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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第39話 美術館では、お静かに

 落ちる、というより、裏返された。


 進路指導室の床が消えた。壁が反転し、天井と足元の区別が一瞬だけ失われる。机も椅子も、鏡も、黒い膜の向こう側へ薄く引き伸ばされ、どちらが上でどちらが下なのか分からないまま、身体だけが放り出された。


「っ……!」


 最初に床へ叩きつけられたのは、恭介だった。


 黒い膜のような床が、鈍く波打つ。水ではない。だが硬い床でもない。弾力のある保存液の上へ落とされたように、身体の下で黒い面が一度沈み、遅れて押し返してきた。


 恭介は舌打ちしながら、反射的に右手を引いた。


 その手には、紗希の腕が掴まれていた。


 助けた、というには乱暴すぎる。

 引きずった、というには少しだけ結果がよかった。


 紗希は恭介の横に倒れ込む。完全に床へ打ちつけられるよりはましだったが、それでも負傷した腕に響いたのか、喉の奥で小さく息を詰めた。


「……痛……」


「あっ。改めて見ると、すげー血だな!」


「助け方が雑なんですよ、先輩」


「助けてくれてありがとうございます、だろうが」


「もー。……いっつも、こうなんだから」


 紗希は弱く言い返しながら、黒い床に片手をついた。


 顔色は悪い。唇も乾いている。左腕から落ちた血は、袖を赤黒く濡らし、床の黒い膜に触れるたび、そこだけを小さく弾いていた。沈まない。混ざらない。赤は黒の中に保存されず、異物のように表面で滲んでいる。


 それでも、紗希の目は動いていた。


 痛みより先に、周囲を見ている。


 そこは、白い展示室だった。


 ただし、以前に紗希が閉じ込められたときよりも、明らかに荒れている。壁は白いままだが、あちこちに黒い滲みが走っていた。整然と並んでいた肖像画は額縁を歪ませ、何枚かは壁から浮き出しかけている。


 床は黒い保存膜のように揺れている。歩くたびに沈むほどではない。けれど、そこには確かに声が沈んでいる気配があった。足を置けば、誰かの息が下から泡のように浮かびそうな、薄い膜。


 壁一面には、肖像画。


 顔。顔。顔。


 そのどれもが、目元を黒く塗り潰されていた。


 目で追う肖像ではない。

 見返す肖像でもない。


 その代わり、口だけが異様に生々しく描かれている。唇の端、歯の隙間、今にも声を出しそうな半開きの形。そこだけが、紙や絵具ではなく、生きたものを貼りつけたように濡れていた。


「……戻ってきちゃいました」


 紗希が呟いた。


「でも、さっきより荒れてます」


「趣味悪ぃ場所だな」


「それは同意です」


 恭介は立ち上がろうとして、足元の黒い膜に一瞬だけ滑った。


「チッ」


 視界は相変わらず悪いらしい。彼の目は壁を見ているようで、焦点が合っていない。肖像画の細部までは見えていないのだろう。だが、壁一面に並ぶ顔の輪郭と、そこから滲む声の気配だけは感じ取っているようだった。


 少し離れた壁際で、志藤が膝をついていた。


 壊れかけたICレコーダーを、まだ握っている。掌に破片が食い込み、血が滲んでいるのに、手放そうとしない。機械の外装には紗希の血と、黒い膜が絡みついていた。もうただの録音機には見えない。鏡と声と血を繋いだ、壊れた器だった。


 志藤は顔を上げた。


 自分がいる場所を、理解できない顔だった。


「……私は」


 掠れた声が、白い壁に落ちる。


「私は、外側にいるはずだ」


 壁の肖像画たちが、かすかにざわめいた。


『返して』


『口を』


『先生が』


『見ないで』


 声は一つではない。額縁の奥、壁紙の裏、床の膜の下から、ばらばらの息が滲んでくる。


 志藤の肩が震えた。


「黙れ」


 低い声だった。


 だが、声は止まらない。むしろ、白い展示室の奥で薄く折り返されるように、同じ言葉の欠片が広がっていく。


『返して』


『先生が』


『口を』


「黙れと言っている!」


 志藤は立ち上がろうとして、足元をふらつかせた。それでもICレコーダーだけは抱え込むように握りしめる。彼は壁一面の肖像画を見た。見た、というより、見せつけられたものから目を逸らすために、別の言葉を探したようだった。


