第42話 「彼は、私を選んだ」
「口を塞がれていたんですか?」
紗希の問いが落ちた瞬間、白い展示室の空気がわずかに歪んだ。
壁に並んだ肖像画たちは何も言わない。目元を黒く塗り潰されたまま、口だけを薄く開き、息を潜めている。さっきまで漏れていた呼吸音も、今は床の下へ沈んでいた。
けれど、完全な沈黙ではなかった。
中央の肖像画の前に立つ白い少女――“ひな”と呼ばれているものの口元が、小さく震えている。
唇が開く。
喉が動く。
何かを言おうとしている。
だが、出ない。
声になる前に、口の奥で黒いものが巻いた。細い渦のようなそれが、上がってきた言葉を絡め取り、内側へ沈めてしまう。まるで、声が外へ出ること自体を許さない栓のように。
紗希は、それを見ていた。
ほんの一瞬だった。けれど、見間違いではない。
他人の声は出せる。
奪われた口の残響は再生できる。
それなのに、“ひな”自身の声だけが出ない。
「違う」
志藤が、かすれた声で言った。
最初は小さかった。
「違う……違う、違う。塞がれていたのではない」
次第に、その声へ怒りが混じる。
「足りなかっただけだ。あれは不完全だった。口が足りず、声が足りず、形が足りなかった。だから私が補っていた。口を与え、声を与え、息を与え、正しい形へ近づけていた。それだけだ」
壊れたICレコーダーを抱きしめる手に、力が入る。
破片が掌へ食い込んだ。
志藤は痛みを無視している。いや、痛みで自分の言葉を支えようとしているようにも見えた。ここに自分がいる。これは自分の選択だ。そう確認するために、手の中の壊れた器をさらに強く握る。
「私は餌を与えていた。欲しがるものを与えていた。だから従った。だから働いた。これは支配ではない。取引だ。利害の一致だ。共生関係だった」
「共生関係なら」
紗希は、静かに言った。
「相手の意思が必要ですよね」
志藤の口が止まる。
紗希は“ひな”を見た。
白い少女は、中央の肖像画の前で動かない。自分の口元に指を触れたまま、声にならない何かを喉の奥で震わせている。そこに意思がないとは思えない。けれど、その意思が外に出る道は、最初から塞がれているように見えた。
「先生は、その子が何を望んでいるのか、一度でも聞きましたか?」
「聞く必要などない」
志藤は即答した。
その速さが、答えになっていた。
「あれは欲しがっていた。口を。声を。息を。私はそれを与えた。だから、あれは動いた。私のために、私の命令を聞いた」
「命令を聞いたから、望んでいた?」
「そうだ」
「働いたから、同意していた?」
「当然だろう」
紗希は、ほんの少しだけ目を伏せた。
怒りではない。
哀れみでもない。
ただ、確認だった。
この男は、本当に一度も聞いていない。
“ひな”と呼んだものが何を言おうとしていたのか。自分が与えた口で、何を伝えたかったのか。あるいは、伝えたくなかったのか。
それを聞こうとしたことがない。
「従っていたのではなく」
紗希は顔を上げる。
「そう動くように作られていたのではありませんか?」
志藤の片目が、また疼いた。
黒い渦が、瞳の奥で小さく回る。
それは、ひなの口元で巻いた黒とよく似ていた。紗希は断定しない。ただ、似ている、と思った。口を塞ぐものと、目の奥で疼くもの。場所も役割も違う。けれど、同じ種類の何かが、そこにある。
「……違う」
志藤は、片目を押さえかけた。
だが、やはり手はICレコーダーから離れない。彼は壊れた機械を抱えたまま、顔だけを歪めた。
「違う。これは必要な処置だった。ひなが完成するために必要な――」
「必要な処置」
紗希は、その言葉を拾った。
「それも、誰かに教わった言葉ですか?」
白い展示室が、再び静かになる。
志藤の呼吸だけが、目立って聞こえた。浅い。乱れている。けれど、その乱れすら、壁の肖像画たちは飲み込もうとするように、口をわずかに開いている。
紗希は続けた。
「その子の口を塞いだのは、先生ですか?」
志藤は答えない。
「それとも」
紗希は、“ひな”の口元を見る。
黒い渦はもう見えない。だが、そこに何かがあることだけは、目が覚えている。
「先生に、その子の“使い方”を教えた人ですか?」
志藤の片目が、大きく疼いた。
「っ……!」
声にならない呻きが漏れる。
志藤は片膝をつきかけた。ICレコーダーを抱えたまま、黒い床へ手をつく。床の保存膜がゆるく波打ち、壊れた機械の破片が小さく震えた。
その奥から、ノイズが漏れる。
録音された声ではない。
記録の底に沈んでいた何かが、無理やり浮かび上がろうとする音だった。
「違う……」
志藤は言う。
だが、その声にはもう誰へ向けた否定なのか分からない曖昧さがあった。紗希に対してなのか。“ひな”に対してなのか。自分の片目の奥で開きかけている記憶に対してなのか。
