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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第41話 あなたが作らされていたのは

 その一言が落ちたあと、白い展示室はしばらく息を止めたように静まり返った。

 壁一面の肖像画たちは、目元を黒く塗り潰されたまま、口だけを薄く開いている。

 さっきまで白い壁の奥から漏れていた細い呼吸音も、今は遠い。完全に消えたわけではない。

 床の下、額縁の裏、絵具の奥。そこに沈んだまま、志藤の反応を待っているようだった。


 志藤は、紗希を見ていた。

 いや、見ているように見えただけかもしれない。

 彼の目は、紗希の顔を通り越して、どこか別のものを見ているようだった。

 中央の病室の絵。完成しない口元。壁に並んだ口。壊れたICレコーダー。

 そのどれもが、志藤の中で一つに重なりかけている。


「……違う」


 ようやく、志藤が言った。

 声は低い。さっきまでのような整えられた教師の声ではない。何かを押し潰すために、喉の奥から無理やり絞り出したような声だった。


「違う。私は、聞いていたのではない。雛を悼んでいた。あの子を、失いたくなかっただけだ」


 そう言いながら、志藤の視線は壁の肖像画へ流れた。

 壁の口たちが、微かに息を吐く。

 声になる前の、細い震え。

 志藤の瞳が、ほんの一瞬だけそちらへ吸われる。

 紗希は、それを見た。

 志藤はすぐに顔を戻した。まるで自分の視線すら認めたくないように、壊れたICレコーダーを胸元へ抱え直す。


「父親として、当然のことだ。失われたものを残したい。忘れたくない。欠けたものを、正しい形へ戻したい。そこに何の罪がある」


「罪の話は、まだしていません」


 紗希は静かに言った。

 志藤の顔が歪む。


「私は、先生が何をしたのかを見ています。何を言ったのかも、聞いています。でも、今気になっているのはそこじゃありません」


「何……?」


「先生は、ずいぶん詳しいんですね」


 志藤が眉を寄せた。

 紗希は、中央の病室の絵から視線を外さない。

 白いベッドに沈む少女。異様なほど精密に残された病室の細部。定まらない口元。そこへ足そうとされた、他人の口と声。


「保存方法、というか……仕様については、ずいぶん詳しいんですね」


 志藤の指が、ICレコーダーの破片を握り直した。

 それだけで、掌から血が滲む。

 だが志藤は、それにも気づいていないようだった。


「当然だ。私は記録者だ。欠けた記録を補い、正しい形へ戻そうとしていただけだ」


「その“正しい形”を、どうして知っているんですか?」


 志藤の口が止まる。

 紗希は、そこで少しだけ息を整えた。

 喋り続けるたびに、喉の奥がざらつく。左腕は重く、痛みも熱もある。

 普通なら立っているだけで精一杯のはずだった。

 けれど、目だけは動いた。

 志藤の手。片目。ICレコーダー。中央の絵。ひなの口元。

 その全部を、逃がさないように見ていた。


「ところで、それ」


 紗希は続けた。


「フィアー能力、って呼ぶらしいです」


 志藤の片目が、わずかに動いた。

 恭介も、少しだけ顔を上げる。


「発現するとき、渦眼と呼ばれる瞳が渦を巻く。そういうものを扱う人が、そう言っていました」


 レンの言葉を、紗希は正確には思い出していない。けれど、要点は覚えている。

 恐怖が外へ出て固まるもの。

 恐怖が内側に残り、個人の持ち物になるもの。

 外に出た傷と、内側に残った傷。

 あの時は、ただ知識として聞いただけだった。だが今、志藤という男の目の奥と、この白い美術館に並ぶ口を見ていると、その言葉はただの説明ではなく、目の前の現象へ輪郭を与えるものに変わっていた。


