


「それ、賄いじゃなくて試作品ですから。感想をください」


「白い」


「見た目ではなく」


「熱い」


「温度でもなく」


「腹に入る」


「食レポの才能が壊滅していますね」


 恭介は面倒くさそうに鼻を鳴らした。


「食えりゃいいだろ」


「よくないです。将来的にメニューに入れるかもしれないんですから」


「客に食わせる気かよ、これ」


「今、先輩が食べてます」


「俺を毒見に使うな」


「毒ではありません。試作です」


「似たようなもんだろ」


 そんなやり取りをしていると、ドアベルが軽く鳴った。


 カラン、と。


 入ってきたのは、美和だった。


 制服姿のまま、肩に鞄をかけている。以前より顔色はいい。目元に少し疲れは残っているが、それでも足取りは軽かった。


「やっほー、紗希。今日、いいネタ持ってきたよ」


 開口一番、そう言った。


 紗希は手にしていたカップを棚へ戻し、ぱっと顔を上げる。


「本当ですか?」


「本当本当。これはかなり自信ある」


「では、審査しましょう」


「審査制なんだ」


「もちろんです。無料コーヒーの行方がかかっていますから」


 美和はカウンター席に腰を下ろしながら、得意げに笑った。


 いつの間にか、彼女と紗希のあいだには妙な契約ができていた。美和が面白そうな噂や怪談を拾ってくる。それが紗希の創作欲を刺激する内容だった場合、コーヒー一杯が無料になる。


