第46話 オ休ミナサイ
恭介は、一歩ずつ歩いた。
黒い床が、足裏の下でわずかに沈む。
だが、もう指は伸びてこない。志藤の命令を形だけなぞっていた黒い残滓は、床の奥へ溶けるように崩れ、恭介の足を止めようとはしなかった。
白い展示室は、静かだった。
壁の肖像画たちは、目元を黒く塗り潰されたまま、口だけを薄く開いている。床の下にはまだ呼吸音が沈んでいる。けれど、そのどれもが、今は恭介の歩みを見ているようだった。
紗希は、少し離れた場所に立っていた。
止めない。
声もかけない。
ただ、見ている。
喰う。
恭介は、そう言った。
祓うでも、助けるでも、慰めるでもない。ただ喰う。それが彼にできる唯一の方法で、それ以外の言葉を彼は持たない。
紗希は、それを分かっていた。
だから、見ていた。
中央の肖像画の前に、“ひな”が立っている。
白い少女の輪郭。
黒い床に触れているのに、重さはほとんどない。薄い紙を立てたような、霧が人の形を真似たような、頼りない姿だった。
けれど、逃げなかった。
恭介が近づいても、後ずさらない。口元に触れていた白い指を、ゆっくり下ろす。声は出ない。喉はわずかに震えたが、そこから言葉は落ちてこなかった。
ただ、“ひな”は恭介を見ていた。
いや。
恭介の顔ではない。
口でもない。
伸ばされた手でもない。
その片目を、見ていた。
青白い渦。
恭介の眼の奥で、まだ完全には開ききらないまま、ゆっくりと回っているもの。
“ひな”は、それをじっと見つめていた。
怯えているようには見えなかった。
不思議そうだった。
まるで、自分の中にも沈んでいる何かと、よく似たものを見つけたみたいに。
「……眼を、見てる」
紗希が、思わず呟いた。
恭介には聞こえていないのか、聞こえていて無視したのか、返事はなかった。
彼は“ひな”の前に立った。
近づいたことで、ようやく見えた。
白い顔。
塞がれた口。
その奥にある、黒い渦。
口元の内側で、細く、暗く、ゆっくりと巻いている。声になろうとするものを絡め取り、沈め、外へ出る前に潰してしまう蓋のようなもの。
恭介の片目が、鈍く疼いた。
何だ、これ。
見たことがある。
いや。
違う。
見たんじゃない。
触られた。
どこかで、これに触られたことがある。
目の奥。
頭の底。
記憶の真ん中。
白い花びらが、視界の端を掠めた。
恭介は眉を寄せる。
思い出そうとした瞬間、また黒い蓋が下りる。だが、さっきより遅い。閉じきる前に、何かが内側から軋んでいる。
「……チッ」
舌打ちが漏れた。
“ひな”は、まだ恭介の眼を見ている。
恭介は、白い少女を見下ろした。
「逃げねぇのか」
返事はない。
返事ができない。
“ひな”の唇が、ほんの少しだけ開く。だが、黒い渦がその奥で巻き、出かけた何かを沈めてしまう。
恭介は目を細めた。
「答えらんねぇんだったな」
乱暴な声だった。
けれど、“ひな”は震えなかった。
恭介は、短く言った。
「動くな」
白い少女の指先が、わずかに揺れる。
「すぐ終わらせる」
その言葉に、“ひな”の輪郭が少しだけ緩んだ。
安心したのかもしれない。
疲れたのかもしれない。
あるいは、ようやく意味のある言葉を聞いたのかもしれない。
紗希には分からない。
分からないまま、目を逸らさなかった。
恭介は、“ひな”の顎に手をかけた。
白い輪郭が、指先の下でかすかに震える。肉ではない。骨でもない。冷たい霧と薄い紙と、どこかに残された息の残響をまとめて掴んでいるような感触だった。
“ひな”は逃げない。
口元の黒い渦が、恭介の眼の青白い渦に反応した。
白い展示室の空気が、薄く歪む。
二つの渦が、互いを見た。
恭介の喉が、低く鳴る。
それは唸りではなかった。
空腹だった。
終わり損ねた黒を、喰うための音だった。
恭介は、噛んだ。
黒い渦を。
声を塞いでいた蓋を。
“ひな”という名前に縫い付けられていた口元を。
白い少女の身体が、びくりと震えた。
だが、逃げなかった。
黒い渦が、恭介の歯の奥で裂ける。苦い。冷たい。古い録音のようなノイズが舌の上で弾ける。誰かの息。誰かの声。誰かの最後の口元。その全部が、ひどく薄く、ひどく重く、恭介の喉へ流れ込んでくる。
同時に、“ひな”の口が開いた。
初めて。
誰かの声ではなく。
保存された口でもなく。
継ぎ足された息でもなく。
白い少女自身の奥から、細い音がこぼれた。
「……やっと」
その声は、あまりにも小さかった。
けれど、白い展示室のどの肖像画の声とも違っていた。
「……眠れる」
紗希は、息を止めた。
“ひな”の輪郭が、ほどけていく。
白い指先が、黒い床へ落ちる前に、霧のように薄れていく。顔の線が消え、髪の輪郭が溶け、口元にあった黒い渦だけが、恭介の口の中で最後に小さく震えた。
――その瞬間。
恭介の片目の奥で、何かが跳ねた。
白い花びらが、落ちる。
今度は、消えなかった。
高い場所。
白い空。
遠くに見える、巨大な桜の大樹。
仰向けの視界。
身体が動かない。
誰かが、こちらを覗き込んでいる。
ミカゲ。
名前が、形になるより早く、顔が見えた。
声は、優しかった。
子供を寝かしつけるような、静かで、柔らかな声だった。
『これで、僕たちはお別れだ』
けれど、顔は違った。
ミカゲの口元は、引き裂いたように歪んでいた。
笑っている。
眠れ、と言う顔ではない。
守る者の顔でもない。
終わったものを箱にしまう時の顔。
動かなくなった標本へ、そっと蓋をする時の顔。
指先に、青白い渦があった。
糸のように細く。
針のように鋭く。
それでいて、目を逸らせないほど綺麗なもの。
それが、近づいてくる。
恭介の眼へ。
眼球へ。
奥へ。
捩じ込まれる。
『――お休み。キョウ』
その瞬間、恭介の片目の奥で、何かが割れた。




