第43話 浄眼
「ミカゲだ」
その名を口にした瞬間、志藤の顔に血が戻った。
先ほどまでの青白さが、嘘のようだった。中央の肖像画の前で、“ひな”が声もなく震えていることも、白い展示室の壁に並んだ口たちが沈黙していることも、もう志藤の目には入っていないように見えた。
彼は、答えを見つけた人間の顔をしていた。
いや、違う。
紗希には、それが答えではなく、逃げ込むための額縁に見えた。
「そうだ。ミカゲだ。どうして忘れていた」
志藤は、壊れたICレコーダーを胸元に抱えたまま笑う。
その笑みは、救われた者のそれに似ていた。見失っていた道をようやく思い出した者のように、彼は片目の奥を疼かせながらも、妙に晴れやかな顔をしている。
「彼だけが、私を理解してくれた」
――志藤は、その声を思い出した。
白い病室だったのか、進路指導室だったのか、志藤にはもう判然としない。記憶の輪郭はところどころ黒く潰れている。ただ、男の声だけは奇妙に澄んでいた。
穏やかで、柔らかく、人の痛みに寄り添うようでいて、その痛みを決して自分のものにはしない声。
男は笑っていた。
顔の細部は思い出せない。けれど、口元だけは覚えている。優しい形をしているのに、見ているものを人間として扱っていないような笑みだった。
「失われたものは、ただ消えるわけではありませんから」
男は、そう言った。
「恐怖は残ります。声も、息も、口も。正しく見れば、拾い上げることができる」
志藤は、その言葉に縋った。
「誰も分からなかった。雛を失った私の苦しみも、あの瞬間を残したいという願いも、声にならなかった息をもう一度聞きたいという、この胸の内も。誰も、正しく見てはいなかった」
壁の肖像画たちが、口だけを薄く開いたまま沈黙している。
そこに並んでいるのは、志藤が奪い、保存し、再生してきた口だ。だが今の志藤は、その無数の口すら自分を飾る背景のように扱っていた。自分がどれほど深く理解されていたかを証明するための、白い美術館の装飾品のように。
「――だが、彼は違った」
志藤の声に、熱が戻っていく。
「彼だけが、私の願いに名前を与えてくれた。保存。復元。欠けた記録の修復。そう呼べば、私がしようとしていたことは、ただの未練でも、狂気でもなくなる。失われたものを、正しく残すための行為になる」
紗希は黙って聞いていた。
さっきまで、彼女は志藤を問い詰めていた。
ひなの口。
中央の肖像画。
保存された声。
誰に教わったのか。
その問いの先に、ようやく出てきた名前が、ミカゲ。
だが、志藤の口から語られるその人物は、あまりにも都合がよかった。
理解者。
導き手。
友人。
志藤は、そう信じたがっている。
「彼は、私に見る目を与えた」
志藤は片目に触れようとして、途中で手を止めた。
ICレコーダーを抱える手を離せないのだ。壊れた機械を手放せば、自分の言葉までこぼれ落ちてしまうとでも思っているように、彼はそれを胸元へ強く押しつける。
「恐怖を見る目を。声を保存する目を。ひなを、正しい形へ導くための目を」
その片目の奥で、黒い渦が濁っていた。
レンの渦眼に宿っていた青白い光とは違う。志藤のそれは、瞳そのものが開いたというより、眼球の奥に別の何かだけを差し込まれたように見える。自然に芽吹いたものではない。誰かの手で、そこへ埋め込まれたもの。
紗希には、そう見えた。
「彼は言った。恐怖は消えない。声も、息も、口も、ただ失われるわけではない。沈み、残り、形を変えて浮かび上がる。ならば、それを拾い集めることもできる。欠けた場所へ戻すこともできる」
志藤は、中央の肖像画を見た。
黒い表面の下から現れた病室の絵。
眠る雛。
完成しない口元。
「私は、それをしただけだ。雛のために。あの子を失わせないために。彼は、私が何を求めているのかを正しく分かってくれた」
紗希は、その言葉を聞きながら、ゆっくりと息を吸った。
志藤の中では、すべてが綺麗に繋がっているのだろう。
娘を失った悲しみ。
声にならなかった息への執着。
怪異の飼育。
口と声の収集。
ひなの命令。
そして、ミカゲから与えられた言葉。
それらを一枚の額縁に収めて、「父親の愛」として眺めている。
けれど、紗希の目には違うものが見えていた。
「記憶を、封じられていたんですよね」
紗希は静かに言った。
志藤の笑みが、わずかに止まる。
「先生は、さっきそう言いました。思い出せなかった。でも、必要な時に辿り着いた。彼の試練に勝った、と」
「そうだ」
志藤はすぐに頷いた。
その反応は、むしろ誇らしげだった。
「私は忘れていた。彼の名も、彼から与えられた言葉も、最初は曖昧だった。だが、私は辿り着いた。記憶を封じられてなお、私はここまで来た」