 ただの世間話に報酬制度を作るあたり、いかにも紗希らしい。

 そして、それに乗ってくるあたり、美和もすっかり馴染んでいた。


「で? 今日は何ですか。失踪事件ですか? 学校怪談ですか? それとも、近所の神社に出る首なし地蔵とか?」


「紗希、選択肢の癖が強いんだよ」


「どれでも歓迎です」


「歓迎しないでほしいんだけどなあ」


 美和は少しだけ肩をすくめてから、声を落とした。


「オキクムシって知ってる?」


 その名前に、紗希は目を瞬かせた。


「オキクムシ、ですか?」


「そう。カタカナでオキクムシ。漢字は知らない。というか、たぶん誰もちゃんと知らない」


「虫の名前ですか?」


「たぶん違う。いや、名前だけ聞くと虫っぽいんだけどさ。噂だと、虫そのものじゃなくて……なんか、蛹?」


「蛹」


 紗希の目が、分かりやすく輝いた。


「いいですね」


「いいんだ!?」


「続けてください」


「うん。まあ、紗希ならそう言うと思ったけど」


 美和は苦笑しつつ、カウンターに身を乗り出した。


「旧工業地帯、あるじゃん。海沿いの、今ほとんど使われてないとこ。フェンス張ってて、黄色いテープとか貼ってある場所」


「はい。ありますね」


「あそこ、霧の日に入ると戻れないって噂があって」


「王道ですね」


「評価しないで。怖いやつだから」


「すみません。続きを」


「で、奥まで行くと、白い壁があるんだって。壁っていうか、倉庫の中の壁なんだけど。そこに、人型の膨らみがあるらしいの」


「人型の膨らみ」


「そう。最初はマネキンとか、断熱材とか、そういうのに見えるんだけど、近づくと違うんだって」


 美和はそこで一度、言葉を切った。


 自分で話しておきながら、想像してしまったのか、わずかに顔をしかめる。


「白い膜みたいなのに、人が埋まってるの」


 恭介のスプーンが、かすかに止まった。


 だが、まだ何も言わない。


 紗希は、カウンター下からメモ帳を取り出していた。


「人が、白い膜に埋まっている」


「メモるんだ……」


「もちろんです」


「いや、まあ、そのために持ってきたんだけど」


 美和は複雑そうな顔で続けた。


「顔とか、腕とか、肩とかが、壁からちょっと浮き出てる。でも、全部真っ白で。皮膚なのか壁なのか分かんない感じ。で、口は塞がってるのに、息だけしてるんだって」


「息」


「ひゅー、ひゅーって。壁の中から」


「かなり良いですね」


「良くないって!」


 美和は即座に突っ込んだ。


 その声が思ったより大きく、恭介が面倒そうに片目だけ向ける。


「うるせぇな。怪談で盛り上がるなら外でやれ」


「先輩も聞いてください。重要な話かもしれません」


「お前が目ぇ輝かせてる時点で、ろくでもねえ話だろ」


「失礼ですね。目が輝くのは、知的好奇心の発露です」


「人はそれを野次馬根性って言うんだよ」


 美和は、そのやり取りを見て少し笑った。


 以前なら、こういう軽口にも肩を強張らせていたかもしれない。けれど今は、ちゃんと笑えている。


 紗希はそれを見て、ほんの少しだけ目元を和らげた。


「それで、美和。見た人はどうなるんですか?」


「あ、そうそう。そこからが怖いんだけど」


 美和はスマートフォンを取り出しながら話を続ける。


「それを見た人も、おかしくなるらしいんだよ。腕とか首に、白い血管みたいな筋が浮いてきて、体が重くなって、動けなくなる」


「白い血管」


「血管っていうか……枝? いや、動画だとね。虫の羽の中にある細い線、あの感じって言われてた」


「翅脈、ですね……」


 紗希は、その単語を小さく繰り返した。


 ペン先が、メモ帳の上を走る。


「で、最後は壁に貼りついて、そのまま蛹になるんだって」


「蛹になる」


「うん。中で身体が溶けて、別のものに作り替えられるとか何とか。で、蛹が割れたあと、中には誰もいない。残ってるのは、壁の奥から聞こえる羽音だけ」


「羽音」


「そう。ぶーん、じゃなくて、もっと薄いやつ。紙が擦れるみたいな音って言われてた」


 紗希は一瞬だけ黙った。


 怪談としてよくできている。

 名称、場所、条件、結果。どれも揃っている。


 霧の日。

 旧工業地帯。

 白い壁。

 蛹。

 羽音。


 紗希の創作脳が、勝手に構造を組み始める。


「面白そう!」


「やっぱり食いついた」


「ありがとうございます、美和! 今書いてる小説のネタにしちゃおっかなー!」


「でしょう、紗希ならきっと喜んでくれると思ってたんだよね!」


「コーヒー一杯、確定です」


「やった」


 美和が小さくガッツポーズをした、その時だった。


 もう一度、ドアベルが鳴る。


 カラン。


 今度入ってきたのは、レンだった。


 後ろで束ねた茶色の髪。モノトーンの服。胸元には十字架のペンダント。以前よりも自然な顔で〈灯〉に入ってくるあたり、すでに数度は足を運んでいるのだろう。


「いらっしゃいませ、レンさん」


「どうも。今日もやってる?」


「やってますよ。喫茶店ですから」


「そりゃそうだ」


 レンが軽く笑いながらカウンターへ向かおうとしたところで、美和が「あ」と声を上げた。


「こないだのカウンセラーのお兄さん」


 レンが足を止める。


 数秒だけ、美和の顔を見た。


 それから、記憶を辿るように目を細める。


「ああ。たしか、美和ちゃんだっけ?」


「はい。その節は、どうも」


 美和は、少し照れたように頭を下げた。


 レンの表情が、ほんのわずかに柔らかくなる。


「そっか。元気になってるんだね。良かったよ」


「まあ、ぼちぼちです。紗希に変な怪談売りつけて、コーヒー代浮かせるくらいには」


「それは何より」


 レンはカウンター席に腰を下ろした。


 紗希が水を出す。


「今日はカウンセリングですか? それとも監視ですか?」


「紗希ちゃん、会って早々に物騒だね」


「先輩がそう言ってました」


「恭介くん?」


 レンが視線を向けると、恭介はシチューを食べながら鼻を鳴らした。


「こいつ、最近うろつきすぎだろ」


「客だよ、客」


「客なら金払えよ」


「払ってるだろ」


「ならいい」


「いいんだ」


 レンは呆れたように笑い、紗希に注文を告げた。


「じゃあ、コーヒーと……何か軽く食えるものある?」


「カニクリームコロッケならあります」


「じゃあ、それで」


「白いものばっかりですね」


「え、なにその不穏なコメント」


 美和がスマートフォンを握り直す。


「ちょうどいいかも。今、オキクムシの話してたんですよ」


「オキクムシ?」


 レンの声が、少しだけ変わった。


 美和は気づいていない。

 紗希は気づいた。

 恭介は、たぶん聞いていないふりをしている。


「旧工業地帯の怪談です。霧の日に入ると戻れない。白い蛹。壁の中の人型。羽音」


 紗希が簡潔にまとめる。


「紗希、私よりまとめるのうまいかも!」


「整理は得意です」


「……リアクション芸は?」


「得意ですよ?」


「怖がるリアクションは薄いけどね〜」


 そんな女子二人の会話をよそに。

 レンは水を一口飲み、軽い調子で聞いた。


「で、それはただの噂?」


 美和は待ってましたとばかりに、スマートフォンを掲げた。


「それが、ただの噂じゃないっぽいんですよ」


 画面には、暗い動画のサムネイルが映っていた。


 錆びたゲート。

 黄色いテープ。

 白く曇った空気。


 タイトルには、粗い文字でこうあった。


 ――旧工業地帯のオキクムシを見に行ってみた。

すいません、一言だけどうしても。

深夜帯に見てくれてる方々、PVで確認させていただいております。

凄く励みになってます。ありがとうございます。

実際、深夜に読むのにちょうどいい話になってるのではないかなとも思ってますが。

どうしてもお礼が言いたくて。

作者が自我を出すべきではないかもとも思ってましたが。

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