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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第45話 喰う男と、見ている少女

 黒い鏡面が、閉じた。


 志藤の姿は、もうどこにもなかった。


 白い展示室の壁には、変わらず無数の肖像画が並んでいる。目元を黒く塗り潰され、口だけを生々しく残された顔たち。さっきまで薄くざわめいていたそれらの口は、今は半開きのまま沈黙していた。


 完全な静寂ではない。


 床の下に、まだ息がある。


 黒い保存膜のような床の奥で、誰かの呼吸が細く沈んでいる。額縁の裏、壁紙の奥、絵具の向こう側。そこに保存された声にならないものたちが、志藤が消えたあとも、まだこの空間に残っている。


 恭介は、足元に絡みついていた黒い指の残滓を踏み潰した。


 湿った音がした。


 黒い指は、抵抗せずに床へ沈んだ。志藤の命令だけを形にしたようなそれは、命令する者が消えた途端、もう何を掴めばいいのか分からなくなったように崩れていく。


「……消えたな」


 恭介が、低く言った。


 片手はまだ、目元を押さえている。呼吸も荒い。こめかみには脂汗が浮かび、頬を伝って顎へ落ちていた。それでも、声だけはいつもの乱暴な調子を取り戻しつつある。


 紗希は、志藤が消えた場所を見ていた。


 さっきまで黒い鏡面が開いていた壁の一角。そこにはもう、進路指導室らしき光も、机の輪郭も、蛍光灯の白い反射もない。ただ、白い壁が歪み、額縁の影がわずかに濃く残っているだけだった。


「逃げた、んでしょうか」


 紗希が言う。


 自分で言っておきながら、あまりそうは思えなかった。


 志藤は確かに、外へ戻るつもりであの黒い面へ飛び込んだ。「保存する側へ」と叫んでいた。けれど、あの面は出口には見えなかった。進路指導室の形をしていただけで、外の空気には繋がっていなかった。


 もっと深い場所。


 この美術館の奥底へ落ちていく穴。


 紗希には、そう見えた。


「知らねぇ」


 恭介は、黒い面が閉じた場所を睨んだ。


「ただ、外の匂いじゃねぇな」


「外の匂い?」


「ああ」


 恭介は片目を押さえたまま、鼻先をわずかに動かした。まるで目ではなく、別の感覚でこの場所を探っているようだった。


「外に出たなら、もっと空気が抜ける。ここじゃねぇ場所に穴が開いた感じがするはずだ。今のは違ぇ」


「違う、というと」


「奥だ」


 短く、恭介は言った。


「あれは、外に逃げたんじゃねぇ。奥に沈んだ」


 紗希は、もう一度、黒い面があった場所を見る。


 志藤がどうなったのかは、分からない。


 あの人が勝ったのか、負けたのか。外へ出られたのか、それともこの《顔の海》のもっと深い場所へ落ちたのか。紗希にも、恭介にも、それを確かめる手段はない。


 ただ少なくとも、勝ち誇って外へ出ていったようには見えなかった。


「……私にも、出口には見えませんでした」


 紗希は言った。


「進路指導室の形は見えました。でも、外へ続いているというより……もっと、奥へ落ちる穴みたいでした」


「なら、勝手に沈んでろ」


 恭介は吐き捨てた。


 その雑さに、紗希は思わず横を見る。


「雑ですね」


「志藤に関しては興味がねぇ。勝手にしやがれとしか思わねぇんだが」


 恭介は、ぐるりと白い展示室を見回そうとして、少し顔をしかめた。視界がまだうまく機能していないらしい。額縁の位置も、床の奥行きも、まともには掴めていない。それでも、壁一面に並ぶ顔の群れと、黒い床に沈む声の気配だけは分かっているようだった。


