第51話 口
志藤の絶叫は、長く続かなかった。
「私に、声を聞かせるなぁああ!」
叫んだ。
確かに、喉が裂けるほど叫んだはずだった。
だが、その声は反響しなかった。壁にぶつからない。天井へ跳ね返らない。額縁の中に吸い込まれることもない。彼の声は、足元に広がる濡れた層へ落ち、泡にもならず、ただ沈んでいった。
志藤は、荒い息を吐いた。
肩が上下する。
喉が焼けるように痛む。
それでも、自分の声がどこにも残っていないことだけが分かった。
「……なぜ」
その呟きさえ、すぐに沈む。
志藤は壊れたICレコーダーを抱え直した。
まだ手の中にある。
冷たい破片。割れた液晶。欠けた外装。押し潰されたスピーカー穴。自分が声を集め、保存し、再生するために使ってきた小さな器。
その中から、音がしていた。
ざり、と。
古い砂を噛むようなノイズ。
その奥から、細い息が流れる。
『返して』
志藤の顔が歪んだ。
「違う」
彼はすぐに停止ボタンを押した。
反応はない。
もう一度押す。
止まらない。
『助けて』
「違う!」
親指がボタンを叩く。割れた外装がぎしりと軋む。液晶の割れ目に、黒い筋が走った。
それでも、音は止まらない。
『苦しい』
「黙れ」
志藤はICレコーダーを床へ叩きつけた。
乾いた破裂音がした。
外装がさらに砕け、破片が濡れた声の層に散った。液晶の欠片が沈み、赤黒い線のようなものが床の奥へ溶けていく。
それでも、声は止まらなかった。
『やめて』
「違う、違う、違う……!」
志藤は震える手で、壊れたICレコーダーを拾い上げた。
「これは、私が求めた声ではない」
息が荒くなる。
「ひなの声ではない。私が残そうとしたものではない。これは違う。こんなものは、ただの失敗作だ。ただの材料だ。私は、正しい声を――」
『返して』
志藤の言葉が止まった。
声は、ICレコーダーからだけ聞こえているのではなかった。
近い。
あまりにも近い。
志藤は振り向いた。
誰もいない。
そこに、恭介はいない。紗希もいない。白い少女もいない。志藤を見下ろす誰かの影も、彼を責める顔も、そこにはなかった。
ただ暗い空間がある。
崩れた額縁の残骸。
床とも壁とも分からない、濡れた声の層。
遠くで開閉する、無数の口。
それだけだ。
なのに、声は耳元で聞こえる。
『返して』
志藤は耳を押さえた。
止まらない。
『口を』
右耳を塞ぐ。
まだ聞こえる。
『声を』
左耳を塞ぐ。
まだ聞こえる。
『息を』
違う。
外からではない。
壁からでも、床からでも、壊れたICレコーダーからでもない。
耳の内側から聞こえる。
「……何だ」
志藤は、両耳を押さえたまま後ずさった。
足元が沈む。濡れた声の層が靴を飲み込み、呼吸音の泡がふつふつと浮かぶ。
その時、視界の端で、黒い反射が揺れた。
鏡。
いや、鏡ではない。
割れた額縁の残骸に溜まった黒い膜か、顔の海の表面か、もしくは進路指導室の大鏡の欠片だったものかもしれない。
そこに、志藤の顔が映っていた。
志藤は、ゆっくりと顔を向ける。
自分の顔がある。
白衣の襟元が乱れ、頬はこけ、片目の奥には黒い渦の残滓がまだ鈍く蠢いている。唇は震え、額には汗が浮いていた。
だが、それだけではなかった。
耳のあたりが、動いている。
「……?」
志藤は黒い反射面へ近づいた。
耳の周囲。
こめかみの下。
頬の端。
そこに、小さな穴がいくつも開いていた。
最初は、傷に見えた。
黒い孔。
針で刺したような、小さな裂け目。
それが皮膚の上で、呼吸するように開いたり閉じたりしている。
『返して』
その穴の一つが、動いた。
志藤は息を止めた。
穴の奥で、白いものがちらりと光った。
歯。
「……違う」
志藤は、反射面に顔を近づけた。
穴ではない。
裂け目でもない。
耳元に蠢いていたものの一つ一つが、口だった。
志藤は叫んだ。
叫びながら、耳を押さえた。
耳元に開いた小さな口たちは、指で塞いでも黙らなかった。掌の下で、湿った唇が動く。皮膚の隙間から声が漏れる。自分の身体から聞こえているはずなのに、どこか遠い場所で録音された音のように、ざらついて、冷たい。
『返して』
「やめろ」
『口を』
「黙れ」
『声を』
「黙れと言っている!」
志藤は爪を立てた。
耳の周りの皮膚を掻きむしる。小さな口を潰そうとする。だが、爪先に触れた感触は柔らかく、湿っていて、潰れたと思った次の瞬間には、別の場所でまた開いた。
『息を』
『名前を』
「違う……違う!」
志藤は壊れたICレコーダーの破片へ手を伸ばした。
割れた外装の一部が、濡れた声の層に半分沈んでいる。鋭く欠けた縁が、黒い膜の中でかすかに光った。
それを拾い上げる。
指が震える。
これで切ればいい。
聞こえないようにすればいい。
耳を塞ぐだけで駄目なら、耳ごと落とせばいい。声の入り口を潰せばいい。どこから聞こえているのか分からないなら、まずこの耳を壊せばいい。
志藤は、破片を耳元へ当てた。
