表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
43/69

第40話 暴き、追い詰め、嘲う紗希

「この子の“何を”、そんなに保存したかったんですか?」


 紗希の問いは、白い展示室の中央に落ちた。


 刃物のような鋭さはなかった。

 むしろ、そっと置かれた指先のような問いだった。


 けれど、その指先が触れた場所だけが、志藤にとって最も腐っている場所だった。


 中央の肖像画。


 黒い表面の下から現れた病室の絵は、まだ完全には剥き出しになっていない。だが、白いベッドに沈んだ少女の姿と、異様なほど描き込まれた病室の細部、そして何度描き直しても定まらない口元だけは、もう隠しようがなかった。


 志藤は黙っていた。


 壊れたICレコーダーの破片を握る手に、少しずつ力が戻っていく。破片が掌に食い込み、血がにじむ。それでも彼は、痛みに顔を歪めなかった。


 代わりに、笑おうとした。


「全部だ」


 その声は、最初だけ落ち着いていた。


「娘のすべてを残したいと思うのは、父親なら当然のことだろう。顔も、声も、息も、存在も、何もかも。失われていいものなど、一つもない」


 それは、いかにも正しい言葉だった。


 悲しみに耐える父親の言葉としてなら、きっと誰かは頷いたかもしれない。失われたものを残したい。消えていくものを忘れたくない。その願いだけを切り取れば、そこにあるのはただの喪失で、ただの愛情のようにも見える。


 けれど、紗希は頷かなかった。


 彼女はただ、中央の絵を見ていた。


 少女の髪。頬。指先。シーツの皺。点滴のチューブ。椅子の脚に残った小さな傷。


 そのすべてが、気味が悪いほど正確に描き込まれている。


 だからこそ、口元だけが歪んで見えた。


「では、どうして」


 紗希は静かに尋ねる。


「口元だけ、完成していないんですか?」


 志藤の頬が、わずかに引きつった。


「完成していないわけではない」


「では、何ですか」


「途中だ」


 志藤は、すぐに答えた。


「記録とは、時間をかけて完成させるものだ。一度で正しく残せるものばかりではない。私は、あの瞬間を正しく保存しようとしていただけだ」


「正しく」


 紗希は、その言葉を繰り返した。


 壁に並んだ肖像画たちが、小さくざわめく。目元を黒く塗り潰された顔たちは、口だけを薄く開いたまま、志藤の言葉に反応するように、かすれた息を漏らしていた。


 正しい。

 保存。

 記録。


 この白い美術館では、それらの言葉がすべて額縁に入れられている。綺麗な言葉のように飾られている。けれど、額縁の奥で動いているのは、口だった。喉だった。息だった。誰かが恐怖の中で奪われた、声になる前の震えだった。


「他の人の口を使って?」


 志藤の視線が、紗希へ刺さる。


「他の人の声を、継ぎ足して?」


「継ぎ足すなどという下品な言い方をするな」


 志藤の声が荒くなる。


「足りないものを補っていただけだ。欠けた記録を修復するのは当然だろう。不完全なまま残すことの方が、よほど冒涜だ」


 欠けた記録。


 その言葉だけが、白い展示室の中で妙に硬く響いた。


 恭介が、ほんの少し眉を寄せる。


 意味を追ったわけではないのだろう。紗希にも分かった。彼はこういう会話の細かい理屈を、好んで拾う男ではない。


 それでも、片目の奥が疼いたように、恭介は鬱陶しそうに目元を擦った。


 紗希は一瞬だけそれを見る。


 彼の片目の白い部分が、薄く血走っていた。


 だが、本人は気づいていない。気づいていたとしても、今それを言葉にする気はないらしい。恭介はただ、志藤と中央の肖像画を、焦点の合わない目で睨んでいる。


 紗希はすぐに志藤へ視線を戻した。


 今は、そこまで拾っている余裕がない。


「欠けていたのは、雛さんですか」


 紗希は問う。


「それとも、雛さんの最後の音ですか」


 志藤の表情が、ほんの一瞬だけ抜けた。


 父親の顔でもない。教師の顔でもない。保存者を気取る顔でもない。


 隠していたものの名前を当てられた人間の、むき出しの空白がそこに出た。


 すぐに志藤は笑おうとする。


「何を言っている」


 しかし、その笑みはもう整っていなかった。


「私は、雛を残そうとしただけだ。あの子の姿を、あの子の声を、あの子のすべてを――」


「でも、先生」


 紗希は遮らず、ただ、次の問いを置いた。


「さっきから、先生が反応しているのは“声”と“口元”の話ばかりです」


 志藤の手が震える。


 中央肖像画の前に立つ白い少女――“ひな”と呼ばれているものも、何かを聞き取ろうとするように顔を上げた。


 彼女には自分の声がない。


 だからこそ、ここにある全ての声を聞こうとしているように見えた。


「顔も、髪も、病室も、シーツの皺も、指先も。あれだけ細かく描けているのに、口元だけが定まっていない」


 病室の絵の中で、少女の口元だけが黒く擦れている。


 何度も線を引き、消し、塗り直した跡が、そこだけに集中していた。


「そこだけが、どうしても戻らなかったんですか」


 志藤は答えない。


 代わりに、壁の肖像画たちが一斉に息を吐いた。


 声ではない。

 言葉でもない。


 ただ、細く、かすれた呼吸音だった。誰かが泣く直前のような、何かを言おうとして失敗したような、喉の奥で途切れる音。


 展示室の白い壁が、内側から薄く膨らむ。


 目元を黒く塗り潰された肖像画たちの口が、少しずつ開いていく。歯の隙間から、唇の端から、保存された息が漏れる。意味を持たない呼吸。声になる前に奪われ、額縁の中に押し込められたもの。


