第2章 プロローグ2 “観察任務”
「常盤恭介については、志々目博士の見解も確認したい」
管理官が、端末から視線を上げずに言った。
報告室の空気は、相変わらず冷えている。
相馬レンは、強化ガラスの向こうをちらりと見た。
検査室側にいる志々目博士は、停止した観測映像と、恭介の波形データを交互に眺めている。
老人は、面白い玩具を見つけた子供のような顔をしていた。
「博士」
管理官が呼ぶ。
「常盤恭介の身体能力について、現時点の見解を」
「ふむ」
志々目は、椅子の背もたれに身体を預けた。
細い指が、モニターの端を軽く叩く。
画面には、恭介の動作軌跡が表示されていた。
怪異の黒い枝が伸びる。
恭介が踏み込む。
冷蔵庫を持ち上げる。
投げる。
その直後、黒の波形が一瞬だけ跳ね上がる。
「単なる筋力ではないな」
志々目は言った。
「フィアー能力の副産物、という線も薄い。発動の兆候がない。渦眼の反応も、いわゆる能力者のそれとはずれておる」
「では?」
「黒を通しておる」
短い言葉だった。
レンが眉をひそめる。
「黒を、通す?」
「そうじゃ」
志々目は、モニターに表示された波形を指し示した。
「普通、人間の身体はブラックベインを拒む。侵入されれば壊れる。馴染めば怪異へ寄る。どちらにせよ、まともには保たん」
「そりゃ、まあ」
「だが、常盤恭介は違う。喰っておる。取り込んでおる。にもかかわらず、人の形を保っておる」
志々目の声は、淡々としていた。
だが、その奥には確かな熱がある。
研究者の熱。
未知のものを前にした人間の、どうしようもない好奇心。
「あれは、黒の通り道を持っておると見るべきじゃろうな」
「黒の経路、ですか」
レンが呟く。
その言葉に、志々目は満足げに頷いた。
「そう。黒の経路。氣の巡りとは別に、黒が人体を流れるための経路。君の場合は、外部処理と術式補助で無理に通しておる。だから負荷が大きい。出力にも限度がある」
「俺の話に飛び火しました?」
「するとも。君は比較対象としてちょうどいい」
「嫌な褒められ方だなあ」
レンが肩を竦める。
志々目は構わず続けた。
「だが、常盤恭介は違う。人工的な補助の跡がない。処置痕もない。道具も使っておらん。にもかかわらず、黒を通し、喰い、動く」
志々目は、そこでわずかに声を落とした。
「天然モノの黒の経路、とでも言うべきかもしれん」
報告室に、短い沈黙が落ちた。
レンは、少しだけ顔をしかめる。
「天然って。野菜じゃないんですから」
「野菜の方が、よほど扱いやすい」
「でしょうね。冷蔵庫も投げませんし」
その返しに、志々目は喉の奥で笑った。
管理官は笑わなかった。
「危険性は」
「高い」
志々目は即答した。
「ただし、危険性の種類を間違えてはならん。常盤恭介は、今のところ、黒を撒き散らす側ではない。喰う側じゃ。処理装置として見れば、極めて有用ですらある」
「処理装置、ね」
レンの声が少しだけ低くなる。
志々目はガラス越しに、レンを見た。
「気に入らんかね」
「人間を装置扱いする趣味はないんで」
「よい趣味じゃ」
志々目はあっさり言った。
「だが、趣味と現実は別じゃよ。彼が何であれ、黒を喰うという結果は残る。そして、その結果を必要とする現場は、必ず出る」
管理官が端末を閉じた。
小さな音が、報告室に響く。
「相馬レン」
「はいはい」
「常盤恭介、および灯紗希の監視を継続しろ」
レンの表情が露骨に嫌そうになる。
管理官は構わず続けた。
「加えて、喫茶店〈灯〉周辺の観測も継続。ブラックベイン発生頻度、怪異誘引率、常盤恭介の捕食頻度、灯紗希の観測反応。すべて記録する」
「仕事量、増えてません?」
「増やしている」
「堂々と言わないでくださいよ」
「必要なことだ」
管理官の声に、揺れはない。
「喫茶店〈灯〉は、発生点として不自然だ。常盤恭介は、その不自然な地点に居着いている。灯紗希は非能力者でありながら、異常な観測精度を示している」
管理官は、そこで一度だけレンを見る。
「三つが同じ場所にある。偶然と処理するには、材料が揃いすぎている」
レンは舌打ちを飲み込んだ。
分かっている。
理屈は分かる。
あの店はおかしい。
常盤恭介も、灯紗希も、普通ではない。
空間としても、関係としても、あまりに妙な形で安定している。
だからこそ、放置できない。
だが、それでも。
「監視って言い方、感じ悪いんですよね」
「では、観測と言い換えるか」
「もっと悪いですね」
管理官の表情は変わらない。
「平和なら、それを記録しろ」
淡々と、そう告げる。
「崩れるなら、崩れる瞬間を記録しろ」
レンは、そこで小さく息を吐いた。
「……了解しましたよ」