 志藤の力は、ただの怪奇現象ではない。

 志藤自身の内側に根を張ったものだ。


「そんな存在、私は初めて聞きました」


 紗希は、少しだけ恭介の方を見た。


「普通に生活していれば、知るはずがない。……いえ、普通に生活していない私や先輩にも、分からなかったことです」


「俺を変な枠に入れんな」


 恭介が、鬱陶しそうに言った。

 紗希はすぐに返す。


「事実なので」


「お前の普通じゃない枠に入れられるの、だいぶ不服なんだが」


「安心してください。私も先輩と同じ枠に入るのは不本意です」


「テメエ、しれっと何言ってやがる……!」


「まあまあ、今はその話は置いておきましょうよ」


 短いやり取りだった。

 それ以上、恭介は口を挟まない。だが、完全に興味を失ったわけでもなかった。片目の奥が気に食わないのか、彼はまた軽く目元を擦った。

 白い部分が、さっきよりわずかに血走っている。

 本人は気づいていない。

 あるいは、気づいていても無視している。

 紗希はそれを一瞬だけ拾い、すぐに志藤へ戻った。


「さて」


 白い展示室に、彼女の声が落ちる。


「では、なぜ先生は、そんな“保存方法”を理解できたんですか?」


 志藤は答えない。

 壁の肖像画たちも、息を潜めていた。口だけを残された顔たちは、声を出すでもなく、閉じるでもなく、ただ薄く開いたまま志藤の次の言葉を待っている。

 紗希は、少しだけ首を傾けた。


「……誰に、聞いたんでしょうか?」


 その瞬間、志藤の片目が疼いた。

 見ただけで分かるほどだった。顔がひきつり、片手が反射的に目元へ伸びかける。だが、ICレコーダーを抱える手を離せず、その動きは中途半端に止まった。


「誰に……?」


 志藤は、紗希の言葉を繰り返した。


「誰に、などと。そんなものは決まっている。私は、私の研究で――」


 そこで、声が途切れる。

 研究。

 その言葉が、どこかで引っかかったのだろう。

 志藤の唇が、動いた。


「私は……」


 違う。

 そう言いかけたように見えた。


「私は、自分で……」


 壊れたICレコーダーが、小さくノイズを吐く。

 壁の肖像画たちが、さらに深く息を潜める。

 志藤の片目の奥で、黒いものがゆっくり回った。

 渦。

 そう呼ぶしかない動きが、瞳の奥で濁っている。レンの眼に宿っていた青白い渦とは違う。もっと歪で、後からねじ込まれた杭のような異物感がある。

 志藤自身も、その違和感に気づいているのかもしれない。

 だが、認めない。

 認めれば、自分の保存も、記録も、父親としての願いも、自分だけのものではなくなってしまう。


「彼が……」


 志藤の口から、知らない声のように言葉が漏れた。

 紗希の目が細くなる。


「彼?」


「違う」


 志藤は、即座に首を振った。

 ぎこちない否定を示す仕草。


「違う。私は、誰にも教わってなどいない。私は、自分で見つけた。私が、雛を残すために、正しい方法へ辿り着いたんだ」


 けれど、その言葉に力はなかった。

 志藤は壊れたICレコーダーを抱え込む。まるで、それさえ手放さなければ自分の言葉を守れるとでもいうように。

 紗希は、すぐには追わなかった。

 彼。

 その一語だけが、白い展示室に残っている。

 だが、紗希の視線は、もう一つの違和感へ移っていた。

 中央の肖像画の前。

 白い少女の輪郭が、声もなく立っていた。


 “ひな”。


 そう呼ばれているものは、黒い床の上でほとんど動かない。けれど、完全に止まっているわけでもなかった。

 紗希が志藤の言葉をほどいていくたび、白い指先がわずかに震える。口元が動く。何かを言おうとして、けれど、そのたびに声にならない息だけがこぼれる。