「問題は、そもそもここは何なんだって話だ」


「そこですか」


「そこだろうが。あのクソ教師が消えたのに、俺らはまだ変な美術館に取り残されてんだぞ」


 言われて、紗希は改めて周囲を見た。


 白い壁。


 黒い床。


 口だけを残された肖像画。


 中央にある、病室の絵。


 その前に立つ白い少女。


 そして、自分と恭介。


 志藤はいなくなった。けれど、この空間は消えていない。崩れかけているのか、維持されているのか、それすら分からないまま、二人はまだ《顔の海》の内側にいる。


「“フィアー能力”ってもので作り出した異空間。……だと思います」


 紗希は、慎重に答えた。


「だと思います、かよ」


「専門家じゃないので」


「じゃあ専門家呼べ」


「レンさんなら外にいると思いますけど、ここに電話が通じるかは知りませんよ」


 紗希が、そう言って端末をひらひらと扇いで見せた。


「役に立たねぇな」


「私に言われても困ります」


 紗希は、小さく息を吐いた。


 喉が痛い。左腕も熱を持っている。血は止まりきっていないし、立っているだけで頭の奥がふわつく。それでも、こうして恭介と言い合っていると、少しだけ現実の輪郭が戻ってくる気がした。


 喫茶店〈灯〉で、くだらないことで口論している時と似ている。


 似ているだけで、ここは白い展示室で、床の下には誰かの声が沈んでいるのだけれど。


「そういえば」


 紗希は、ふと思いついたことを口にした。


「フィアー能力で作り出したものって、本人が死んだらどうなるんでしょうか?」


 恭介が黙った。


 片目を押さえたまま、ほんの少しだけ眉を寄せる。


「……あー」


「はい」


「逃がしたの、まずかったか」


「かもしれません」


 紗希は肩をすくめてみせる。


「ぶっ殺しとけばよかったかもな!」


 恭介は、指をバキバキと鳴らしながら白い歯を見せた。


「物騒なテヘペロやめてください」


「してねぇだろ」


「顔がだいたいそうでした」


「どういう顔だよ」


 恭介が本気で嫌そうに眉をひそめる。


 紗希は少しだけ笑った。


 笑える状況ではない。


 けれど、笑わなければ、きっとこの場所に呑まれる。白い壁。黒い床。口だけを残された肖像画。志藤がいなくなったことで、空間そのものが次に何をするのか分からない。その不安を真正面から見続けるには、今の紗希は少し疲れすぎていた。


「……っていうか、先輩が何とかしてくださいよぉ」


 紗希は、わざと少し情けない声を出した。


 恭介が、すぐに顔を向ける。


「それが助けに来た奴にする態度かよ」


「助けに来たなら、最後まで助けてください」


「図々しいな、お前」


「生き残るための前向きな姿勢です」


「物は言いようだな」


「はい。言葉は大事ですから」


 そこで、紗希の声が止まった。


 恭介も、何かに気づいたように口を閉じる。


 二人の会話の向こう側。


 中央の肖像画の前。


 白い少女が、こちらを見ていた。


 “ひな”。


 そう呼ばれていたもの。


 彼女は、志藤が消えた黒い面の跡を見ていなかった。追おうともしていない。呼び止めることも、泣くことも、怒ることもない。ただ中央の病室の絵の前に立ち、自分の口元に白い指を触れたまま、恭介と紗希の方を見ていた。


 その姿は、先ほどまでよりも小さく見えた。


 命令を待つ怪異ではなく、何をすればいいのか分からない子供のように。


 いや、違う。


 何をすればいいのか分からないのではない。


 何かを言いたいのに、まだ言えずにいる。


 紗希は、そう感じた。


「……先輩」


「あ?」


「見られてます」


 恭介が、中央の肖像画の方へ顔を向ける。


 だが、細部までは見えていないのだろう。片目を押さえたまま、苛立たしげに目を細めるだけだった。


「あいつにか」


「はい」


 紗希は、“ひな”を見た。


 白い指先が、口元に触れている。


 喉が、わずかに震える。


 それでも、声は出ない。


 志藤は消えた。


 命令する声も、所有を主張する声も、もうこの場にはない。


 それなのに、“ひな”は動かなかった。


 黒い面が閉じた場所へ向かうこともなく、志藤の名を呼ぶこともなく、ただこちらを見ている。


 紗希は、静かに言った。


「先生を、追わないんですね」


 その言葉に、“ひな”の白い指が、小さく震えた。



「追うわけねぇだろ」


 恭介が、低く言った。


 その声に、紗希は横を見る。恭介はまだ片目を押さえている。額には脂汗が浮かび、呼吸も荒い。けれど、志藤の名が出た時のような、内側から何かに食い破られかけている危うさは、ほんの少しだけ薄れていた。


