第40話 暴き、追い詰め、嘲う紗希
「この子の“何を”、そんなに保存したかったんですか?」
紗希の問いは、白い展示室の中央に落ちた。
刃物のような鋭さはなかった。
むしろ、そっと置かれた指先のような問いだった。
けれど、その指先が触れた場所だけが、志藤にとって最も腐っている場所だった。
中央の肖像画。
黒い表面の下から現れた病室の絵は、まだ完全には剥き出しになっていない。だが、白いベッドに沈んだ少女の姿と、異様なほど描き込まれた病室の細部、そして何度描き直しても定まらない口元だけは、もう隠しようがなかった。
志藤は黙っていた。
壊れたICレコーダーの破片を握る手に、少しずつ力が戻っていく。破片が掌に食い込み、血がにじむ。それでも彼は、痛みに顔を歪めなかった。
代わりに、笑おうとした。
「全部だ」
その声は、最初だけ落ち着いていた。
「娘のすべてを残したいと思うのは、父親なら当然のことだろう。顔も、声も、息も、存在も、何もかも。失われていいものなど、一つもない」
それは、いかにも正しい言葉だった。
悲しみに耐える父親の言葉としてなら、きっと誰かは頷いたかもしれない。失われたものを残したい。消えていくものを忘れたくない。その願いだけを切り取れば、そこにあるのはただの喪失で、ただの愛情のようにも見える。
けれど、紗希は頷かなかった。
彼女はただ、中央の絵を見ていた。
少女の髪。頬。指先。シーツの皺。点滴のチューブ。椅子の脚に残った小さな傷。
そのすべてが、気味が悪いほど正確に描き込まれている。
だからこそ、口元だけが歪んで見えた。
「では、どうして」
紗希は静かに尋ねる。
「口元だけ、完成していないんですか?」
志藤の頬が、わずかに引きつった。
「完成していないわけではない」
「では、何ですか」
「途中だ」
志藤は、すぐに答えた。
「記録とは、時間をかけて完成させるものだ。一度で正しく残せるものばかりではない。私は、あの瞬間を正しく保存しようとしていただけだ」
「正しく」
紗希は、その言葉を繰り返した。
壁に並んだ肖像画たちが、小さくざわめく。目元を黒く塗り潰された顔たちは、口だけを薄く開いたまま、志藤の言葉に反応するように、かすれた息を漏らしていた。
正しい。
保存。
記録。
この白い美術館では、それらの言葉がすべて額縁に入れられている。綺麗な言葉のように飾られている。けれど、額縁の奥で動いているのは、口だった。喉だった。息だった。誰かが恐怖の中で奪われた、声になる前の震えだった。
「他の人の口を使って?」
志藤の視線が、紗希へ刺さる。
「他の人の声を、継ぎ足して?」
「継ぎ足すなどという下品な言い方をするな」
志藤の声が荒くなる。
「足りないものを補っていただけだ。欠けた記録を修復するのは当然だろう。不完全なまま残すことの方が、よほど冒涜だ」
欠けた記録。
その言葉だけが、白い展示室の中で妙に硬く響いた。
恭介が、ほんの少し眉を寄せる。
意味を追ったわけではないのだろう。紗希にも分かった。彼はこういう会話の細かい理屈を、好んで拾う男ではない。
それでも、片目の奥が疼いたように、恭介は鬱陶しそうに目元を擦った。
紗希は一瞬だけそれを見る。
彼の片目の白い部分が、薄く血走っていた。
だが、本人は気づいていない。気づいていたとしても、今それを言葉にする気はないらしい。恭介はただ、志藤と中央の肖像画を、焦点の合わない目で睨んでいる。
紗希はすぐに志藤へ視線を戻した。
今は、そこまで拾っている余裕がない。
「欠けていたのは、雛さんですか」
紗希は問う。
「それとも、雛さんの最後の音ですか」
志藤の表情が、ほんの一瞬だけ抜けた。
父親の顔でもない。教師の顔でもない。保存者を気取る顔でもない。
隠していたものの名前を当てられた人間の、むき出しの空白がそこに出た。
すぐに志藤は笑おうとする。
「何を言っている」
しかし、その笑みはもう整っていなかった。
「私は、雛を残そうとしただけだ。あの子の姿を、あの子の声を、あの子のすべてを――」
「でも、先生」
紗希は遮らず、ただ、次の問いを置いた。
「さっきから、先生が反応しているのは“声”と“口元”の話ばかりです」
志藤の手が震える。
中央肖像画の前に立つ白い少女――“ひな”と呼ばれているものも、何かを聞き取ろうとするように顔を上げた。
彼女には自分の声がない。
だからこそ、ここにある全ての声を聞こうとしているように見えた。
「顔も、髪も、病室も、シーツの皺も、指先も。あれだけ細かく描けているのに、口元だけが定まっていない」
病室の絵の中で、少女の口元だけが黒く擦れている。
何度も線を引き、消し、塗り直した跡が、そこだけに集中していた。
「そこだけが、どうしても戻らなかったんですか」
志藤は答えない。
代わりに、壁の肖像画たちが一斉に息を吐いた。
声ではない。
言葉でもない。
ただ、細く、かすれた呼吸音だった。誰かが泣く直前のような、何かを言おうとして失敗したような、喉の奥で途切れる音。
展示室の白い壁が、内側から薄く膨らむ。
目元を黒く塗り潰された肖像画たちの口が、少しずつ開いていく。歯の隙間から、唇の端から、保存された息が漏れる。意味を持たない呼吸。声になる前に奪われ、額縁の中に押し込められたもの。
志藤の肩が、小さく震えた。
「……違う」
彼は低く呟く。