 志藤の肩が、小さく震えた。


「……違う」


 彼は低く呟く。


「違う。私は、雛を残したかった。私は、父親として――」


「父親として」


 紗希はその言葉を拾った。


「最後の声を残したかったんですか。……いいえ」


 志藤の目が、見開かれる。


 紗希は、壁の肖像画たちを見る。


 そこから漏れているのは、声ではなかった。

 言葉でもなかった。


 喉の奥で震えて、音になる前に消えるもの。


「声にもならなかった、最後の息を」


「違う!」


 志藤が叫ぶ。


 しかし、その叫びは怒号というより、何かを塗り潰すための音だった。中央肖像画の黒い口元と同じように、見えかけたものへ慌てて黒を被せる声だった。


「違う、違う、違う! 私は雛を愛していた。あの子を失った。だから残したかった。それだけだ。それだけの、当たり前のことだ!」


「では」


 紗希は問いを重ねる。


「なぜ、一番悔しそうにするのは、助けられなかった話ではなく、録れなかった話なんですか」


 志藤の肩が跳ねた。


 恭介が、ほんのわずかに目を細める。会話の細かな理屈までは追っていないかもしれない。けれど、志藤の中から漂い始めたものが不快であることだけは、十分に分かっているようだった。


「録れなかった……?」


 志藤は呟いた。


 その言葉を、自分の口で初めて確かめるように。


「違う。私は、録音など――」


 言いかけて、止まる。


 壊れたICレコーダーを握った手が震えた。


 その機械を、志藤はずっと持っていた。撫でていた。頬に当て、耳元に寄せ、そこから流れる声を聞いていた。


 録音など。


 そう言い切れるはずがなかった。


 壁の肖像画たちが、また息を吐く。


 今度は一つではない。目元を塗り潰された肖像画の口が、少しずつ同じような呼吸を吐き始める。助けを求める声ではない。言葉として記録されたものでもない。志藤が欲しがり、集め、混ぜ合わせてきた、声になる直前の震えだった。


 志藤はそれを聞いていた。


 聞いてしまっていた。


 最初は眉をひそめていたはずなのに、その表情の奥に、陶酔に似たものが滲む。


「……あれは」


 志藤の声が、変わった。


 父親の声でも、教師の声でもなかった。


「あれは、声になる前だった」


 紗希は黙っている。


 恭介も、動かない。


 ひなだけが、中央肖像画の前で小さく震えた。


「呼ぼうとしたのかもしれない。助けを求めたのかもしれない。あるいは、何も言っていなかったのかもしれない」


 志藤は、壊れたICレコーダーを見下ろす。


「だが、確かにあった。息が。口元の震えが。声になり損ねた、最後の形が」


 壁の肖像画たちが、いっせいに薄く息を吐く。


 展示室の白い壁が、内側から膨らむように歪んだ。額縁の線がわずかに溶け、肖像画の顔が壁から浮き出しかけている。美術館だったはずの空間が、少しずつ、顔の群れへと近づいていく。


「なのに」


 志藤の声が、震えた。


「録れていなかった」


 その一言だけは、異様に澄んでいた。


「なぜ、あの時、私は録音していなかった。なぜ、あの息だけを残せなかった。あれだけは、もう一度聞かなければならなかったのに」


 紗希は目を伏せなかった。


 気持ち悪い、と言ってしまうのは簡単だった。

 狂っている、と切り捨てるのも簡単だった。


 けれど、ここで必要なのは感想ではない。


 記録だ。


 この男が何を見て、何を見なかったのか。何を失い、何を取り戻そうとしたのか。その形を、最後まで言葉にすることだった。


「だから」


 紗希は言う。


「口を集めたんですか。声にならなかった息を、もう一度作り直すために」


 志藤が、ゆっくり顔を上げる。


「違う」


 志藤は否定した。


 だが、もうその言葉に力はなかった。


 壁の肖像画たちが、ざわめいた。


 それは声ではなく、呼吸の海だった。無数の口が、同じように息を吸い、同じように吐き、同じように何かを言い損ねる。


 ひなが、自分の口元に触れた。


 そこには、自分の声がない。


 あるのは、他人から継ぎ接ぎされた息と、押しつけられた名前だけだった。


 紗希は、中央の病室の絵を見る。


 白いシーツ。

 目を閉じた雛。

 完成しない口元。


 そして、志藤を見る。


「先生」


 志藤は答えない。


「あなたが見ていたのは、雛さんではなく」


 壁一面の肖像画が、一斉に志藤を見る。


 目元を塗り潰されているはずなのに、見られていると分かる。


「あの時の、口元だけだったんですね」


 志藤は、何も言えなかった。


 代わりに、彼の周囲の肖像画たちが、また息を吐いた。


 その時だった。


 志藤の顔が、ほんのわずかに動いた。


 悲しみに耐える顔ではない。

 怒りに歪む顔でもない。

 恐怖に怯える顔ですらない。


 ほんの一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 彼は耳を澄ませていた。


 壁の奥から漏れる、声になる前の呼吸。


 喉の奥で震えて、意味になる前に途切れる音。


 それを、聞いていた。


 紗希は、それを見逃さなかった。


「……あは」


 小さな笑いが漏れた。


 明るい笑いではなかった。

 面白いから笑ったのでもない。


 ただ、観測してしまったものが、あまりにも明確だった。


 志藤が、紗希を見る。


「何がおかしい」


 紗希は、首を少しだけ傾けた。


 血の気の引いた顔で。

 柔らかく笑ったまま。


「先生は、悲しんでるんじゃない」


 志藤の目が、揺れる。


 白い展示室の壁から、また細い息が漏れた。


 志藤の瞳が、わずかにそちらへ吸われる。


「聞いてる、……いえ。聞き続けているんですね」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