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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第48話 自由な2人と苦労人

 校舎の外には、まだ人の気配が残っていた。


 夜の学校というだけで、本来なら十分に不気味なはずだった。だが今は、不気味というよりも騒がしい。正門の近くには警察車両が一台停まり、少し離れた場所では学校関係者らしき男が、携帯電話を片手に何度も頭を下げている。


 発端は、志藤側から入った通報だった。


 中退した不良が、志藤先生の居場所を威圧的に嗅ぎ回っている。


 その情報だけ聞けば、たしかに通報案件ではある。問題は、その“不良”が常盤恭介であり、しかも通報した志藤の方が、どう考えても黒に近いということだった。


 生徒はもう近づけていない。


 教師も、必要最低限の人間以外は校舎外へ出してある。


 それでも、事件現場というものは、勝手に静かにはならない。誰かが説明を求め、誰かが責任の所在を気にし、誰かが「これ以上騒ぎにしないでくれ」と顔に書いたままレンの方を見る。


 レンは、片手でスマートフォンを耳に当てながら、もう片方の手で校舎の入口を制するように立っていた。


「はいはい、こっちはこっちで確認しますって」


 軽い声だった。

 だが、目は笑っていない。


「学校側への説明? 後でまとめて出します。ええ、ええ。心理カウンセラーの相馬です。そこ、深掘りしないでくださいね。掘るとたぶん、そっちもこっちも面倒な穴が開くんでね」


 相手が何か言った。


 レンは、眉間を揉みながら空を見上げる。


「いや、だから、俺が責任者ってことでいいです。正式な肩書き? 今はそれっぽければ充分でしょうが。……はいはい、分かってます。記録は残します。必要な分だけ。余計な分は残しません」


 電話を切る。


 その瞬間、レンは長く息を吐いた。


「……ったく」


 校舎の二階を見上げる。


 進路指導室があるあたりの窓は、まだ暗い。カーテンの隙間から、かすかに白い蛍光灯の光が漏れているだけだった。


「現場より、書類と口裏合わせの方が疲れるってどういう仕事だよ」


 ぼやきながらも、レンの意識はずっと校舎の中へ向いていた。


 紗希は、図書室周辺で行方が分からなくなった。


 恭介は、その紗希を探して志藤の居場所を嗅ぎ回っていた。本人にそのつもりがあったかどうかは別として、教師陣から見れば、かなり威圧的な不審者だったはずだ。


 そして進路指導室は、美和が“ひな”に口を奪われた場所。


 志藤が最も深く関わっているはずの場所。


 全ての線が、そこへ向かっている。


 レンは、スマートフォンをポケットへ戻しかけた。


 その時だった。


 二階の窓が、内側から弾け飛んだ。


 割れた、という音ではなかった。


 何か巨大なものが、部屋の内側から現実そのものを殴りつけたような破裂音。校舎の壁が一瞬だけ震え、窓枠ごと押し出されたガラス片が、夜の空気へ散った。


 破片が、校舎前のアスファルトへ降り注ぐ。


 月明かりと街灯を拾って、ばら撒かれたガラスが白く跳ねた。


 近くにいた学校職員が悲鳴を上げる。


 レンは反射でその男の襟首を掴み、後ろへ引き倒した。


「伏せろ!」


 続けて、細かいガラス片が植え込みと地面を叩く。


 爆発のような衝撃だった。


 だが、炎はない。熱もない。焦げた匂いもない。


 代わりに、胸の奥をざらつかせるような、黒の気配が二階から流れ落ちてきた。


 レンは、窓の割れた方角を睨む。


「……なんだ、新手の怪異でも出たか!?」


 声が荒くなる。


「それとも、知らねぇフィアー使いでも来てんのか!?」


 だが、次の瞬間には顔色が変わった。


 方角。


 位置。


 校舎二階の端。


 窓が吹き飛んだ部屋。


「いや、待て」


 レンは舌打ちした。


「あそこ、進路指導室じゃねぇか」


 美和が“ひな”に口を奪われた場所。


 志藤の事件の中心に近い場所。


 そして、紗希を探す恭介が、最後に辿り着いていてもおかしくない場所。


 嫌な予感が、胃の底を殴った。


「しまった」


 レンは走り出した。


「俺がうかうかしてる間に、最悪の場所でなんかおっ始めやがったな!」


 校舎へ飛び込む。


 昇降口の床に靴音が跳ねた。警察官が何かを叫ぶが、レンは振り返らない。階段へ向かい、二段飛ばしで駆け上がる。


 二階の廊下は、すでに異常の匂いがしていた。


 蛍光灯がちらついている。


 壁には細い黒い染みが走り、床には窓ガラスの細かな破片が散っている。進路指導室の方から、湿ったような空気が流れてきていた。夜の校舎の乾いた埃っぽさとは違う。口の中に古い録音テープを突っ込まれたような、嫌な湿り気。