「違う。私は、雛を残したかった。私は、父親として――」
「父親として」
紗希はその言葉を拾った。
「最後の声を残したかったんですか。……いいえ」
志藤の目が、見開かれる。
紗希は、壁の肖像画たちを見る。
そこから漏れているのは、声ではなかった。
言葉でもなかった。
喉の奥で震えて、音になる前に消えるもの。
「声にもならなかった、最後の息を」
「違う!」
志藤が叫ぶ。
しかし、その叫びは怒号というより、何かを塗り潰すための音だった。中央肖像画の黒い口元と同じように、見えかけたものへ慌てて黒を被せる声だった。
「違う、違う、違う! 私は雛を愛していた。あの子を失った。だから残したかった。それだけだ。それだけの、当たり前のことだ!」
「では」
紗希は問いを重ねる。
「なぜ、一番悔しそうにするのは、助けられなかった話ではなく、録れなかった話なんですか」
志藤の肩が跳ねた。
恭介が、ほんのわずかに目を細める。会話の細かな理屈までは追っていないかもしれない。けれど、志藤の中から漂い始めたものが不快であることだけは、十分に分かっているようだった。
「録れなかった……?」
志藤は呟いた。
その言葉を、自分の口で初めて確かめるように。
「違う。私は、録音など――」
言いかけて、止まる。
壊れたICレコーダーを握った手が震えた。
その機械を、志藤はずっと持っていた。撫でていた。頬に当て、耳元に寄せ、そこから流れる声を聞いていた。
録音など。
そう言い切れるはずがなかった。
壁の肖像画たちが、また息を吐く。
今度は一つではない。目元を塗り潰された肖像画の口が、少しずつ同じような呼吸を吐き始める。助けを求める声ではない。言葉として記録されたものでもない。志藤が欲しがり、集め、混ぜ合わせてきた、声になる直前の震えだった。
志藤はそれを聞いていた。
聞いてしまっていた。
最初は眉をひそめていたはずなのに、その表情の奥に、陶酔に似たものが滲む。
「……あれは」
志藤の声が、変わった。
父親の声でも、教師の声でもなかった。
「あれは、声になる前だった」
紗希は黙っている。
恭介も、動かない。
ひなだけが、中央肖像画の前で小さく震えた。
「呼ぼうとしたのかもしれない。助けを求めたのかもしれない。あるいは、何も言っていなかったのかもしれない」
志藤は、壊れたICレコーダーを見下ろす。
「だが、確かにあった。息が。口元の震えが。声になり損ねた、最後の形が」
壁の肖像画たちが、いっせいに薄く息を吐く。
展示室の白い壁が、内側から膨らむように歪んだ。額縁の線がわずかに溶け、肖像画の顔が壁から浮き出しかけている。美術館だったはずの空間が、少しずつ、顔の群れへと近づいていく。
「なのに」
志藤の声が、震えた。
「録れていなかった」
その一言だけは、異様に澄んでいた。
「なぜ、あの時、私は録音していなかった。なぜ、あの息だけを残せなかった。あれだけは、もう一度聞かなければならなかったのに」
紗希は目を伏せなかった。
気持ち悪い、と言ってしまうのは簡単だった。
狂っている、と切り捨てるのも簡単だった。
けれど、ここで必要なのは感想ではない。
記録だ。
この男が何を見て、何を見なかったのか。何を失い、何を取り戻そうとしたのか。その形を、最後まで言葉にすることだった。
「だから」
紗希は言う。
「口を集めたんですか。声にならなかった息を、もう一度作り直すために」
志藤が、ゆっくり顔を上げる。
「違う」
志藤は否定した。
だが、もうその言葉に力はなかった。
壁の肖像画たちが、ざわめいた。
それは声ではなく、呼吸の海だった。無数の口が、同じように息を吸い、同じように吐き、同じように何かを言い損ねる。
ひなが、自分の口元に触れた。
そこには、自分の声がない。
あるのは、他人から継ぎ接ぎされた息と、押しつけられた名前だけだった。
紗希は、中央の病室の絵を見る。
白いシーツ。
目を閉じた雛。
完成しない口元。
そして、志藤を見る。
「先生」
志藤は答えない。
「あなたが見ていたのは、雛さんではなく」
壁一面の肖像画が、一斉に志藤を見る。
目元を塗り潰されているはずなのに、見られていると分かる。
「あの時の、口元だけだったんですね」
志藤は、何も言えなかった。
代わりに、彼の周囲の肖像画たちが、また息を吐いた。
その時だった。
志藤の顔が、ほんのわずかに動いた。
悲しみに耐える顔ではない。
怒りに歪む顔でもない。
恐怖に怯える顔ですらない。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ。
彼は耳を澄ませていた。
壁の奥から漏れる、声になる前の呼吸。
喉の奥で震えて、意味になる前に途切れる音。
それを、聞いていた。
紗希は、それを見逃さなかった。
「……あは」
小さな笑いが漏れた。
明るい笑いではなかった。
面白いから笑ったのでもない。
ただ、観測してしまったものが、あまりにも明確だった。
志藤が、紗希を見る。
「何がおかしい」
紗希は、首を少しだけ傾けた。
血の気の引いた顔で。
柔らかく笑ったまま。
「先生は、悲しんでるんじゃない」
志藤の目が、揺れる。
白い展示室の壁から、また細い息が漏れた。
志藤の瞳が、わずかにそちらへ吸われる。
「聞いてる、……いえ。聞き続けているんですね」