志藤の片目が黒く疼く。
だが、彼はそれすら誇るように顔を上げた。
「私の執念が、彼の封印に勝ったのだ」
その言葉を聞いた瞬間、紗希の中で何かが冷えた。
記憶を封印されていた。
志藤は、その言葉を誇らしげに口にした。
けれど、紗希にはまったく別の意味に聞こえた。
記憶を封じる。
それは、信頼ではない。
少なくとも、この場で志藤が語っているような友情の証ではない。相手を信じ、託し、共に進むための行為ではない。
自分の痕跡を隠す行為。
自分へ辿り着かせないための処置。
用が済んだ相手から、都合の悪い部分だけを抜き取っておく行為。
つまり。
ミカゲという人物は、志藤を微塵も信用していなかったのではないか。
そう考えた方が、ずっと自然だった。
それなのに。
この人は、なぜ。
なぜ、こんなにも嬉しそうに。
“友人”の話として、それを語ることができるのだろう。
「試練、ですか」
紗希は呟く。
「ええ。そうだ」
志藤は答える。
「忘れることも、思い出せないことも、観測の一部だった。必要な時に、必要な形で辿り着く。それこそが、彼の与えた試練だったのだ」
紗希は、もうそれ以上言わなかった。
言っても、届かない。
志藤は、利用された可能性すら、自分の特別性へ変換している。封印を、信頼の欠如ではなく試練として受け取っている。切り捨てられた痕跡を、選ばれた証として抱きしめている。
壊れている。
けれどそれは、ただ狂っているというより、もっと厄介な壊れ方だった。
本人にとって、すべてが意味を持ってしまっている。
志藤は、さらに言葉を重ねる。
「彼は、私に役割を与えた。私のような者でなければ、この場所は作れなかった。声を聞き、口を集め、失われたものを保存する。その意味を理解できる者でなければ」
白い展示室の壁が、薄く軋む。
肖像画たちは、何も言わない。
目元を黒く塗り潰されたまま、口だけで息を潜めている。
志藤の言葉は、もう彼自身を支えるためだけに吐かれていた。
自分は選ばれた。
自分には役割があった。
ミカゲは友人だった。
そう言い続けなければ、足元の黒い床に沈んでしまうと分かっているかのように。
その横で、恭介が小さく息を吐いた。
紗希は、反射的にそちらを見る。
最初は、ただの舌打ちかと思った。恭介はこの手の長話が嫌いだ。理屈を重ねられれば重ねられるほど、顔をしかめる。それはいつものことだった。
だが、違った。
呼吸が、少しおかしい。
浅い。
怒っている時の息ではない。空腹で苛立っている時の呼吸とも違う。喉の奥で何かを押し返しているような、不規則な息だった。
恭介は片手で目元を押さえている。
その指の間から覗く片目の周囲が、わずかに赤い。白目が血走っているだけではない。奥の方で何かが圧をかけているように、こめかみの筋が細く震えていた。
紗希は、志藤から少しだけ意識を外した。
「先輩……?」
声に出したつもりはなかった。
それでも、唇が動いていた。
恭介は答えない。
聞こえていないのか、答える余裕がないのか。彼は片目を押さえたまま、白い床を睨むように俯いていた。
こめかみに、脂汗が浮いている。
志藤は気づいていない。
まだ、嬉しそうにミカゲの名を語っている。
「そうだ。彼は私を選んだ。私に、この目を与えた。私に、ひなを完成させるための道を示した」
その横で、恭介の呼吸だけが、少しずつ乱れていた。
志藤は、恭介の異変に気づいていなかった。
いや、気づく必要がないと思っていたのかもしれない。
彼にとって、目の前にいる常盤恭介は、すでに一人の人間ではなかった。ミカゲが語った怪物。怪異を喰らい、ブラックベインを喰らい、フィアー能力すら噛み砕くという異常存在。だから、呼吸が乱れようが、汗を浮かべようが、それは怪物が怪物らしく反応しているだけに見えていたのだろう。
志藤は、壊れたICレコーダーを胸元に抱えたまま、恭介へ顔を向けた。
「彼は、こうも言っていた」
片目の奥で、黒い渦が濁る。
「怪異も、フィアー能力も、ブラックベインすら喰らう怪物がいる、と」
恭介は答えなかった。
片手で目元を押さえたまま、白い床を睨んでいる。見えているのか、見えていないのかも分からない。ただ、呼吸だけがさっきよりも荒い。喉の奥で何かを押し返しているような、ひどく不規則な息だった。
紗希は、それを見ていた。
志藤の言葉も聞こえている。ミカゲという名前も、常盤恭介へ向けられた視線も、すべて拾っている。それでも、彼女の意識は少しずつ志藤から逸れていった。
恭介の様子が、おかしい。
「気をつけろ、と」
志藤は続ける。
