第2章 プロローグ1 “監視任務”
昔々、あるところに、王子様とお姫様がいました。
王子様は、お姫様の名前を知っていました。
お姫様も、王子様の名前を知っていました。
それは、とても当たり前のことでした。
朝になれば目が覚めること。
夜になれば眠くなること。
雨の日には傘を差すこと。
好きな人の名前を、間違えずに呼べること。
そのくらい、簡単で、疑う必要のない幸福でした。
二人は並んで歩いていました。
城へ向かう道ではありません。
白馬もいません。
硝子の靴も、毒林檎も、魔女の呪いもありません。
どこにでもある駅前の道でした。
王子様は、少し汚れたスニーカーを履いていました。
お姫様は、小さなスマートフォンを片手に持っていました。
けれど、夢の中では、二人はたしかに王子様とお姫様でした。
王子様が名前を呼ぶと、お姫様は振り返ります。
お姫様が笑うと、王子様も笑います。
それだけで、世界は完成していました。
そういう、“どこかの誰か”2人のお話。
――そこで、映像は切り替わった。
幸福な夢の輪郭が、砂嵐のようなノイズに呑まれる。
画面の端に、白い文字列が走った。
観測記録。
分類未確定。
対象、常盤恭介。
記録媒体、簡易観測ドローン。
場所、喫茶店〈灯〉周辺。
次の瞬間、画面いっぱいに黒が弾けた。
夜だった。
映像は荒い。
何度も揺れ、焦点が合わず、赤い警告表示が画面端で点滅している。
喫茶店の裏手と思しき狭い空間で、黒い枝状のものが壁を這っていた。
ブラックベイン。
あるいは、それに寄生された小型怪異。
黒い枝は、何本もの節を増やしながら壁を裂き、配管を歪ませ、まるで建物そのものを内側から食い破ろうとしているようだった。
その中心へ、ひとりの男が突っ込んでいく。
常盤恭介。
祓うのでも、斬るのでも、封じるのでもない。
掴む。
引き千切る。
噛み砕く。
怪異の黒い枝が、男の肩を貫く。
だが、男は止まらなかった。
むしろ笑っていた。
『がーっはっはっは! 食わせろ! もっと食わせろ!!』
音声が割れている。
ドローンの集音性能が悲鳴を上げ、男の笑い声はひどく歪んでいた。
それでも、その楽しげな響きだけは、嫌になるほどはっきり残っている。
恭介は片手で怪異の胴に当たる部分を掴み、もう片方の手で近くにあった白い箱を持ち上げた。
白い箱。
いや、冷蔵庫だった。
業務用ではない。
家庭用の、まだ新しい冷蔵庫。
それが、片手で軽々と持ち上がった。
『ぎゃああああ! 買ったばかりの冷蔵庫を投げないでください!』
画面の外から、少女の悲鳴が飛ぶ。
灯紗希。
映像には姿が映っていない。
だが、声だけで分かる。
恐怖というより、抗議だった。
『るせぇ! ほっといたら殺される立場のくせによ!』
恭介が叫び返し、そのまま冷蔵庫を投げた。
黒い枝が潰れる。
壁が砕ける。
ドローンの映像が、大きく揺れた。
一瞬、画面が天井を向き、次に床を映し、また恭介を捉える。
『目もまともに見えてないんですから、意味ないことに使う必要、ないじゃないですかあ!』
『意味ならあるだろうが! 当たった!』
『当たったじゃなくて、当てたら駄目なものもあるんですよ!?』
恭介は返事をしなかった。
冷蔵庫で潰れた黒い枝の残骸へ飛びかかり、そのまま、噛みついた。
映像の色が乱れる。
黒が、男の口元へ吸い込まれていく。
捕食。
その言葉以外に、適切な分類はなかった。
黒い怪異は痙攣し、枝を暴れさせ、壁と床を削った。
だが、恭介は離れない。
喰っている。
その行為によって、怪異は縮み、萎み、輪郭を失っていく。
最後に、黒い枝の先端がドローンへ向かって跳ねた。
映像が白く飛ぶ。
耳障りなノイズ。
警告表示。
そして、停止。
画面の中で、常盤恭介は怪異の残骸を片手で掴んだまま、獣のように笑っていた。
「……天然モノかもしれんな」
志々目博士は、ぽつりと呟いた。
停止した映像を、しばらく眺める。
白い蛍光灯の光が、モニターの表面に薄く映り込んでいた。
その中で、志々目の皺深い顔もまた、半透明に浮いている。
老人だった。
白衣の肩は少し落ち、背中も曲がっている。
けれど、目だけは妙に若い。
濁っていない。
むしろ、濁らないまま老いてしまった目だった。
志々目は細い指で顎を撫でる。
映像の中の常盤恭介は、どう見ても普通ではない。
腕力。
反応速度。
耐久性。
そして、黒を取り込む速度。
どれも、単なる鍛錬や肉体変異では説明しきれない。
フィアー能力者のそれとも、違う。
能力の発露ではない。
もっと基礎的なもの。
呼吸や血流に近い。
体内を黒が通っている。
