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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第1章 エピローグ 「兵器」

 その日の〈灯〉は、夕方からいつも通りに開いていた。


 窓の外では、橙原町の空がゆっくりと暮れていく。店の中には、コーヒーの香りと、古い時計の音と、カウンターの奥で湯が沸く小さな音があった。


 何もなかったような顔をして、日常は戻ってくる。


 ただし、戻ってきたものが、元通りとは限らない。


「先輩、そこ椅子です」


「あ?」


 カウンター横で、恭介の膝が椅子の脚にぶつかった。


 がたん、と音がする。


「……見えてる。いちいち口出しすんな」


「見えてる人は、今の角度で椅子に膝を入れません」


 紗希はカウンターの内側から、いつも通りの柔らかい声でそう言った。


 制服の上にエプロンをつけている。左腕にはまだ包帯が巻かれているが、昨日よりは動きが自然になっていた。カップを持つ手つきも、少しだけ慎重になっている程度だ。


 恭介はカウンター席に座ろうとして、今度は椅子の背に肩をぶつけた。


 がたん、とまた音がした。


「先輩」


「今のは椅子が悪い」


「椅子は昨日から同じ位置です」


「じゃあ元々の不具合だろ。製作者出てこい」


「責任転嫁しないでください」


 紗希はそう言いながら、皿を一枚カウンターへ置いた。


 焼きそば。


 トースト。


 追加の目玉焼き。


 なぜ喫茶店の夕方営業でその組み合わせになるのか、レンにはよく分からなかった。


 レンはカウンターの端に座り、コーヒーを片手にその様子を見ている。


「……昨日より悪化してない?」


「燃費が悪いんです」


 紗希が即答した。


「燃費」


「はい。昨日から、食べても食べても足りないみたいで。あと、視界も少し怪しいです。充電不足でしょうか?」


「家電みたいに言うね」


「家電より手がかかります」


「それは家電に失礼じゃない?」


 レンが言うと、恭介が睨んできた。


 たぶん睨んできたのだと思う。


 焦点が少しずれているので、レンの肩のあたりを睨んでいた。


「聞こえてんぞ」


「聞こえてるなら、ついでに足元も見えるようになってほしいな」


「うるせぇ」


 恭介は乱暴に椅子へ腰を下ろし、出された皿へ手を伸ばした。


 が、その手が微妙に皿の端を外す。


 紗希が何も言わず、皿を数センチだけ寄せた。


 恭介は何事もなかったように箸を取る。


「……介護じゃん」


 レンが呟く。


「介護ではありません」


 紗希はにこりと笑った。


「運用です」


「もっと怖い言い方になったな」


 恭介は焼きそばを頬張りながら、低く言う。


「誰が運用されてんだ」


「先輩です」


「即答すんな」


「右です」


「あ?」


「お冷や、右です」


 恭介は一瞬だけ固まり、それから右手を伸ばした。


 今度はちゃんとグラスを掴む。


 レンはそれを見て、妙に納得した。


 昨日、黒い翼のようなものを背負って異空間を破った男が、今日は水の位置を案内されている。


 化け物なのか、手のかかる居候なのか、判断に困る存在だった。


 恭介はしばらく無言で食べ続けたあと、皿を空にして立ち上がった。


「もういい、寝る」


「まだ夕方ですよ」


「腹が落ち着いたら眠くなった」


「追加で何か作ります?」


「起きたら食う」


「はいはい」


 紗希は慣れた調子で返した。


 恭介はカウンター席から離れ、店の奥にある階段へ向かう。足取りはいつもより少し荒く、少し危なっかしい。


「先輩、段差です」


「見えてる」


 次の瞬間、階段の一段目で足が軽く引っかかった。


 どん、と壁に肩をぶつける。


「……見えてる」


「見えてない人のぶつかり方でした」


「うるせぇ」


 恭介は不機嫌そうにそう言って、二階へ上がっていった。


 階段の向こうに姿が消える。


 店内に、少しだけ静けさが戻った。


 レンはその背中を見送ってから、カップを置いた。


「結局さ」


 紗希がカウンターの上を片付けながら、顔を上げる。


「はい?」


「君とあいつって、どういう関係なんだ?」


 レンは軽く聞いたつもりだった。


 けれど、言葉にしてみると、思ったよりも答えにくい問いだった。


 保護者と被保護者、というには違う。


 家族、というには血も距離も違う。


 友人、と言うには、恭介の態度がだいぶ雑すぎる。


 仕事仲間、と言うには、紗希はまだ高校生で、そもそも仕事として怪異事件に関わっているわけではない。


 紗希は、少し考えた。


 それから、悪戯っぽく笑った。


「兄というには頼りなくて」


 レンは黙って続きを待つ。


「友達というには薄情な。……私が怪異にボコボコにやられてるのを指さして、ゲラゲラ笑いながら撮影でも始めるくらいの」


「最低じゃない?」


「最低ですね」


 紗希は、あっさり認めた。


 それでも、口元の笑みは消えない。


 そこには呆れもある。迷惑もある。信頼と呼ぶには雑で、愛着と呼ぶには少し物騒な何かもある。


 紗希は、カウンターの向こうを見た。


 恭介が消えていった階段の方を見る。


「そういう、“兵器”です」


 レンは少しだけ目を細めた。


 兵器。


 その言い方は、たしかに恭介に似合っている。


 怪異との戦い方、異常者への詰め方はWFAのような専門家のやり方とは程遠く、別種の荒々しさがある。


 ただし、紗希はそこで終わらなかった。


 少し首を傾げて、付け加える。


「……まあ、兵器というよりは家電に近いかもしれませんけどね」


「家電?」


「壊れやすくて、燃費が悪くて、音が大きくて、たまに勝手に動きます」


「欠陥品じゃねぇか」


「でも、ないと困ります」


 紗希は、そう言って笑った。


 その時だった。


 二階から、派手な物音がした。


 どんがらがっしゃん、と。


 何かが倒れ、何かが転がり、ついでに壁か床にぶつかったような、非常に分かりやすい騒音だった。


 続いて、聞き慣れた怒鳴り声が降ってくる。


「いってええええ!」


 レンは天井を見上げた。


 紗希は、声を立てずに笑っている。


 レンはしばらく天井を見上げたまま黙っていたが、やがて深く息を吐いた。


「……でけぇ音を出す掃除機か何かかよっての」


 〈灯〉には、コーヒーの香りが満ちていた。


 窓の外では、橙原町の夕暮れがゆっくりと沈んでいく。


 黒いものは、まだ世界のどこかで枝分かれしている。


 けれど今日の〈灯〉には、いつもの騒がしい音が戻っていた。

これにて、1章は終わりです。

もし読んでくださった方いらっしゃいましたら、ありがとうございます。

2章を引き続き投稿していこうと思います。

後書きは、敢えて控えめに締めさせていただきます。

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