 紗希は、その姿を見ていた。

 志藤の口から漏れた「彼」という言葉。

 片目の奥で濁った、黒い渦。

 誰かに教わったはずの保存方法。

 それらは確かに重要だった。

 けれど、今、紗希の前にはもう一つの違和感がある。


「先生」


 紗希は、白い少女を見たまま言った。


「そもそも、その“ひな”という怪異は、いつ、どこから先生のそばに存在するようになったんですか?」


 志藤の表情が、わずかに空白になった。


「……何?」


「先生は、“ひな”さんを完成させようとしていた。足りない口を集めて、声を与えて、雛さんに近づけようとしていた」


 紗希は中央の肖像画を見上げる。

 黒い表面の下から現れた病室の絵。白いベッドに沈む少女。定まらない口元。

 そして、その手前に立つ、白い輪郭の怪異。


「でも、その子は最初、どこから来たんですか?」


「それは……」


 志藤は言いかけた。

 すぐには続かない。

 彼は壊れたICレコーダーを抱き、視線を壁へ、床へ、中央の肖像画へと走らせる。まるで、この美術館のどこかに答えが貼りつけられているはずだと探しているようだった。


「鏡の前で……いや」


 志藤の声が揺れる。


「あれは、病室の……違う。私は、雛を……ひなを……」


 言葉が混ざった。

 雛。

 ひな。

 娘の名。

 怪異の名。

 志藤が呼び、命令し、役を被せた名前。

 その境界が、彼の中で曖昧になっている。

 紗希は、それを見逃さなかった。

 志藤は、“ひな”の扱い方を知っている。命じ方も、口を与える方法も、声を再生させる方法も知っている。だが、その子が最初に何だったのかについては、答えられない。

 そこだけが抜けている。

 あるいは、抜かれている。

 紗希の中に、レンの言葉がよぎった。

 怪異は、恐怖が外に出て固まったもの。

 フィアー能力は、その逆に近い。

 外に出た傷か、内側に残った傷か。

 あれは専門職の見立てだった。紗希自身が何かを断定できるほど、ブラックベインや怪異の仕組みを知っているわけではない。けれど、ここまで見たものを並べるなら、まったくの当てずっぽうでもない。


「専門職のレンさんの意見ですが」


 紗希は、慎重に言葉を選んだ。


「怪異は、“外に出た傷”に近いそうです。恐怖や絶望が人の外へ出て、ブラックベインに沈む。それが何かの拍子に、形を持つことがある、と」


「だいたい合ってんじゃねぇの」


 横から、恭介が低く言った。

 紗希が目だけを向ける。

 恭介は片目を鬱陶しそうに擦りながら、壁の肖像画を睨んでいた。相変わらず焦点は合っていない。だが、黒の気配だけは分かるのだろう。彼の鼻先が、何かの臭いを探る獣のようにわずかに動く。


「怪異ってのは、湧く場所が決まってる。黒が濃い場所だ。死に際に恐怖して、絶望して、そういうもんだけが黒に溶ける。んで、また浮いてくりゃ化け物になって出てくる」


 恭介は、ひどく雑に吐き捨てた。


「俺にとっちゃ飯だからな。ブラックベインは鍋みてぇなもんだ。いや、近ぇのは〈灯〉のカウンターか」


「カウンター?」


「座ってりゃ、そのうち勝手に出てくる。飯も、飲み物も、怪異もな」


 紗希は小さく息を吐いた。


「……その例え、うちの営業妨害ですよ」


「事実だろ」


「否定しにくいのが嫌ですね」


 短い応酬で、ほんの一瞬だけ〈灯〉の空気が混じった。

 けれど、白い展示室はすぐにその軽さを飲み込んでいく。壁の肖像画たちは、目元を黒く塗り潰されたまま、口だけで薄く息をしている。中央の病室の絵の前では、“ひな”が声もなく立っている。