黒を流すための道が、最初からある。
人工的に作ったものではない。
志々目は、画面の端に表示された波形データを指先でなぞった。
黒い血管のように揺れる線が、恭介の動きに合わせて跳ねている。
「これをただの怪力と呼ぶには、少々無理がある」
誰に向けたともなく言ってから、志々目は視線を横へ動かした。
強化ガラスの向こうに、別の部屋がある。
報告室。
検査室よりも照明が落とされており、部屋全体が灰色に沈んで見えた。
壁には複数のモニターが並び、そのひとつには喫茶店〈灯〉周辺の簡易地図が表示されている。
地図の中心には、小さな赤い点。
観測注意地点。
喫茶店〈灯〉。
その横には、二つの名前が並んでいた。
常盤恭介。
灯紗希。
報告室の中央には、金属製の机が置かれている。
机の向こう側には、管理官が座っていた。
年齢の読みづらい男だった。
感情の薄い顔。
きっちり整えられた髪。
端末に落とされた視線。
その前に、相馬レンが立っている。
後ろで束ねた茶色の髪。
黒を基調にした服。
胸元には、十字架のペンダント。
相変わらず軽薄そうに見えるが、報告中の背筋だけは崩していない。
志々目は、ガラス越しにその横顔を見た。
相馬レン。
恐怖を断つ木こり。
フィアー能力〈蜃〉の使い手。
そして、人工的に黒の経路を通された、数少ない生存例。
検査室側では、測定機器が低く唸っている。
レンの過去のデータが、別のモニターに表示されていた。
心拍。
出力波形。
黒の残留値。
経路負荷。
どれも、正常とは言いがたい。
けれど、まだ壊れてはいない。
志々目は、薄く笑った。
「さて」
映像の一時停止を解除せず、志々目は椅子に深く座り直す。
強化ガラスの向こうでは、レンがちょうど報告を続けているところだった。
「――以上が、進路指導室で発生した一連の怪異事件の報告です」
レンの声は、報告用に少しだけ抑えられている。
ふざけた調子はない。
だが、完全に感情を消しているわけでもない。
「常盤恭介は、ブラックベイン由来の怪異を捕食可能。灯紗希は非能力者ですが、異常な観測精度を示しました。喫茶店〈灯〉周辺は、依然としてブラックベイン発生頻度が高い」
そこでレンは、わずかに言葉を切った。
「ただし、現時点で両名に明確な敵対行動はありません」
管理官は、端末から顔を上げない。
「敵対行動がないことと、危険でないことは同義ではない」
「分かってますよ」
レンは肩を竦めた。
「危険じゃないとは言いません。つーか、あの男に関しては、危険じゃないって報告する方が虚偽報告になります」
管理官の指が、端末の画面を滑る。
「では、排除対象か」
その問いに、レンはすぐには答えなかった。
沈黙が一拍だけ落ちる。
志々目は、強化ガラスの向こうでレンの表情がわずかに変わるのを見た。
軽薄さが薄れる。
代わりに出てきたのは、ひどく面倒そうな、けれど投げ出す気のない顔だった。
「……少なくとも、今のところは違います」
レンは言った。
「あれでも、一応、人間側にいますよ」
「人間側、か」
管理官が、初めて顔を上げた。
感情のない目が、レンを見た。
「相馬レン。君は、そう判断するんだな」
「現場判断です」
「私情ではなく?」
「私情で報告書を書くほど、俺は暇じゃありません」
志々目は、そのやり取りを聞きながら、小さく喉を鳴らした。
報告室の空気は冷たい。
清潔で、静かで、余計な匂いがない。
それは病院に似ていた。
同時に、役所にも似ていた。
そして、どちらよりも少しだけ人間味がなかった。
ここでは、怪異も人間も、まず記録になる。
分類される。
管理される。
必要なら処理される。
そういう場所だ。
だからこそ、相馬レンの言葉は少しだけ浮いて聞こえる。
人間側。
そんな曖昧な言葉は、報告書には向かない。
けれど、現場ではそういう曖昧さが、ときに命綱になることもある。
志々目は、もう一度モニターへ視線を戻した。
停止画面の中で、常盤恭介は笑っている。
怪異を掴み、黒を喰い、買ったばかりの冷蔵庫を投げ飛ばした男。
化け物と呼ぶには、人間くさい。
人間と呼ぶには、あまりに黒へ近すぎる。
志々目は、指先で机を軽く叩いた。
こん、こん、と乾いた音が検査室に響く。
「面白い」
小さく呟く。
報告室のレンが、ガラス越しにこちらを見た。
聞こえていたらしい。
「博士。今、絶対ろくでもない顔しましたよね」
「失礼な。老人の知的好奇心じゃよ」
「だいたい同義なんですよ、それ」
志々目は笑った。
その笑い声は、測定機器の低い駆動音に混ざって、薄く部屋に広がった。




