第49話 報告書の相談相手に向かない2人
夕方の〈灯〉は、いつもより少しだけ静かだった。
カウンター席で、レンはタブレットを睨んでいた。コーヒーカップを片手に、もう片方の指でキーボードを叩いている。画面には、箇条書きの文字列が並んでいた。
レンは、ぼそぼそと読み上げる。
「……不審者騒動。校内設備の破損。生徒数名の体調不良。志藤の失踪。進路指導室の鏡、全損。ブラックベインの枝分かれ、現場処理済み。被害生徒の記憶、断片的。美和ほか、症状は軽快傾向。志藤の所在、不明……」
指が止まる。
「……っだー! やってられっか」
タブレットの電源を落として、カウンターに突っ伏した。
「めんどくせえんだよ報告書にすんのが! 書けない情報ばっかりじゃねえか!」
「うるせえぞ、レン。店でいきなり騒ぐんじゃねえ」
恭介が、皿から顔を上げずに言った。
紗希はコーヒーサーバーを片付けながら、小さく笑う。
レンは突っ伏したまま、くぐもった声を出す。
「笑わないでくれー、紗希ちゃーん。……全くもう、これどう書けっていうんだよ」
しばらく沈黙があった。
コーヒーの香り。時計の針。皿にフォークが当たる音。
やがて、レンはゆっくり顔を上げた。
目の下に疲れがある。けれど、目だけはまだ仕事をしている。
「……んで? "ひな"って怪異の正体は結局何だったんだ? 志藤の娘が化けて出た、ってわけじゃないんだろ?」
紗希は少し考えるように首を傾けてから、カウンターの下へ手を伸ばした。
「うーん、そうですねえ。……あ、その前に」
布に包んだ小さなナイフを取り出して、レンの前へ置く。
「はい、これ。ありがとうございました。凄く役に立ちました。……きちんと洗ってありますよ。先輩と違って」
恭介が、皿から顔を上げずに鼻を鳴らした。
レンはナイフを受け取りながら、紗希の左腕へ視線が止まった。
包帯。手首から肘の少し上まで。白くて、まだ新しい。
「……その腕」
「つい」
紗希は先に答えた。
「つい、って……」
「血が、あの怪異と相性が悪そうだったので。面白そうだったので、試してみました」
「自分で刺したのか」
「はい」
「結果論で危険行為を正当化しないでくれる?」
「でも、効果はありました」
「効果があればいいって話じゃないんだよなあ」
レンが天井を仰ぐ。
「紗希ちゃん、君さ。この際はっきり言っちゃうけど。……恭介とは別方向に怖いよね」
「私はちゃんと考えて動いてます」
「考えた結果、自分を刺すのが怖いんだよ」
恭介が鼻で笑う。
「今さらだろ」
「先輩まで、失礼です!」
紗希が、べっと舌を出して見せた。
そしてすぐに、表情を落ち着かせる。
「……それで、さっきの話。“ひな”についてなんですが。娘かどうか、という話に関してはですね」
問いの形は簡単だった。
けれど、答えは簡単ではない。
志藤は“ひな”と呼んでいた。娘の名前を与え、自分が欠けた口や声や息を補っているのだと信じていた。中央の肖像画を完成させれば、失ったものが戻るとでも思っていた。
だが、紗希が見た白い少女は、雛本人ではなかった。
少なくとも、人間として生きていた一人の少女そのものではない。
けれど。
ただの偽物、と言ってしまうには、あの口元の震えはあまりにも切実だった。
「本人ではないと思います」
紗希は言った。
「でも、完全な偽物とも言えません」
レンは何も言わずに続きを待つ。
恭介も、今度は茶々を入れなかった。
「たぶん、雛さんの最後の恐怖に近いものです」
紗希は、言葉を選びながら続ける。
「声にならなかった息とか、口元の震えとか。最後に言いたかったのに、言えなかったもの。そういうものが黒に沈んで、形を持った」
カップの中で、コーヒーの表面がわずかに揺れる。
「そこへ、志藤先生が名前をつけたんだと思います」
「“ひな”ってか」
「はい」
紗希は頷く。
「でも、名前をつけたというより、役を押しつけたように見えました。あの子が何者なのかを聞く前に、志藤先生が『ひな』だと決めてしまった」
レンは、低く息を吐いた。
「ブラックベインが、恐怖の残響を怪異にしたってことか」
「はい。そうだと思います」
「なるほどな」
レンはカップを置いた。
「そこまでは、まあ、分かる。ブラックベインは恐怖や声や記録みたいなものを拾う。沈んだものが、別の形を持つこともある」
そこで、レンの目が細くなる。
「問題は、その先だ」
