第50話 神隠しのその先
レンの問いに、紗希はすぐには答えなかった。
ノートには、さっき書いた一文が残っている。
――“ひな”は、最後に自分の声で眠った。
その下には、まだ何も書かれていない白い余白があった。志藤という名前を書こうとすれば、そこに何を続ければいいのか分からなくなる。
死んだ、と書くには見ていない。
逃げた、と書くには違和感がある。
消えた、と書くのが一番近い気もするが、それだけでは足りない。
白い展示室。
黒い鏡面。
蛍光灯の白。
進路指導室の机と書類棚。
志藤は、それを見て笑った。
戻れると思っていた。
自分だけが、保存する側へ戻れると思っていた。
「……分かりません」
紗希は、ようやくそう言った。
レンが眉を動かす。
「分からない?」
「はい。少なくとも、私たちの前からは消えました」
紗希は、見たものだけを言葉にする。
死んだとも、生きているとも言わない。
言えない。
その横で、恭介が低く口を開いた。
「黒い面に飛び込んだ」
レンの視線が恭介へ向く。
「黒い面?」
「鏡みてぇなやつだ。あいつはそこに入った」
恭介は、面倒そうに言う。
「戻るつもりだったんだろうな」
「戻る?」
レンが聞き返す。
紗希は小さく頷いた。
「志藤先生は、進路指導室へ戻るつもりだったんだと思います」
あの時の声が、耳の奥に残っている。
壊れたICレコーダーを抱きしめて、黒い面へ身を向けた志藤の声。
「“保存する側へ”と言っていましたから」
レンは、カップに触れたまま黙った。
その表情から、冗談めいた色が少し消える。
「じゃあ、実際に戻ったようには見えたのか?」
「いいえ」
紗希は即答した。
少し考えてから、言葉を選ぶ。
「進路指導室の形は見えました。蛍光灯とか、机とか、書類棚とか。あの人が戻ろうとしていた場所に見えるものは、確かにありました」
「なら、出口だった可能性もあるんじゃねぇの」
「でも、外へ続いている感じではありませんでした」
紗希は、自分の指先を見下ろす。
包帯の白が、あの展示室の壁を少しだけ思い出させた。
「もっと、奥へ落ちる穴みたいに見えました」
レンは、その言葉を聞いて目を細めた。
「奥へ落ちる穴、ね」
「はい」
紗希は頷く。
「進路指導室の姿をしていたけれど、進路指導室ではなかったと思います」
恭介が、短く付け加えた。
「外の匂いじゃなかった」
レンは額に手をやる。
「また匂いか」
「うるせぇな。そうなんだから仕方ねぇだろ」
「いや、助かる時もあるんだけどな。報告書に書けねぇんだよ、それ」
「書くな」
「だから困ってんだろうが」
レンは軽く息を吐いた。
だが、すぐに真面目な顔へ戻る。
「外の匂いじゃないってのは、どういう意味だ」
恭介は少しだけ考えるように黙った。
言葉で説明するのが面倒なのか、そもそも言葉にしにくいのか。たぶん両方だ。
「外に出たなら、もっと空気が抜ける」
「空気?」
「ああ」
恭介は、カウンターの上に置かれた水のグラスを乱暴に指で弾いた。
水面が小さく揺れる。
「穴が開けば、向こうとこっちが繋がるだろ。外に抜けるなら、そこから外の匂いがする。風でも、埃でも、人の気配でも、何でもいい」
言いながら、恭介は不快そうに眉を寄せる。
「でも、あれは違った」
「違った」
「外じゃねぇ。抜けたんじゃなくて、沈んだ」
その言葉に、紗希も静かに同意する。
「私にも、そう見えました」
レンは二人を見比べる。
紗希の観測。
恭介の感覚。
どちらも、報告書にそのまま載せるには曖昧だ。けれど、怪異事件の現場では、曖昧な感覚が最後の手がかりになることもある。
レンはコーヒーカップを持ち上げた。
飲む。
少し冷めていた。
「確かに、その保管庫だか美術館だか分からんが」
カップを置きながら、レンは言った。
「それは、志藤のフィアー能力で作ったものではあるんだろう」
紗希が顔を上げる。
「人の能力で、あそこまでの空間を作れるんですか」
「人による」
レンは短く答えた。
「フィアー能力ってのは、恐怖の形をどう解釈するかで出方が変わる。刃物になる奴もいる。幻になる奴もいる。怪物を生む奴もいる。志藤の場合は、保存と記録と肖像画。そこへ、口と声への執着が混ざった」
レンは、言葉を探すように少し間を置く。
「ただ、空間を作り出す能力ってのは強力だ。単に幻を見せるのとは違う。人を取り込み、法則を作り、内側で出来事を進められる」
「……強いんですね」
「強い」
レンは認めた。
「志藤って男は、さぞかし優秀な素養を持ってたんだろうぜ」
そこで、ほんのわずかに声が低くなる。
「……あのミカゲが、目をつけたくらいだ」
恭介が、忌々しそうに舌打ちした。
「……チッ」
その名前を聞くたびに、恭介の片目の奥で何かが疼くのだろう。顔には出さない。だが、指先がほんの少しだけ止まった。
「だけどよ」
レンは続けた。
「俺が来た時には、進路指導室の大鏡は、ブラックベインの地脈と繋がってた」
紗希が、ゆっくりと繰り返す。
「地脈……」
「黒の流れだ」
レンは、カウンターの上で指を一本立てた。