その返答を聞いてから、志々目が椅子を軋ませた。
「なら、こちらからも一つ」
レンが嫌そうに視線を向ける。
「なんですか。まだあるんですか」
「あるとも。むしろ、ここからが本題じゃ」
「勘弁してほしいなあ」
志々目は、レンのデータが映ったモニターへ視線を移した。
心拍。
黒の残留値。
経路負荷。
過去の出力履歴。
折れ線は、どれも綺麗ではない。
乱れ、跳ね、途切れかけ、また戻っている。
「相馬くん」
「はい」
「アクセラレータは使うな」
レンの目が細くなる。
管理官は口を挟まない。
この話は、志々目の領分だと分かっているのだろう。
「博士。まだ何も言ってませんよ」
「言う前に釘を刺しておる」
「信用ないなあ」
「信用しとるよ。だから、先に言う」
志々目は、穏やかに言った。
「君は、必要になれば使う」
レンは答えなかった。
沈黙が、そのまま肯定になった。
志々目は、机の上の小さな金属ケースに指を置いた。
中身は見えない。
だがレンには、それが何なのか分かっている。
黒の経路アクセラレータ。
〈蜃〉と、自分の身体に通された黒の経路を、一時的に深く接続するための補助機構。
使えば出力は跳ね上がる。
身体能力も、感覚も、フィアー能力の切断力も、一時的に引き上がる。
ただし、代償は軽くない。
「どうせ、アレの監視を命じられているということは、だ」
志々目は、停止した恭介の映像を顎で示した。
「アレと同じ基準で動かなければならない瞬間も、多発するじゃろうて」
レンが眉をひそめる。
「不吉なこと言いますね」
「……まあ、長年研究者やってる者としての勘だがね」
「その勘、当たるんですか?」
「外れてくれた方が嬉しい時ほど、よく当たる」
「最悪だ」
志々目は笑わなかった。
「あれは補助具ではない」
声が、少しだけ低くなる。
「導火線じゃ」
レンの表情から、軽さが薄れた。
「火をつければ走れる。だが、燃えるのは君の身体だ」
検査室の機械音が、低く続いている。
強化ガラスを挟んで、報告室と検査室は分かれている。
だがその言葉だけは、やけにはっきりとレンの側へ届いた。
「使わなきゃいいんでしょ。簡単な話だ」
レンは、いつもの調子で言った。
志々目は、静かに首を横へ振る。
「君は、簡単な話ほど守らん」
「ひどい言われようだ」
「実績に基づく評価じゃよ」
「なおさらひどい」
軽口は返ってきた。
だが、レンの目は笑っていなかった。
志々目も、それ以上は踏み込まない。
警告はした。
それでも使う時が来るなら、それは現場の判断だ。
現場とは、そういう場所だ。
報告室で正しいことが、現場でも正しいとは限らない。
だからこそ、WFAには“木こり”がいる。
ブラックベインの枝分かれを、最前線で間引く者たちが。
「報告は以上だ」
管理官が言った。
「相馬レン。明日以降、喫茶店〈灯〉周辺の監視を継続。異常発生時は、現場判断で対処しろ」
「はいはい。了解しましたよ」
レンは端末を閉じ、肩を回した。
そこで、わざとらしく溜息をつく。
「……貴重な“木こり”にやらせる仕事じゃないでしょう。これ」
管理官は無言で見る。
「常盤恭介の監視。灯紗希の観測。喫茶店〈灯〉周辺の記録。おまけに、ブラックベイン発生時は現場判断で対処」
レンは指折り数えてから、肩を竦めた。
「護衛の一つもないんですかい?」
管理官は、そこでようやく薄く笑った。
それは励ましではなかった。
何かを知っている人間の笑みだった。
「まあ、そう言うな」
レンの目が細くなる。
「現地にて、期待できる職員と巡り会えるかも知れんからな」
「……職員?」
「行けば分かる」
それ以上、管理官は答えなかった。
志々目は、ガラス越しにそのやり取りを見ていた。
期待できる職員。
曖昧な言い方だ。
だが、管理官がそう言う時は、たいてい何かを伏せている。
レンもそれを理解しているのだろう。
しばらく管理官の顔を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「はいはい。分かりましたよ」
報告室の扉が開く。
冷たい白色灯の光が、廊下へ細く漏れた。
レンは出口へ向かいながら、片手をひらひらと振る。
「じゃあ、行ってきますよ。喫茶店勤務に」
扉が閉まる。
音は軽い。
けれど、部屋の冷たさだけは変わらない。
志々目は、再びモニターへ視線を戻した。
停止画面の中で、常盤恭介が笑っている。
黒を喰い、冷蔵庫を投げ、少女に怒鳴られている。
怪物。
人間。
処理装置。
あるいは、そのどれでもない何か。
「さて」
志々目は、小さく呟いた。
「喫茶店勤務、か」
その言葉だけが、検査室の白い光の中に残った。