「違う。私は、ただ……私は、雛を……」
白い展示室が、薄く揺れる。
中央の病室の絵に描かれた白が、ほんのわずかに別の白へ重なった。
病室。
進路指導室。
鏡。
黒い染み。
そして、誰かの声。
志藤の視線が虚ろになる。
「彼は……」
その言葉が、また漏れた。
今度は前よりはっきりしていた。
「彼は、私を理解してくれた」
紗希は黙っている。
恭介も口を挟まない。片目の違和感が強まっているのか、目元を押さえたまま眉間に皺を寄せている。けれど今は、志藤の言葉の方が先だった。
「誰も分からなかった。雛を失った私の痛みを、誰も分からなかった。あの息が、あの口元が、あの瞬間が、どれほど大事だったか。誰も」
志藤の声に、また熱が戻っていく。
それは誰かに、自分の欲望を肯定された記憶へとすがる熱だった。
「だが、彼は違った。彼は言った。失われたものは、ただ失われるだけではないと。恐怖は残る。声は残る。口は残る。欠けた記録は、補えると」
壁の肖像画たちが、薄くざわめいた。
口だけを残された顔たちが、志藤の言葉に反応しているのか、それともその言葉そのものを拒んでいるのかは分からない。
志藤は聞いていない。
「口を集めれば、形は近づく。声を与えれば、より正確になる。息を繋げば、失われた瞬間は再現できる。彼は、そう言った」
紗希は、ゆっくり息を吸った。
やっと、輪郭が見えてきた。
志藤の狂気は、最初からこの形だったわけではない。喪失と執着と飢えがあった。そこへ、誰かが言葉を与えた。
保存。
復元。
修復。
綺麗な額縁のような言葉を。
「正しい名前をくれたんじゃなくて」
紗希は、静かに言った。
「都合のいい言葉を被せただけじゃないですか」
志藤の顔が、歪んだ。
「黙れ」
「先生が見たくなかったものに、綺麗な名前をつけただけです」
「黙れ」
「最後の息をもう一度聞きたかったことを、“娘を残す”と言い換えた。口を奪うことを、“欠けた記録の修復”と言い換えた。その子に命令することを、“共生関係”と言い換えた」
「黙れ!」
志藤の怒号が、白い展示室に響いた。
だが、怒号の底が震えている。
紗希の言葉に怒っているのではない。そこへ触れられることで、奥に沈んでいた記憶が揺れているのだ。
彼。
その人物の輪郭が、志藤の中で少しずつ戻ってくる。
穏やかな声。
肩に置かれた手。
鏡の前で見せられた、黒い染み。
自分の片目の奥へ沈んでいく、渦のような痛み。
そして、微笑む口元。
「彼は……」
志藤は、呟いた。
「彼は、私を選んだ」
その言葉を口にした瞬間、志藤の顔にわずかな血色が戻った。
選ばれた。
その言葉は、彼にとって最後の額縁だった。
利用されたのではない。導かれたのだ。騙されたのではない。選ばれたのだ。自分の執着を見抜かれ、利用されたのではなく、理解され、認められたのだ。
そう思わなければ、立っていられない。
「そうだ。私は選ばれていた。彼は、私に見る目を与えた。声を保存する方法を、恐怖を記録する方法を、ひなを完成させる方法を」
志藤の片目が、黒く濁る。
回る。
開きかけている。
紗希は、その目を見た。
レンの渦眼とは違う。
志藤のそれは、生まれつきそこにあったものではない。眼そのものというより、眼の奥に異物だけを埋め込まれたように見える。自然な発現ではない。後から差し込まれた杭が、いま封を破って顔を出そうとしている。
「では、その“彼”とは」
紗希は問う。
声は静かだった。
「その人の名前は、何ですか」
志藤の唇が震える。
名前。
その言葉が、彼の中のどこかを叩いた。
白い病室。進路指導室。鏡。黒い染み。穏やかな声。肩に置かれた手。目の奥へ沈む渦。保存。復元。修復。選ばれた。友人。理解者。
それらの欠片が、ばらばらに浮かび上がり、ひとつの名前へ向かって集まり始める。
けれど、途中で何かが邪魔をする。
黒く塗り潰す。
思い出そうとするたび、そこだけが霞む。
「彼は……」
志藤は、額に汗を浮かべていた。
「彼は、確か……」
壊れたICレコーダーが、ざり、とノイズを吐く。
壁の肖像画たちが、息を潜める。
“ひな”が、自分の口元を押さえる。
恭介の片目が、静かに疼いた。
まだ、彼は何も言わない。
ただ、その名前が出るより前に、目の奥で何かが身構えた。
「……ミカゲ」
志藤の口から、その名が漏れた。
白い展示室に、名前が落ちる。
落ちた瞬間、空気が変わった。
志藤は、ようやく息を吸った。
それは答えに辿り着いた人間の呼吸ではなかった。檻の名前を、いまさら思い出した獣の呼吸だった。
「そうだ」
志藤の顔に、歪んだ笑みが戻る。
「ミカゲだ」
その横で、恭介の片目が静かに疼いた。




