第44話 恭介から逃げた先には
恭介の片目の奥で、青白いものがゆっくり回っていた。
志藤は、それを見た。
ほんの一瞬、彼の顔から色が消える。
自分の片目に宿る黒い渦とは違う。与えられたものではない。押し込まれたものでもない。恭介のそれは、もっと奥から、皮膚を食い破って出てくる獣の目のようだった。
「……なぜ」
志藤の声が、かすれた。
「なぜ、君が、それを……」
恭介は答えない。
片手で顔を押さえ、荒い呼吸を繰り返している。こめかみに浮いた脂汗が、頬を伝って顎へ落ちた。噛み締めた歯の隙間からは、まだ薄く涎が滲んでいる。
だが、その顔に怯えはなかった。
苦痛はある。混乱もある。けれど、それ以上に、何かを噛み砕こうとする気配があった。痛みそのものを食い破り、塞がれたものを奥から引き裂こうとするような、剥き出しの本能。
紗希は、それを見ていた。
志藤の話は、もうほとんど耳に入っていない。
ミカゲ。
その名前に、志藤だけでなく恭介も反応している。
志藤は外から与えられた黒い渦を抱え、恭介は内側から青白い渦を開きかけている。似ている。けれど、違う。あまりにも違う。
「違う」
志藤が、急に首を振った。
「違う。違う、違う。私は、見る側だ。私は、保存する側だ。私は、この美術館の主だ」
その声は、恭介へ向けられているようで、実際には自分自身へ言い聞かせているようだった。
白い展示室の壁が、軋む。
額縁の中の肖像画たちが、口だけを薄く開いた。目元は黒く塗り潰されている。それでも、すべての顔が志藤を見ているように感じられた。
『返して』
小さな声が漏れる。
どこかの肖像画からだった。
『口を』
別の額縁。
『声を』
床の下。
『私の』
壁の奥。
それは責める声ではなかった。
叫びでもない。
ただ、返してほしいものの名を、薄く、細く、何度も形にしようとしている声だった。奪われた口で、奪われた声で、奪った本人へ向けて、ようやく戻り始めた言葉。
中央の肖像画の前で、“ひな”が自分の口元に触れている。
白い指先が震えていた。
その喉は何かを言おうとしている。だが、まだ声にはならない。口の奥に沈んだ黒いものが、そこから出ようとするものを押し戻している。
志藤は、そのすべてから目を逸らすようにICレコーダーを抱え込んだ。
「黙れ」
低く言う。
『返して』
「黙れと言っている」
『口を』
「お前たちは、私が拾った」
志藤の声が、少しずつ熱を帯びる。
「誰にも残されず、誰にも記録されず、ただ腐って消えていくはずだったものを、私が拾った。私が見つけた。私が選び、私が保存した」
壁の肖像画たちが、ざわめく。
志藤は聞かない。
いや、聞いているのかもしれない。ただ、その声を返還の訴えとしてではなく、自分の所有物が騒いでいる音として聞いている。
「私の記録だ」
志藤は、壊れたICレコーダーを胸元へ押しつけた。
「私の美術館だ」
片目の黒い渦が、ゆっくり回る。
「この口は、私のものだ」
その言葉が落ちた瞬間、紗希はもう何も言わなかった。
これ以上、問う必要はなかった。
志藤は、自分で答えた。
父親だからではない。
保存だからでもない。
復元でも、共生でも、ミカゲに選ばれたからでもない。
ただ、自分のものだと言いたかっただけだ。
「終わってんな」
恭介が、低く吐き捨てた。
声はまだ掠れていた。だが、そこにはさっきまでの苦痛とは別の、はっきりとした嫌悪があった。
志藤はその言葉に顔を歪める。
「終わっているのは君の方だ、常盤恭介」
彼は壊れたICレコーダーを掲げた。
外装は砕け、液晶は割れ、スピーカーの穴も潰れている。もう道具としての形はほとんど失われていた。それでも、赤黒い血と黒い線だけが、まだ回路のように絡みついている。
志藤の片目の黒い渦が、その破片へ反応した。