その瞬間。
手の甲が動いた。
「……っ?」
皮膚の下で、何かが蠢いた。
血管ではない。筋でもない。黒い点がぷつりと浮かび、それが横に裂ける。小さな唇のように開き、内側から白いものが覗いた。
歯だった。
『返して』
手の甲の口が、そう言った。
志藤は破片を取り落とした。
「う、あ……」
右手だけではない。
掌にも開く。
指の付け根にも。
手首にも。
袖の内側で、腕の皮膚が小さく波打つ。布の下から、いくつもの口がもごもごと動き始める。
『口を』
『声を』
『息を』
志藤は腕を押さえた。
押さえた指の隙間から、また別の声が漏れた。
「やめろ……やめろ、やめろ!」
声は止まらない。
喉元が痙攣した。
志藤は自分の喉を押さえる。そこにも、細い裂け目が浮かんでいた。呼吸のたびに開閉する。自分の声の通り道だった場所に、自分ではない口が咲いている。
『返して』
喉元の口が言った。
志藤の背筋が凍る。
胸元にも開く。
白衣の下で、皮膚が小さく盛り上がる。ボタンの隙間から覗いた胸に、黒い線が走り、裂け、口になる。腹にも、脇腹にも、肩にも、背中にも。見えない場所でまで、次々と口が開いていくのが分かった。
志藤の身体が、彼自身の美術館になっていく。
『返して』
『口を』
『声を』
『息を』
『名前を』
「違う!」
志藤は床に倒れ込んだ。
濡れた声の層が跳ねる。泡のような呼吸音が周囲に散り、すぐに沈む。
「私は保存した! 消えるはずだったものを、私が拾った! 価値を与えた! お前たちは、私がいなければ何も残らなかった!」
『返して』
「黙れ!」
『返して』
「黙れ、黙れ、黙れ!」
志藤は転げ回った。
床に身体を擦りつける。口を潰そうとする。腕を叩きつけ、胸を掻きむしり、喉元を押さえつける。
だが、一つ潰れたように見えた瞬間、別の場所が開いた。
肩に。
腹に。
頬に。
耳の裏に。
まぶたの下に。
身体中が、志藤の知らない声を再生する器へ変わっていく。
「ひな……」
志藤は、ようやくその名を呼んだ。
喉から漏れた声は、弱く、かすれていた。
「ひな、どこだ」
答えはない。
「戻れ」
口たちが動く。
『返して』
「戻れと言っている!」
『口を』
「お前は、私の――」
『声を』
「私の娘だろう!」
その叫びだけが、どこにも届かなかった。
“ひな”は答えない。
当然だった。
もう、そこにはいない。
彼女は、最後に自分の声で眠った。志藤の声に従う場所には、もういない。志藤が与えた名前の中にも、志藤が描いた中央の肖像画の中にも、志藤が抱えた壊れた録音機の中にも、もういない。
志藤だけが、それを知らなかった。
「ひな……ひな……!」
呼べば呼ぶほど、返ってくるのは違う声だった。
『返して』
『助けて』
『苦しい』
『やめて』
「違う……」
志藤は仰向けに倒れた。
呼吸が浅い。
身体中の口が動くたびに、皮膚の上で声が泡立つ。自分の身体なのに、自分のものではない。自分が集めたはずのものなのに、ひとつとして自分の命令を聞かない。
視線を上げる。
暗い上方に、何かが浮かんでいた。
顔ではなかった。
目はない。
鼻もない。
輪郭もない。
ただ、口だけがある。
巨大な口。
けれど、それは一つの口ではなかった。開きかけた口。閉じ損ねた口。泣く直前の口。悲鳴を飲み込んだ口。声を奪われ、名前を失い、保存されたまま腐ることも許されなかった口。
それらが重なり、絡まり、ひとつの大きな口の形に見えていた。
その縁に、一瞬だけ白いものが揺れた。
病室の白。
シーツの白。
黒く塗り潰された口元の、その奥にあったはずの白。
巨大な口が、ゆっくりと開いた。
『……おとう、さん』
志藤の目が見開かれた。
その声が雛のものだったのか。
“ひな”のものだったのか。
あるいは、志藤がそう聞きたかっただけなのか。
もう、区別はつかなかった。
ただ、そう聞こえてしまった。
「ひ、な……」
志藤の唇が震える。
巨大な口は、続けた。
『口を、返して』
世界が止まったように感じた。
志藤は、何かを言おうとした。
違う、と。
私は、と。
お前のために、と。
助けてくれ、と。
けれど、声が出ない。
口は開いている。
喉も動いている。
舌も、唇も、言葉の形を作ろうとしている。
それなのに、志藤自身の声だけが出ない。
「たす、け――」
最後の言葉は、音にならなかった。
代わりに、身体中の口がいっせいに動いた。
『返して』
『口を』
『声を』
『息を』
『名前を』
志藤の身体が、濡れた声の層へ沈んでいく。
耳元の口も、喉元の口も、手の甲の口も、胸の口も、腹の口も、暗い奥へ溶けていく。壊れたICレコーダーの破片も、白衣の袖も、黒く濁った片目の渦も、すべてが声の層に沈んでいく。
志藤の本来の口だけは、最後まで開いていた。
けれど、その場所で最後まで聞こえなかったのは、志藤自身の声だけだった。
最後に残ったのは、志藤が一度も聞こうとしなかった声だけだった。