紗希は顔を上げる。
レンは、少し苦い顔で続けた。
「そもそも、怪異を人が。……まあ、“手懐ける”は語弊があるにせよ」
指先でカップの縁を軽くなぞる。
「志藤がコントロールしてた節があるのが、俺らとしては問題になってるんだがな」
その言葉で、紗希の中に白い展示室での会話が戻る。
志藤の声。
保存。
復元。
修復。
欠けた記録は補える。
誰かが、彼にそういう言葉を与えた。
紗希は、静かに言った。
「知識や技術を提供した人物がいたみたいですね」
レンの視線が、わずかに鋭くなる。
「“ひな”の口を封じて、さらに志藤先生に渦眼をプレゼントして」
横で、恭介が小さく唸った。
喉の奥から出た、獣のような音だった。
「……ミカゲ」
名前が落ちた瞬間、店内の空気が少しだけ重くなる。
紗希は恭介を見た。
恭介の顔には、はっきりとした記憶は浮かんでいない。けれど、嫌悪だけはある。腹の底から湧いてくるような、説明できない怒り。
レンは、そんな恭介を見てから、肩をすくめた。
「そんな名前まで君らに漏れるとはね」
軽い調子だった。
けれど、目は笑っていない。
「うちの組織としては、耳が痛いこった」
「知ってる名前なんですか」
紗希が尋ねる。
「名前だけならな」
レンは答えた。
「まあ、そういう大罪人がいる。本来なら、俺らの方で片をつけるべき名前だ」
そこで、ほんの少し言葉を切る。
「……そう言って済ませたいところなんだけどな」
レンは、小さく溜息をついた。
「まあ、今はいいや。仕事させてくれ、仕事」
レンが、黙って虚空を睨んでいる恭介を見る。
「んで恭介。お前は、どう見たんだ」
「知らねぇ」
恭介は即答した。
「他人には分からんだろ」
「おい」
「俺は喰った」
恭介は言う。
「俺の腹は満たされた」
乱暴な言葉だった。
だが、そこに誤魔化しはない。
「……あとはまあ」
少しだけ、言葉が遅れた。
「ちょっとだけ、イラつきがおさまった」
恭介は舌打ちするように言う。
「そんだけだよ」
レンは、じっと恭介を見る。
「説明になってねぇ」
「説明する気がねぇ」
「開き直るな」
「説明したら、お前に分かんのかよ」
恭介の声が、少しだけ低くなる。
「それとも何だ。俺が飢えたら、お前が代わりに腹減ってヘニャヘニャになってくれんのかよ」
「何その最悪の代理システム」
「だろ」
恭介は鼻で笑った。
「だから分かんねぇよ。他人には」
そこで、紗希が静かに言った。
「でも、嘘ではないと思います」
恭介が横目で見る。
「勝手に補足すんな」
「先輩が説明しないので」
「しねぇよ」
「なので、私がします」
「するな」
「します」
短いやり取りだった。
けれど、レンはそんな二人を見て。
少しだけ肩の力を抜いた。
「ミカゲが介入をして、入れ知恵をした。そんなんでいいか、もう」
そう言ってタブレットを再び起動させた。
紗希は少し考えたあと、カウンターの端に置いてあった小さなノートを引き寄せた。
普段、注文のメモや思いついた短い文章を書きつけているものだ。ページの端には、以前書いた都市伝説めいた断片が残っている。
紗希はペンを取った。
少しだけ迷う。
全部を書くことはできない。
白い展示室のことも。
口の肖像画のことも。
志藤の言葉も。
“ひな”の震える指先も。
恭介が喰った瞬間のことも。
すべてを書けば、たぶん嘘になる。言葉にした途端、何かが綺麗な形へ整いすぎる。
だから、一行だけ書いた。
――“ひな”は、最後に自分の声で眠った。
恭介が、それを覗き込む。
「綺麗すぎる」
「はい」
紗希は認めた。
「でも、嘘ではないです」
恭介は何か言いかけて、やめた。
レンも、その一文を見た。
茶化さなかった。
ただ、カップを持ち直して、静かに息を吐く。
“ひな”の話は、そこで一度閉じた。
だが、終わったわけではない。
レンの表情が、少しだけ変わった。
「じゃあ、次だ」
その声で、店内の空気がまた沈む。
紗希のペン先が、ノートの上で止まった。
「志藤という教師。あれが怪しいというところまでは、俺らの情報網で突き詰めた」
レンは言う。
「その途端に、蒸発だ」
カップを置く。
「んで、あとには君たち二人が倒れてて、そこで忽然と情報が止まった」
恭介は無言だった。
紗希も、すぐには顔を上げなかった。
レンは、二人を見た。
「教えてくれ」
低く、静かな声だった。
「コトの顛末を、だ」