「……やっぱり、ただの破壊音じゃねぇな」


 レンは息を整えながら、進路指導室の前へ辿り着いた。


 扉は半開きだった。


 いや、半開きというより、内側から歪んで閉まらなくなっている。蝶番は悲鳴を上げるように曲がり、扉の縁には黒い膜のようなものが薄くこびりついていた。


 レンは一瞬だけ足を止める。


 中の気配を探る。


 人の呼吸が二つ。


 それから、黒。

 まだ、残っている。


「紗希ちゃん!」


 レンは扉を押し開けた。


「恭介!」


 進路指導室の中は、原形をどうにか保っている、という状態だった。


 机は横倒しになり、椅子は壁際へ押し流されている。書類棚の引き出しは半ば開き、中身のファイルが床へ散らばっていた。壁に掛かっていた予定表は斜めにずれ、蛍光灯は正常に点いているのに、空気だけがどこか暗い。


 そして、鏡。


 部屋の奥にあった大きな鏡は、中央から砕けていた。表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、いくつもの破片が床へ落ちている。鏡の縁には黒い膜の残滓が絡みつき、割れ目の奥だけが、まだわずかに湿って見えた。


 その鏡の前に、二人が倒れていた。


 恭介と紗希。


 突き飛ばされたというより、何かから吐き出されたような位置だった。恭介は床に片膝を崩す形で倒れ、片腕が紗希の近くに伸びている。紗希はそのすぐ横で、壁側に身体を預けるように倒れていた。左腕の袖は赤黒く濡れ、顔色はひどく悪い。


「紗希ちゃん!」


 レンは先に紗希のそばへ膝をつく。


 首筋に指を当てる。


 呼吸。

 浅いが、ある。


 次に恭介を見る。


 恭介の呼吸も荒い。意識は落ちているのか、目は閉じている。だが、胸は上下している。


「……息はある」


 レンは、短く息を吐いた。


「よし、生きてる」


 安堵は一瞬だった。


 すぐに、視線が部屋を走る。


「志藤は……いねぇ」


 割れた鏡。


 黒い膜。


 散らばった破片。


 倒れた二人。


 だが、志藤の姿はない。白い少女の怪異もいない。


「“ひな”とかいう怪異も、見当たらない」


 レンは眉をひそめる。


 何が起きたのか。


 中で何を見たのか。


 どうやって戻ってきたのか。


 問いは山ほどある。

 だが、問いより先に、目に入ったものがあった。


 恭介の背中。


 レンは、ゆっくり視線を落とした。


 翼はない。


 だが、服の背中が裂けている。


 肩甲骨のあたりから、黒い煤のようなものが薄く立ち昇っていた。煙にも見える。枝が焼け落ちた灰にも見える。だが、それだけではない。皮膚の下に、黒い筋が一瞬だけ浮かんでいた。血管ではない。根でもない。羽根の骨格の名残のようにも見える奇妙な跡。


 それは、レンが見てきたブラックベインの侵食とも違っていた。


 怪異に噛まれた痕でもない。


 クロを喰った後に残る、恭介特有の黒の滲みとも違う。


「……“喰った”痕跡じゃねぇ」


 レンは、低く呟いた。


 恭介の背中の裂け目を見ながら、眉間に皺を寄せる。


「馬鹿力で暴れただけでも、こうはならない」


 黒い煤が、空気に溶けるように薄れていく。


 消える前の一瞬、それは本当に、何か巨大な翼の残骸に見えた。


「それに、こいつの背中の妙な跡……」


 言いかけて、レンは額に手を当てた。


 状況を整理しようとする。


 鏡は砕けている。

 室内は内側から破壊されている。


 恭介と紗希は戻ってきた。


 志藤はいない。


 怪異もいない。


 そして、恭介の背中には、専門職の自分にも見覚えのない痕跡がある。


 レンは、深く息を吸った。


「ああもう!」


 思わず、声が出た。


「なんで専門家の俺が、素人の奇行に毎回首を傾げなきゃならねぇんだ!」


 ――その時、鏡の方で、湿った音がした。


 ぱき、と。


 乾いた枝が折れる音ではなかった。水を吸った骨が、内側から割れるような音だった。


 レンは、額に当てていた手を止める。

 割れた鏡の破片が、小さく震えていた。


 部屋の奥。大きな鏡の割れ目。黒い膜のようなものが、そこにまだ薄く張りついている。その膜の奥で、何かが蠢いた。


「――で」


 レンは、ゆっくりと鏡へ視線を流した。


「そんなこと言ってる場合でもなくなってきてるしよ!」


 黒い枝が、鏡の割れ目から這い出してきた。

 細い。

 だが、ただの細枝ではない。


 表面は濡れていて、木の皮のような凹凸の隙間から黒い液がにじんでいる。枝先は床に触れると、そこへ根を下ろすように広がった。鏡の破片を押しのけ、割れたガラスの上を滑り、進路指導室の床へ黒い筋を伸ばしていく。