 紗希は志藤へ視線を戻した。


「つまり、その“ひな”さんは、先生が思っているほど遠い偽物ではないのかもしれません」


「偽物……?」


 志藤の顔が硬くなる。


「雛さん本人ではない。けれど、ただのまがいものでもない」


 紗希は、白い少女を見る。


「雛さんの最期に残った恐怖と、声にならなかった息。口元の震え。そういうものから生まれた存在だとしたら」


 黒い床の上で、ひなの指先が小さく動いた。

 その動きは、肯定にも否定にも見えない。ただ、自分について語られている言葉を聞き取ろうとしているようだった。


「先生が見るべきだったものは、最初からそこにいたんじゃないですか?」


「違う」


 志藤は即座に否定した。

 あまりにも早い否定だった。


「違う。そんなものは雛ではない。似ているだけの、壊れた残り滓だ。まがいものだ」


 まがいもの。

 その言葉が、白い展示室の中に落ちた。

 ひなの白い輪郭が、微かに揺れる。

 志藤はそれに気づかない。あるいは、気づいていても見ないふりをした。


「だから、私が完成させる必要があった。足りないものを与え、欠けた部分を補い、正しい形へ戻す必要があった。あれは、そのままでは雛ではない。私が、私が正しく――」


「まがいものだから」


 紗希は、その言葉を拾った。


「先生が完成させる必要があった」


「そうだ」


 志藤は、縋るように頷いた。


「そうだ。私が、あれを雛にしてやる必要があった」


 紗希は中央の肖像画を見上げる。

 白い病室。眠る少女。未完成の口元。

 志藤が「ひな」と名付けた白い怪異が、もし本当に雛の死に近いところから生まれたものだとしたら。

 たとえ本人ではなくても、少なくとも、志藤が思っているほど遠いものではないとしたら。


 では、この中央の肖像画は何なのか。


「もし、その子が最初から雛さんにかなり近いものだったとしたら」


 紗希は静かに言った。


「先生が中央の肖像に作ろうとしていたものは、何なんですか?」


 志藤の口が止まる。

 白い展示室が、また静かになる。

 壁の肖像画たちは、今度は息すら潜めているようだった。恭介が壊した額縁の破片が、黒い床の上でゆっくり沈んでいく。その音もしない。


「先生は、雛さんを作っていたつもりだった」


 紗希は続ける。


「でも、本当にそうなんでしょうか」


 志藤の片目が、また疼いた。

 顔が小さく引きつる。彼は壊れたICレコーダーを胸元へ押しつけるように抱え込んだ。


「違う」


 志藤は低く言った。


「私は、雛を……」


「その子が、雛さんの死から生まれたものなら。先生が“完成させよう”としていた中央の肖像は、雛さんそのものではありませんよね」


 紗希の声は強くない。

 けれど、志藤の逃げ道を一つずつ塞いでいく。


「先生」


 紗希は、問いを置いた。


「あなたは、何を作らされていたんですか?」


 作らされていた。

 その言葉に、志藤の表情が変わった。

 怒りではない。恐怖でもない。もっと深い、認めたくない場所へ針を刺された顔だった。


「違う」


 彼は反射的に言う。


「私は、誰かに作らされていたわけではない。私は、私の意思で――」


「では、誰に聞いたんですか」


 紗希は、先ほどの問いへ戻した。


「保存の仕方を。補い方を。口を集めれば正確になる、声を与えれば形が近づく、欠けた記録は修復できる。そういう考え方を」


 志藤の唇が震える。


「誰に、聞いたんですか」


 今度は、志藤はすぐに否定できなかった。

 片目の奥で、黒い渦が小さく回る。

 しかし、まだ開ききらない。名前までは出ない。出そうになるたび、記憶のどこかが黒く塗り潰されるように、志藤の口は不自然に止まる。


「……知らない」


 志藤は、掠れた声で言った。


「私は、知らない。誰でもない。これは、私の――」


 その言葉を守るように、志藤はICレコーダーを抱き締める。

 そして、ひなを見た。


「私は、これに餌を与えていた」


 紗希の目が、わずかに細くなる。

 これ。

 娘だと呼んでいたものに、志藤は今、そう言った。


「口を。声を。息を」


 志藤は続ける。


「これが欲しがるものを与え、その代わりに、これが私のために働く。利害の一致だ。いわば、共生関係だったのだ」


「共生」


 紗希は、その言葉を小さく繰り返した。


「先生には、そう見えていたんですね」


「そうだ」


 志藤は、必死に頷く。


「私は利用していただけではない。与えていた。これが欲しがるものを、私が与えていたのだ。だから従った。だから働いた。だから――」


 ひなの口元が、かすかに動いた。

 志藤の言葉に応えようとしたのか。否定しようとしたのか。それとも、もっと別の何かを伝えようとしたのか。

 分からない。

 ただ、白い唇が少し開き、喉が震えた。

 だが、声は出なかった。

 その代わり、口の奥で黒いものが小さく巻いた。

 渦、のように見えた。

 声になろうとしたものを、外へ出る前に内側へ引き戻すもの。喉から口へ上がってきた何かを、口元で絡め取り、沈めてしまうもの。

 他人の声は出せる。

 保存された口は再生できる。

 けれど、ひな自身の声だけが、出ない。

 紗希は、その黒い動きを見た。

 ほんの一瞬。

 それでも、十分だった。


「先生」


 紗希は言った。

 志藤が警戒するようにこちらを見る。


「本当に、その子は口を欲しがっていたんですか?」


 白い展示室の壁が、音もなく沈黙する。

 ひなの白い輪郭が、小さく震える。


「先生は、口を足りないものとして扱っていた。だから、他人の口を集めた。声を集めた。足りないものを補えば、その子は完成すると思っていた」


 紗希は、ひなの口元から目を逸らさない。


「でも、本当に足りなかったんでしょうか」


「何を……」


「まるで」


 紗希は、ゆっくりと言った。


「最初から、生まれ落ちたその時から。口だけを作られていなかったように見えます」


 志藤の顔から、血の気が引いた。

 彼は反射的に、ひなの口元を見る。

 見る必要のないものを見るように。

 あるいは、ずっと見ないようにしていたものを、初めて見てしまったように。


「先生」


 紗希は、問いを置く。


「本当に、その子は口を欲しがっていたんですか?」


 壁の肖像画たちが、息を潜める。

 恭介も黙っている。

 ひなの白い指が、自分の口元へ触れた。


「それとも――」


 紗希は、ひなの口の奥で巻く黒い渦を見た。


「口を塞がれていたんですか?」

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