第47話 アテンション・プリーズ
白い少女は、もうそこにいなかった。
中央の肖像画の前には、誰も立っていない。黒い床にも、白い足跡は残っていない。ただ、そこに誰かがようやく眠ったあとのような、薄い静けさだけが残っていた。
壁に並んだ肖像画たちも、さっきまでのようにはざわめいていない。目元を黒く塗り潰された顔たちは、口だけを薄く開いたまま、声にならない呼吸を床の奥へ沈めている。
中央の病室の絵だけが、少し変わっていた。
白いベッド。薄いカーテン。点滴台。小さな椅子。目を閉じた少女。
その口元。
何度も描き直され、黒く塗り潰され、消され、また足されていた線が、少しずつ滲んでいる。唇の輪郭も、黒い擦れも、塗り重ねられた跡も、白いシーツの奥へほどけるように沈んでいく。
完成したわけではない。
正しい形になったわけでもない。
ただ、もう誰かに描き直されることをやめたように、そこだけが静かだった。
「……消えたんですね」
紗希が、ぽつりと言った。
声は、白い展示室の中に小さく落ちた。
恭介は中央の肖像画の前に立ったまま、しばらく答えなかった。片目の奥では、まだ青白いものが鈍く回っている。口元には、黒を喰ったあとの苦味が残っているのか、わずかに歯を噛み締めていた。
「喰っただけだ」
やがて、恭介は低く返した。
「救った、とは言わないんですね」
「言わねぇよ」
「眠らせた、とも?」
「知らねぇ」
「……先輩らしいです」
その返事は、いつも通り乱暴だった。
けれど、紗希はそれ以上言わなかった。
恭介が「救った」とは言わないことを、分かっていた。
「眠らせた」とも言わない。
「終わらせた」とすら、自分から綺麗には言わない。
彼は喰った。
それ以上でも、それ以下でもないと言いたいのだろう。
だが、恭介の喉の奥には、まだ細い息の感触が残っていた。
声ではない。
言葉でもない。
誰かが彼の中に居座ったわけでもない。
ただ、最後まで外へ出られなかった息の向きだけが、喰った黒の中に残っている。
外へ。
終わりへ。
眠りへ。
閉じ込められた白い展示室ではなく、誰かの口を縫いつけられた額縁の中でもなく、志藤の所有物として保存され続ける場所でもない。
外へ。
そういう向きが、喉の奥にあった。
恭介は、舌の上に残った苦味を噛み潰すように、奥歯を鳴らした。
「……そうか」
小さく、呟く。
紗希が顔を上げた。
「先輩?」
「そんな声してたんだな」
恭介は、白い展示室の奥へ顔を向けていた。
そこに、“ひな”はいない。
けれど、残った薄い静けさを、味か、匂いか、喉の奥の感触か、そういう言葉にならないものとして受け取っているようだった。喰ったものの残響を、味か、匂いか、喉の奥の感触か、そういう言葉にならないものとして受け取っている。
「声、ですか」
紗希が尋ねる。
恭介は答えなかった。
ただ、口の端を少しだけ歪める。
「意見が合うじゃねぇか」
「誰と、とは聞きませんけど」
「聞くな」
「はい。もう聞きません」
“ひな”はもういない。
けれど、最後に出せなかった息だけが、恭介の中を通り過ぎた。
たぶん、そこにあった向きのことを言っているのだと、紗希には分かった。
その直後だった。
恭介の片目が、また疼いた。
喉の奥に残った細い息の感触が、眼の奥へ触れる。
青白い渦。
黒い蓋。
割れたものの破片。
その奥で、さっき見た光景がもう一度、形を持った。
白い花びらが落ちる。
高い場所。
白い空。
遠くに見える、巨大な桜の大樹。
仰向けの視界。
動かない身体。
覗き込む顔。
ミカゲ。
声は優しかった。
お休み、と。
子供を寝かしつけるような、静かで、柔らかい声だった。
けれど、顔は違う。
ミカゲの口元は、引き裂いたように歪んでいた。眠れと言う顔ではない。守る者の顔でもない。終わったものを箱にしまう時の顔。動かなくなった標本へ、そっと蓋をする時の顔。
指先に、青白い渦がある。
糸のように細く。
針のように鋭く。
それが、眼へ近づいてくる。
恭介の眼へ。
奥へ。
捩じ込まれる。
思い出したわけではない。
全部が見えたわけでもない。