壁の肖像画の一枚が、内側から裂ける。
額縁の奥に、黒い面が広がった。
鏡のような黒。
進路指導室の鏡と同じ、けれどもっと薄く、もっと不安定な面だった。そこに蛍光灯の白い反射のようなものが揺れ、机らしき輪郭が淡く浮かぶ。
志藤の顔に、喜色が戻る。
「開いた」
紗希は、その黒い面を見た。
嫌な感じがした。
出口に見える。
だが、あまりに静かすぎる。“深さ”を感じさせる静けさ。
外へ続いているというより、奥へ落ちていく穴のように見える。
恭介が動こうとした。
まだ片目を押さえている。呼吸も荒い。それでも足は前へ出た。志藤を逃がす気はないのだろう。いや、理屈ではない。目の前の不快なものを、壊しに行こうとしているだけかもしれない。
志藤が叫んだ。
「常盤恭介を止めろ、ひな!」
中央の白い輪郭が、びくりと揺れた。
命令は届いている。
けれど、以前のように真っ直ぐではない。
黒い床から、細い指のようなものが伸びる。恭介の足元へ絡みつこうとする。だが、その動きは迷っていた。止めようとしているのか、止めたくないのか、それともただ命令の形だけをなぞっているのか、分からない。
それでも、一瞬には十分だった。
恭介の足が止まる。
「チッ……!」
彼は黒い指を踏み潰そうとする。だが、渦眼が開きかけた反動なのか、動きがほんのわずかに鈍い。そのわずかな遅れを、志藤は見逃さなかった。
「お前たちは、そこで沈んでいろ」
志藤は黒い鏡面へ身を向ける。
「私は戻る」
壊れたICレコーダーを抱き締める。
「保存する側へ!」
その声ごと、志藤の身体が黒い面へ吸い込まれた。
次の瞬間、志藤は光を見た。
蛍光灯の白。
四角い机。
壁際の書類棚。
進路指導室の床。
――戻った。
そう思った。
喉の奥から、勝利の笑いが込み上げる。出し抜いた。あの怪物も、あの少女も、あの出来損ないのひなも、すべて置いてきた。
自分だけが外へ戻った。やはりここは自分の美術館なのだ。
「は、はは……」
志藤は顔を上げた。
「ははは! 他愛もない。やはり、運命は私に味方していたようだ」
身体を曲げて、高笑いをする。
前後に揺すられる、視界。
「……?」
そして、笑いが止まった。
蛍光灯だと思ったものは、額縁の白い反射だった。
机だと思ったものは、歪んだ展示台だった。
書類棚だと思ったものは、口のない顔が積まれた壁だった。
窓はない。
扉もない。
そこは進路指導室ではなかった。
「何だ、ここは」
白い美術館ですらない。
もっと暗い場所だった。
額縁はすでに形を失い、壁も床も天井も曖昧になっている。顔の輪郭すら崩れ、ただ口だけが無数に浮かんでいた。
「これはいったい何だ!」
開きかけた口。
閉じ損ねた口。
泣く直前の口。
悲鳴を飲み込んだ口。
声を奪われ、名前を失い、保存されたまま腐ることも許されなかった口。
「私は、どこへ飛ばされたというんだ……?」
志藤は、一歩下がろうとした。
足元が沈む。
思わず、上ずった声を上げる志藤。
黒い膜ではなかった。
濡れた声の層だった。
踏み込むたび、底のないぬかるみのように沈み、その奥から細い呼吸音が泡のように浮かび上がる。
「違う」
志藤は呟いた。
「ここは……出口じゃ……」
口たちが、いっせいに動いた。
『返して』
声は一つではない。
『助けて』
『苦しい』
『やめて』
志藤は壊れたICレコーダーを抱え直す。
「違う。黙れ。私は、私は外へ――」
口たちは近づいてくる。
壁から。
床から。
暗い奥から。
額縁を失った顔の海から。
志藤は外へ逃げたつもりだった。
だが、そこに外はなかった。
あるのは、彼が保存した口だけだった。
そのすべてが、同じ言葉を吐いた。
『口を、返して』
「私に、声を聞かせるなぁああ!」
その中を、志藤の絶叫が引き裂くように響き渡っていった。