「その男は、恐怖を理解しない。記録を尊重しない。祈りも、悲しみも、残された声も、ただ空腹のまま喰い潰す」
志藤の声に、陶酔と憎悪が混じる。
「彼はそう言った。私のような保存者にとって、その男は天敵だと」
恭介の肩が、ほんのわずかに跳ねた。
まだ名を呼ばれていない。
けれど、何かが近づいている。
紗希には、そう見えた。
恭介の首筋の筋肉が細かく震えている。噛み締めた歯の隙間から、荒い息が漏れる。口元に、薄く涎が滲んでいた。
その顔は、何かが、内側から喰い破ろうとしているかのようだった。
志藤は、そこでゆっくりと笑った。
「その名は」
白い展示室の空気が、薄く沈む。
「常盤恭介」
名前が落ちた。
瞬間、恭介の身体が明確に反応した。
「……っ」
声にもならない息が漏れる。
恭介は片目を押さえたまま、ほんの少し膝を折った。倒れたわけではない。けれど、立っているために余計な力を使っているのが分かる。肩から腕にかけて筋肉が細く震え、こめかみに浮いた脂汗が顎へ向かって流れた。
「先輩」
紗希は、今度ははっきり声に出した。
恭介は返事をしない。
聞こえていないはずはない。
なのに、返せない。
志藤はその反応を、自分に都合よく受け取ったらしい。目の奥に、また歪んだ喜色が戻る。
「やはり反応したか」
志藤は、息を荒げる恭介を見ながら言った。
「彼が言っていた通りだ。常盤恭介。怪異も、フィアー能力も、ブラックベインすら喰らう怪物。君をここで保存することは、私に与えられた意味だったのかもしれない」
紗希の目が細くなる。
志藤はもう、話している相手を見ていない。
恭介を見ているようで、見ていない。彼が見ているのは、ミカゲから与えられた物語の中の怪物だった。そこにいる常盤恭介という人間ではなく、自分の美術館に収めるべき異常な標本。
「ここで君を保存するのは、運命だったんだよ、常盤恭介くん」
その声が、白い壁に響いた。
恭介の中で、何かが軋む。
頭蓋の奥。
眼球の裏。
もっと深い、記憶の底。
そこに打ち込まれていた釘のようなものが、ミカゲという名前と、常盤恭介という名指しに反応して震えた。
視界は、ずっと線だった。
壁も、床も、額縁も、黒い膜も、白い展示室も、奥行きを失って線だけになっている。その線の奥に、一枚だけ、白いものが落ちた。
花びら。
桜の花びらだった。
なぜ、そう分かったのかは分からない。
見たことがあるはずがない。
思い出せるはずがない。
なのに、それは桜だった。
遠くに、大きな樹が見える。高い場所。風。白い空。誰かがこちらを覗き込んでいる気配。仰向けの視界。動かない身体。
そして、声。
――キョウ。
その声は、ひどく近かった。
懐かしい、と思うより早く、声は潰れた。
黒いものが、内側から蓋をする。
見えかけた景色を塗り潰す。聞こえかけた声を押し戻す。思い出そうとした道そのものを、乱暴に塞ぐ。
恭介の喉が鳴った。
「……ふざ、けんな」
かすれた声だった。
怒りではない。
まだ、怒りにまで届いていない。
痛みと不快感と、理由の分からない拒絶反応が、言葉の形を取り損ねて漏れただけだった。
紗希は、一歩だけ近づきかけて、止まる。
近づいていいのか分からなかった。
今の恭介は、いつもの恭介ではない。怪異を見つけて笑う時の彼とも違う。腹が減ったと不機嫌になる時とも違う。もっと奥、本人も触れていない場所が、無理やりこじ開けられかけている。
志藤だけが、それを理解していない。
「どうした、常盤恭介くん」
志藤は笑う。
「君も、彼を知っているのか?」
その問いが、さらに奥へ触れた。
恭介の片目の奥で、青白い光が揺れる。
まだ開ききってはいない。
だが、そこに渦があった。
「……ミカ、ゲ……?」
恭介の口から、その名が漏れた。
言葉にした瞬間、彼の身体が大きく震えた。
黒い線だけだった視界の奥で、また白い花びらが落ちる。今度は一枚ではない。数えきれないほどではないが、確かに、いくつかの白が視界の端を掠めた。
桜。
高い場所。
誰かの顔。
引き裂いたような笑み。
指先。
青白い糸のような何か。
渦を巻く何か。
眼球に近づいてくる。
そこまで見えた瞬間、また黒が蓋をした。
恭介は、片手で顔を押さえたまま、低く呻いた。
紗希は見ていた。
恭介の片目の奥で、青白いものがゆっくり回っている。
レンの瞳に宿っていた渦と、よく似た光だった。
けれど、違う。
レンの眼は、外の異常を見るためのものだった。見えてはいけないものを見て、虚構を斬るための目。外側にある歪みへ焦点を合わせる目。
恭介のそれは、違う。
外へ開く目ではない。
内側に打ち込まれたものを、喰い破ろうとしている目だった。