ミカゲが何者なのかも、どうして自分へそんなことをしたのかも、まだ分からない。
ただ、感触だけが残った。
眼の奥へ何かを捩じ込まれた感触。
記憶を止められた感触。
思考の流れに、勝手に蓋をされた感触。
前へ進もうとした足元に、見えない壁を建てられた感触。
恭介は、片手で自分の目元を押さえた。
痛みはある。
だが、痛みよりも先に、別のものが胸の奥からせり上がってくる。
“ひな”は終わった。
志藤は消えた。
なのに、恭介だけがまだ、誰かに眠らされたままだった。
それが、どうしようもなく気に入らない。
白い展示室は、まだそこにある。
壁には肖像画が並び、床には黒い保存膜が広がり、病室の絵は静かに口元をほどいている。志藤は消えた。“ひな”も消えた。それなのに、この悪趣味な美術館は、まだ恭介と紗希を閉じ込めている。
出られない。
それが、腹の奥をさらに苛立たせた。
「……ムカつく」
「先輩?」
恭介は、すぐには答えなかった。
中央の肖像画の前に立ったまま、片目の奥で青白い渦を鈍く回している。背中は少し丸まり、肩は呼吸に合わせてわずかに上下していた。けれど、それは疲労の呼吸ではない。
怒りが、形を探している呼吸だった。
「ああ、そうだ」
恭介が、低く言った。
「俺は、ムカついてる。ずっと、ずっとだ……!」
その声には、さっきまでの痛みの濁りがまだ残っている。けれど、それ以上に、噛み砕いた黒の奥から湧き上がるような熱があった。
紗希は、動かなかった。
聞くべきだと思った。
今の恭介が何を見て、何に怒っているのか。
分かるわけではない。
けれど、見届けると決めた以上、目を逸らしてはいけない。
恭介は、白い展示室を見回した。
目元を黒く塗り潰された肖像画。口だけを残された顔。黒い保存膜の床。中央の病室の絵。ほどけた口元。志藤が消えた壁。ひなが消えた場所。
どれもこれも、気に入らない。
何もかもが、誰かの都合で貼りつけられ、閉じ込められ、名前を与えられたものに見えた。
「なにより、一番俺がムカついてんのは」
「ミカゲ、ですか」
「違ぇ」
恭介は、奥歯を鳴らした。
「自分自身に、だ」
「……自分に?」
「ミカゲがどんなやつかまでは思い出せねぇ。何されたかも、まだ全部じゃねぇ」
その名を口にした瞬間、片目の奥がまた疼いた。青白い渦が揺れ、白い花びらが一瞬だけ視界の端に落ちる。
あの顔が何なのか。
あの声が何だったのか。
何を奪われ、何を眠らされたのか。
まだ、分からない。
「けどよ。いいように記憶も思考も止められて、こんな下らねぇ悪趣味な美術館から出ることもできねぇ、だと?」
白い展示室の壁が、かすかに軋んだ。
肖像画の口たちが、息を潜める。黒い床の下に沈んでいた呼吸音が、波紋のように遠ざかる。
空間そのものが、恭介の怒りを察したようだった。
「ふざけんな」
恭介の口元が、歪む。
笑っている。
けれど、紗希にはそれが笑みに見えなかった。
獣が牙を剥いたように見えた。
「前に進むにはよ」
恭介は、ゆっくりと息を吐いた。
「喰い続けなきゃ、進めねぇよな」
その言葉は、誰かに言い聞かせているようでもあった。
ミカゲにではない。
志藤にでもない。
消えた“ひな”にでもない。
自分自身へ。
常盤恭介という、喰うことでしか前へ進めない男自身へ向けた言葉だった。
恭介は、背後にいる紗希へ視線だけを投げた。
焦点は合っていない。
それでも、確かに紗希の方を向いていた。
「見てろ、紗希。これがお前の望んだものだ」
その瞬間。
黒が、恭介の背中から噴き上がった。
最初、それは翼には見えなかった。
黒い液体が、恭介の背中から逆流したように見えた。血ではない。煙でもない。けれど、液体の重さと、煙の揺らぎと、枝のような分岐を同時に持った黒。
それが、背骨のあたりから空中へ伸びる。
ぼこり、と。
黒い膜が膨れた。
そこから枝分かれした骨のような線が広がる。獣の肋骨を裏返したような、鳥の翼を失敗して模倣したような、不自然な骨格。そこへ薄い黒の皮膜が張りつき、さらにその縁が裂け、ほどけ、また繋がる。
肖像画の口たちが、一斉に息を呑んだ。
声にはならない。