 一本ではなかった。

 二本。

 三本。

 割れ目から次々に伸びた枝が、机の脚を越え、散らばった書類を黒く濡らしながら、倒れている恭介と紗希の方へ這っていく。


 レンの表情が変わった。


「なんで進路指導室なんぞで、ブラックベインの枝分かれが起きてんのかねぇ!」


 黒い枝の一本が、紗希の足元へ届きかける。

 別の一本は、恭介の背中に残った黒い煤のような跡へ向かっていた。

 まるでそこに同類の匂いを見つけたように、枝先が小さく震えている。


「このままじゃこいつら、取り込まれちまう!」


 レンは立ち上がった。


「それに、ここで支流を断っておかねぇと、また怪異が湧く」


 ブラックベインの枝分かれ。

 それは、単なる残滓ではない。


 黒が場所に根を下ろし、恐怖を吸い上げ、新しい怪異の発生点になる前兆だ。

 放置すれば、進路指導室はまた別の“ひな”を生むかもしれない。あるいは、もっと悪い何かを。


 レンは舌打ちする。


「……くそっ。次から次へと!」


 右手を開く。

 足元の影が、廊下の蛍光灯の揺らぎを吸い込むように濃くなった。

 レンは、自分の手のひらを一度だけ握り、感触を確かめる。


「……よし」


 小さく呟いた。


「時間も経ってるし、紗希ちゃん助ける時に投げて空にした分は、戻ってるな」


 投げた斧に持っていかれたエネルギー。

 紗希を助けるために使い切った分の〈蜃〉の残量。あの時はしばらく再形成できなかった。

 だが今は、手の内に戻る感覚がある。

 完全ではない。

 けれど、伐るには足りる。


「考察は後だ」


 レンの瞳に、青白い渦が灯る。


「喰う奴が倒れてんなら、伐る奴が働くしかねぇだろ」


 影が、水面のように揺れた。

 その中から、斧の柄が浮かび上がる。実体と幻の中間にあるような、輪郭の揺れる柄。レンがそれを掴むと、影は一瞬だけ沈み、次の瞬間には手の中に重さを持った。


「――蜃」


 黒く揺らぐ斧が、進路指導室の蛍光灯を受けて鈍く光った。

 その間にも、枝は伸びている。

 紗希の足首へ、黒い枝先が絡みかけた。

 レンは踏み込む。

 床のガラス片を蹴り、横倒しになった椅子を飛び越え、斧を低く振った。


 一閃。


 幻の斧が、紗希へ伸びていた細枝を断つ。

 枝は抵抗せず、呪いの言葉を投げかけるでもなく。

 切られた瞬間だけ、濡れた息のような音を漏らし、床の上で黒い液へほどける。

 レンは止まらない。次の枝が恭介の背中へ触れる前に、斧の柄を返す。


 二閃。


 恭介へ伸びていた枝が、根元から跳ねた。

 だが、鏡の割れ目からさらに枝が出る。

 細枝を払っても、すぐに次が伸びる。

 レンは歯を鳴らした。


「枝先だけ払っても意味がねぇ」


 鏡を見る。

 割れた鏡の中心。黒い膜の奥に、太い幹のようなものが見えた。細い枝は、そこから部屋へ伸びている。なら、狙うべき場所は一つだ。


「根元を伐る!」


 黒い枝が、レンの足元を狙って跳ねた。

 レンは半歩だけ身を引き、斧の背で払い落とす。

 完全に斬るのではなく、軌道を逸らす。今は末端に構っている時間がない。


 鏡の前へ出る。

 割れた破片の向こうで、黒い幹がうねっていた。

 それは木の幹に似ているが、樹皮の代わりに口のような裂け目がいくつも開いている。声は出ない。ただ、濡れた呼吸だけが漏れていた。

 レンは、斧を肩に担ぐように構える。


「“木こり”の本分、ここで果たさせてもらうぜ」


 青白い渦が、レンの眼の奥で強く回った。

 闇の中。斧の刃が、わずかに揺れる。

 現実と幻の境目を探るように、刃先が空気を撫でた。

 普通の刃なら、黒い膜に沈んで終わる。だが〈蜃〉は違う。そこにある虚構の輪郭を斬る。黒が形を持つために借りている“枝”の像、その芯を断つ。


 レンは息を吐いた。

 踏み込む。

 斧を振り下ろす。

 刃が、黒い幹へ食い込んだ。

 一瞬、音が消えた。

 進路指導室の蛍光灯も、床に散ったガラス片のきらめきも、恭介と紗希の浅い呼吸も、すべてが遠のく。


 黒い幹が、遅れてずれた。

 切断面から、黒い息が抜ける。

 それは悲鳴ではなかった。


 ただ、根を張る前に伐られた木が、沈黙のまま倒れる音だった。

 幻の斧が、進路指導室に根を張ろうとしていた黒い幹を、一刀のもとに断ち切った。

 黒い枝が、声もなく崩れた。

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