 代わりに、今は白い少女を見ている。


 正確には、見えてはいないのかもしれない。


 恭介の視線は、中央の肖像画の少し横へ逸れている。奥行きも、輪郭も、まともには掴めていないのだろう。それでも彼は、“ひな”がそこにいることだけは分かっているようだった。


「どうしてですか」


 紗希が訊く。


「どうして、追わないって分かるんですか」


「見えちゃいねぇよ」


 恭介は舌打ちした。


「何となく、匂いでわかる」


「何がですか」


「終わり損ねた匂いがする」


 その言葉は、理屈ではなかった。


 説明でもない。推理でもない。恭介は壁の肖像画の配置も、中央の病室の絵の細部も、おそらく今はまともに見えていない。志藤が語った保存や復元や修復の理屈を、細かく追っていたとも思えない。


 けれど、彼は怪異を喰う。


 黒を喰う。


 恐怖が残り、沈み、形を持ったものを、身体で知っている。


 だからなのだろう。


 紗希には見えているものが、恭介には匂いとして届いている。


 中央の肖像画の前に立つ“ひな”は、自分の口元に指を触れたまま、こちらを見ていた。志藤が消えた場所を追わない。黒い鏡面が閉じた跡を見もしない。ただ、恭介と紗希の方を向いている。


「終わり損ねた……」


 紗希は、小さく繰り返した。


 その言葉を、頭の中でほどいていく。


 志藤は言っていた。


 口を与えた。声を与えた。息を与えた。だから従った。だから働いた。だから共生関係だった。


 だが、志藤は一度も聞いていない。


 “ひな”自身が、何を言いたかったのかを。


 他人の声は出せる。奪われた口の残響は再生できる。肖像画に閉じ込められた呼吸も、志藤が望む形で繋ぎ合わせることができる。


 それなのに、“ひな”自身の声だけは出ない。


 喉が震えても、唇が開いても、口の奥で黒いものが巻いて、声になる前の何かを内側へ沈めてしまう。


「先生は、あの子に口を与えたと言っていました」


 紗希は、“ひな”を見たまま言った。


「声を与えた。息を与えた。だから従った。だから共生だった、と」


「言ってたな」


「でも、先生は一度も聞いていません」


「あ?」


「あの子自身が、何を言いたかったのかを」


 恭介は答えない。


 紗希は続ける。


「先生が消えても、あの子は追いません。私たちの口を奪いにも来ません。ずっと、あの絵の前にいて、自分の口元に触れている」


 白い少女の指先が、小さく震えた。


 聞こえているのかもしれない。


 分かっているのかもしれない。


 それでも、声は出ない。


「だから、たぶん……先輩の言う通りです」


 紗希は、ゆっくりと言葉を置いた。


「あの子は、口を欲しがっていたんじゃない」


 中央の病室の絵。


 未完成の口元。


 その前に立つ、口を塞がれた白い少女。


「終わり損ねている」


 白い展示室の空気が、ほんのわずかに揺れた。


「せっかく眠りについたのに、“話せ”と言われ続けているような。……でも、もうやめたいというような言葉だけは口から出てこない」


 壁の肖像画たちは何も言わない。目元を黒く塗り潰されたまま、口だけを薄く開き、息を潜めている。さっきまで志藤へ返還を求めていた口たちも、今は中央の少女を見ているようだった。