悲鳴にもならない。
けれど、白い展示室そのものが、恭介の背から生まれた黒を恐れた。
紗希は、目を見開いていた。
光を吸い込むような黒。
枝のようで、影のようで、翼のようで。
天使と呼ぶには、禍々しすぎる。
鳥と呼ぶには、重厚感が異様に見える。
怪異と呼ぶには、あまりにも恭介の身体から自然に生えていた。
「……翼?」
その言葉は、紗希の口から勝手に漏れた。
恭介は答えない。
たぶん、本人にも分かっていない。
だが、分かっていなくても、使える。
そういう顔をしていた。
恭介の視界から、色が消えた。
白い壁も、黒い床も、肖像画の口も、中央の病室の絵も、すべてが線になる。奥行きはない。距離も曖昧だ。視界は平面に潰れ、世界は線だけで構成されたひどく不親切な図面になる。
だが、その中に一本だけ、歪んだ線があった。
壁ではない。
出口でもない。
その奥に、ひとつだけ熱が残っている。
紗希のものだ。
それだけは、見間違えようがなかった。
ただ、この空間がどこか別の場所と縫い合わされている箇所。白い美術館の皮膚の下で、黒い膜と現実が不自然に擦れている場所。
だが、破れば出口になる。
恭介は、そこで笑った。
「そこか」
紗希は、嫌な予感を覚えた。
ものすごく覚えた。
「先輩」
「あ?」
「まさかとは思いますけど」
恭介は、歪んだ線を見据えたまま言った。
「ぶっ壊す」
「でしょうね!」
紗希の返事はほとんど反射だった。
次の瞬間、恭介が動いた。
紗希は、腕を掴まれたと思った。
違った。
腕だけでは済まなかった。
恭介は振り返るなり、紗希の身体を片腕で引っ掴むように自分の側へ引き寄せた。傷のある腕を避ける程度の配慮はあったが、それ以外はほぼ荷物の扱いだった。腰のあたりを抱え込まれ、足が床から浮く。
「ちょっ」
紗希の声が裏返る。
「扱いが荷物!」
「黙って掴まってろ」
「人間扱いしてください!」
「してるだろ。落としてねぇ」
「基準が低い!」
恭介は聞いていなかった。
黒い翼が、背中で折り畳まれるように収束する。
左右に広がっていた黒い膜が、一瞬だけ恭介の背へ巻き戻った。黒い枝が束ねられ、皮膜が縮み、圧縮された影が背骨の一点へ集まる。
白い展示室が、軋む。
肖像画の口たちが、今度こそ声にならない悲鳴を上げた。額縁が震え、黒い床が波打ち、中央の病室の絵の白が薄く滲む。
紗希は、恭介の肩越しにそれを見た。
空間が怯えている。
この男が、出口を探しているのではないと分かったからだ。
出口を作るつもりなのだ。
「……あれ、お前怪我してるんだっけか」
「今さら言わないでください!」
「へへ……! ショックで死ぬんじゃねえぞ、紗希!」
恭介の片目の青白い渦が、ぎらりと回った。
黒い翼が、爆ぜた。
音は、羽ばたきではなかった。
炸裂音。
何かを撃ち出す音。
恭介の身体が、紗希ごと白い展示室を貫く。
次の瞬間、黒い稲妻のような軌道が、空間に焼きついた。
直線ではない。視界の線を乱暴に噛み砕きながら、白い壁へ向かって跳ねるように走る。黒い残像が枝分かれし、空気を裂き、肖像画の口をまとめて黙らせた。
「俺ぁ、目がうまく見えねえからよ、ちょっと方向転換とかするから!」
紗希は、息を呑む暇もなかった。
壁が近づく。
いや、壁ではない。
恭介が見つけた、歪んだ線。
白い展示室の皮膚。
現実と《顔の海》が、無理やり縫い合わされていた場所。
恭介は、そこへ拳を叩き込んだ。
「乗り物酔いなんかするんじゃねえぞ!?」
空間が、殴られた。
ガラスのような音がした。
白い壁に、細いヒビが走る。
一本。
二本。
ジグザグの閃光の中心から、蜘蛛の巣のように広がる。
ヒビの隙間から、黒いものが噴き出す。保存膜ではない。顔の海でもない。もっと外側の、乾いた空気の気配。蛍光灯の白。夜の校舎の冷えた匂い。現実の硬さ。
「おおおおおおお!!」
恭介は、止まらない。
黒い翼がもう一度爆ぜる。
その推進と共に、拳が、さらに奥へ食い込む。
白い展示室が悲鳴を上げた。
黒い稲妻が、白い美術館を貫いた。
空間に、ガラスのようなヒビが走る。
次の瞬間。
《顔の海》が、裂けた。