「ブラックベインは、ただそこにある黒じゃない。場所を流れる。溜まる。枝分かれする。進路指導室は、志藤の事件で黒を溜め込んでた。そのうえ、鏡が通路みたいになっていた」
そこで、レンは一度言葉を切る。
喫茶店の橙色の光の中で、彼の目だけが少し冷えていた。
「空間を作り出す能力を使うには、場所が最悪すぎた」
「最悪、ですか」
紗希が小さく繰り返した。
レンはすぐには答えなかった。カップを持ち上げかけて、やめる。少し冷めたコーヒーの黒い液面を見下ろし、それから、例え話を探すように視線を横へ流した。
「知ってるか? モグラって生き物は、よくミスをするんだ」
「急に何の話だ」
恭介が眉をひそめる。
「例え話だよ。黙って聞け」
レンは軽く手を振った。
「近くの川が形を変えた時。地上でどうしようもない大雨が降った時。あいつら、穴を掘る方向とか加減をミスって、水の中に誤って出てきちまうことがあるらしい」
紗希は、少し考えるように目を伏せた。
「穴を掘っていたはずなのに、違う場所へ出てしまう」
「そういうこと」
レンは頷く。
恭介は、皿の上の残りをフォークで突きながら言った。
「で、それが志藤か」
「近い」
レンはカップを置いた。
「ブラックベインのすぐ側で、次元を曲げて空間を作り出して、拡張して。自分の保管庫だか美術館だかを作って、その中に口や声を保存する。そこまでは、あいつのフィアー能力の範囲だったんだろう」
けれど、とレンは続ける。
「出口を開く時まで、そいつが安全とは限らない」
紗希の手が、ノートの上で止まっていた。
“ひな”の一文の下。
白い余白。
そこへ、まだ志藤の名前は書かれていない。
「志藤は、自分の空間から進路指導室へ戻ろうとした。そう思って、黒い面に飛び込んだ。けど、その進路指導室の大鏡は、ブラックベインの地脈と繋がってた」
レンの声は、だんだんと軽さを失っていく。
「逃げ道を開いたつもりが、黒の流れに穴を開けた。外へ出るつもりが、別の場所へ出ちまった。そういう事故は、昔からよくある」
「昔から?」
紗希が聞き返す。
「ああ」
レンは、わずかに肩をすくめた。
「ほら、オカルトスポットで“とおりゃんせ”歌うと危険だとか、夜中に決まった道順で歩くと帰れなくなるとか、鳥居を何度もくぐると知らない場所へ出るとか。そういう話があるだろ?」
紗希は、頷いた。
そういう話なら、いくつも知っている。
投稿サイトで読むこともある。自分で調べたこともある。学校の怪談や、古い町の噂や、子供の遊びに混じっている禁忌。意味の分からない手順。踏んではいけない場所。歌ってはいけない歌。
「……神隠し、ですか」
紗希が呟く。
レンは、静かに頷いた。
「――神隠し」
その言葉だけが、喫茶店の中で少し冷たく響いた。
「あれは、ブラックベインに取り込まれちまう“事故”。あるいは、能力者のミスなんだよ」
恭介が、わずかに顔を上げる。
レンは続けた。
「もちろん、全部が全部そうだとは言わねぇ。誰かが意図して連れていく場合もある。怪異が誘う場合もある。だけどな、由来の一部には、そういう事故が混じってる」
カウンターの上で、レンの指が軽く音を立てる。
「人が入っちゃいけない流れに、間違って穴を開ける。帰り道を作ったつもりで、帰れない場所へ出る。そういうやつだ」
紗希は、ノートの余白を見つめた。
黒い面へ飛び込む志藤の背中が、脳裏に浮かぶ。
彼は笑っていた。
勝ったつもりでいた。
自分だけは戻れると信じていた。
保存する側へ、と叫んでいた。
けれど、その先は外ではなかった。
少なくとも、紗希にはそう見えた。
恭介も、同じように感じていた。
外の匂いではなかった、と。
レンは、二人の沈黙を見てから、ゆっくりと言った。
「だから、おそらく」
そこで一度、言葉を切る。
「志藤は外へ逃げたんじゃない」
紗希のペン先が、白い余白の上で止まった。
レンは続けた。
「外ではない場所へ、出ちまったんだ」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
店内は変わらず温かい。
コーヒーの香りもある。時計の音もある。夕方の光もある。外では、橙原町の道を歩く人の気配がかすかに聞こえる。
それなのに、今だけは、そのどれもが遠かった。
恭介が、低く言った。
「外じゃねぇとは思った」
「今回は、お前の匂い判定も筋が通る」
「今回はって何だ」
「毎回、報告書に困ってるって意味だよ」
レンはそう返したが、笑いはしなかった。
軽口は、すぐに喫茶店の空気へ沈んでいく。
レンは、冷めかけたコーヒーへ目を落とした。黒い液面に、店内の灯りがかすかに揺れている。
「ちなみに、うちの組織でも、“神隠しのその先”がどうなってんのかは判明してねぇよ」
紗希が顔を上げる。
レンは、カップの底を見たまま続けた。
「そもそも。人が生きていける環境なのかすら、ね」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
ノートの白い余白だけが、紗希の手元に残っている。
志藤の名前を書くには、まだ何も見えていなかった。
その先で志藤が何を聞いているのか。
それだけは、まだ誰も知らなかった。