 “ひな”が、恭介を見た。


 逃げない。


 後ずさらない。


 志藤の命令で恭介の足元へ伸びた黒い指の残滓は、もう動かなかった。黒い床に沈みかけたまま、掴むべき足を見失ったように崩れている。


 恭介は、それを見下ろした。


「さっき俺を止めたのは、あいつの意思じゃねぇな」


「どういう意味ですか」


「命令の形だけ残ってただけだ」


 恭介は、中央の白い輪郭へ顔を向ける。


「あいつが俺を止めたんじゃねぇ」


 紗希は“ひな”を見た。


 白い少女は、恭介から目を逸らさない。口元に触れたまま、こちらを見ている。そこに怯えがないわけではない。そもそも、彼女に人間と同じ表情があるのかも分からない。


 けれど、逃げようとはしていなかった。


 拒もうともしていなかった。


「……拒んでいない、ということですか」


「少なくとも、逃げる気はねぇな」


 恭介は、短く言った。


 それから、片目を押さえていた手をゆっくり下ろす。


 青白い渦は、まだ完全には開いていない。けれど、目の奥で何かが回っている。外を見るためのものではない。内側に打ち込まれたものを、奥から喰い破ろうとするような光。


 紗希は、それを見た。


 見て、何も言わなかった。


 ここで「大丈夫ですか」と言っても、たぶん恭介は答えない。答えられないのではなく、答える気がない。痛みも、違和感も、自分の中で噛み潰して、そのまま前へ出る男だ。


「先輩」


 だから、紗希は別のことを訊いた。


「……どうするんですか」


 恭介は、“ひな”を見た。


 中央の肖像画を見る。


 白い病室の絵。


 目を閉じた少女。


 何度描き直しても定まらなかった口元。


 その前に立つ、声を塞がれ、終わり損ねた白い怪異。


 しばらく、何も言わなかった。


 白い展示室の奥で、誰かの息が沈んでいる。床の下で泡のように揺れ、壁の額縁の裏で細く震えている。それらは声ではない。言葉でもない。ただ残ったもの。返せないまま保存され、終われないまま積み重なったもの。


 恭介は、低く言った。


「喰う」


 紗希は、瞬きをしなかった。


 驚かなかった。


 止める言葉も、出てこなかった。


 たぶん、そう言うと思っていた。


「痛いと言われようが」


 恭介は続ける。


「怖いと言われようがな」


 声は乱暴だった。


 優しさのかけらもない。


「そんなこと知ったこっちゃねぇんだ」


 それは、突き放す言葉に聞こえた。


 聞こえただけだった。


 恭介は、苦痛を与えないと誓っているのではない。恐怖を与えないと誓うこともしない。喰われる側が何を感じるかを考えていないわけでもない。


 考えたうえで、切り捨てている。


 痛いかもしれない。


 怖いかもしれない。


 それでも、残せばもっと悪い。


 終われないものを、終われないまま誰かの保存物にし続けるくらいなら、喰う。


 レンなら、別の方法を探すのかもしれない。


 けれど、恭介は知らない。


 知らないものを信じる気もない。


 目の前に、終わり損ねた黒がいる。喰えば終わる。喰わなければ残る。恭介に必要な理屈は、それだけだった。


「俺は祓えねぇ」


 恭介は言った。


「慰められもしねぇ」


 白い少女が、じっと彼を見ている。


「できんのは、喰うことだけだ」


 紗希は、恭介の横顔を見ていた。


 優しい、とは思わなかった。


 ひどい、とも思わなかった。


 そのどちらも、違う気がした。


 常盤恭介という人間は、そういう形でしか終わらせられないのだ。救うとは言わない。助けるとも言わない。祓うとも、慰めるとも言わない。ただ喰うと言う。


 それが、この人にできる唯一の方法なのだと、紗希には分かった。


 だから、紗希はお願いしなかった。


 命令もしなかった。


 ただ、言った。


「……では、見ています」


 恭介が、こちらを見た。


「見るな」


「無理です」


「趣味悪ぃな」


「今さらですよ」


 紗希がそう返すと、恭介は本気で嫌そうに舌打ちした。


 それから、白い少女へ向き直る。


 “ひな”は逃げない。


 黒い床に足を置いたまま、自分の口元に触れ、ただ恭介を見ている。


 恭介は一歩、前に出た。


 黒い床が、わずかに沈む。


「腹が減ってんだ」


 彼は、乱暴に言った。


「理由なんざ、それで足りる」

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