「いいだろう」


 志藤は無理に口角を上げる。


「なら、ここでいい」


 その笑みは整っていない。頬は引きつり、片目の奥はまだ痛むのか、わずかに歪んでいる。それでも彼は言った。


「ここは私の美術館だ」


 展示室の声が、わずかに遠のく。


 志藤はその沈黙を、自分への承認のように受け取ったのかもしれない。壊れたICレコーダーを胸元へ抱え直し、白い壁に並ぶ肖像画を見渡した。


「私の記録で、私の保存だ」


 紗希は、それを聞いていた。


 志藤は、この場所を自分の美術館だと言った。


 だが、本当にそうなのだろうか。


 この男は、集め方を知っている。保存の仕方も知っている。口を奪い、声をしまい、必要なときに取り出す方法も、おそらく知っている。


 けれど。


 完成したものが何になるのかまでは、知らないのではないか。


 紗希は、ゆっくり息を吸った。


 喉の奥が痛む。声を出すたび、鏡の奥にいた何かが、こちらの声まで拾おうとしているような感覚が残っている。それでも、ここで黙るわけにはいかなかった。


「出たい。……それは、今の私たちも同じことです」


 志藤の視線が、紗希へ向く。


 紗希は、壁に並ぶ肖像画を見た。黒く潰された目元。生々しい口。黒い膜に弾かれる自分の血。志藤が抱えたICレコーダー。


 そして、展示室の中央奥。


 他より大きな額縁が、一枚だけ静かに掛かっている。


「そのためには、この場所の性質を見極めなければ、道理が通りませんよね?」


「何を……」


 志藤が眉をひそめる。


「ここは私の――」


「どうせ何も吐かねぇよ、そこのクソ教師はな」


 恭介が割り込んだ。


 紗希が、ゆっくり横を見る。


 恭介はもう、立っていた。片手で目元を押さえながら、白い壁と黒い床を睨んでいる。見えているわけではない。だが、苛立ちははっきり見えた。


「なら答えは簡単だろうが」


 恭介は、近くに転がっていた展示台を足で押し退けた。


「出口を探す」


 展示台が黒い床を滑り、壁際の額縁にぶつかる。


「邪魔なもんは、壊す」


「……ほら、言わんこっちゃない」


 紗希は、血の気の引いた顔で小さく頭を抱えた。


「大変なことになりますって、言いましたよね」


「言ってねぇ」


「言いました。心の中で」


「知らねぇよ」


 恭介は聞いていなかった。


 彼は志藤の方へ向かおうとした。だが、白い美術館は距離感が狂う。壁の白も、床の黒も、額縁の線も、恭介の視界ではまともな奥行きを持っていないのだろう。彼はまっすぐ歩いたつもりで、横に並んでいた肖像画の列へ肩をぶつけた。


 額縁が軋む。


 恭介は眉を寄せた。


「邪魔なんだよ」


 次の瞬間、肘で額縁を叩き割った。


 乾いた音が、白い展示室に響く。


 肖像画の口が歪んだ。唇の形が潰れ、半開きだった歯の隙間が裂ける。そこから漏れていたかすかな声が、途中で途切れた。


『かえ――』


 声になりかけたものが、消える。


 志藤の顔色が変わった。


「やめろ!」


 恭介は聞かない。


 もう一枚。今度は足で蹴った。額縁が壁から外れ、黒い床へ落ちる。床に触れる直前、肖像画の口だけがぶるりと震えたが、恭介の靴がそれを踏み潰した。


 湿った音がした。


 声は出なかった。


「やめろと言っている!」


 志藤が叫ぶ。


「そこに触るな! それは記録だ!」


「記録?」


 恭介が、志藤の方へ顔を向ける。


「だったら、壊されたくねぇもんを俺の前に並べんな」


「貴様……!」


 志藤はICレコーダーを抱えたまま、恭介と壊された肖像画の間へ出ようとした。


 出ようとして、止まった。


 恭介が一歩動いたからだ。


 視界が不安定で、足取りも荒い。だが、その一歩には迷いがない。志藤は親指の痛みを思い出したのか、反射的に肩を引いた。


 その代わり、彼の目は壊れた肖像画へ向いていた。


 割れた額縁。潰れた口。途切れた声。


 紗希は、その反応を見た。


 志藤が庇ったのは、“ひな”ではなかった。


 壁の肖像だった。

 口だった。

 声だった。

 保存されたものだった。


 娘を失った父親の顔ではない。


 自分の収集物を壊された者の顔だった。


「先生」


 紗希は、静かに言った。


 志藤がこちらを見る。


 紗希は割れた肖像画を指さす。そこでは、口だけが壊れたまま、まだ微かに震えていた。声にはならない。けれど、保存されていた何かが完全に消えたわけではなく、黒い床の下へ沈むように揺れている。


「そもそも」


 紗希は、志藤の腕の中にあるICレコーダーへ視線を移した。


「どうして、そんなに大事そうに抱え込んでるんですか?」


 志藤の表情が固まる。


「どうして、壊された肖像画の方を、そんな顔で見るんですか?」


 白い展示室に、沈黙が落ちた。


 恭介が壊した額縁の破片だけが、黒い床の上でゆっくり沈みかけている。


 紗希は、壁一面の肖像画を見た。


 目元を奪われ、口だけを残された顔たち。

 志藤が記録と呼んだもの。

 保存と呼んだもの。


 そして、中央奥。


 他の肖像よりも大きな額縁がある。


 そこだけが、奇妙に静かだった。


 周囲の肖像画たちが口だけを生々しく残しているのに、その中央だけは逆だった。


 顔は整えられている。

 目元も残されている。

 髪も、頬も、輪郭も、丁寧に描かれている。


 幼い少女の顔だった。


 絵の上部には、拙い文字で「ひな」と書かれている。


 けれど。


 口だけが、真っ黒に塗り潰されていた。


 唇の線も、歯の隙間も、息の出口も、何もない。まるでそこだけを黒い蓋で塞いだように、少女の顔の下半分だけが重く沈んでいる。


 他の肖像画が、口だけを保存されているのなら。


 中央の肖像画は、口だけを隠されている。


 その違いは、あまりにも不自然だった。


「先生」


 紗希が呼ぶ。


 志藤は答えなかった。


 壊れたICレコーダーを胸元に抱えたまま、視線だけをこちらへ向けている。恭介が壊した肖像画の方へ意識が残っているのか、肩がまだ小さく震えていた。


 紗希は中央の額縁を指す。


「中央の肖像だけ、どうして口が隠されているんですか?」


 志藤の表情が、ぴくりと動いた。


 怒りではない。


 怯えでもない。


 もっと反射的なものだった。そこに触れられたくない、と身体の奥が先に反応したような歪み。


「……特別だからだ」


 志藤は、すぐに答えた。


 早すぎる答えだった。


 考えて出した言葉ではない。何度も自分に言い聞かせてきた言葉を、そのまま取り出したような声だった。


「ひなは、あれらとは違う。あれらは、足りないものを補うために集めただけだ」


「必要だった、ということですか」


 紗希が言う。


 志藤の肩が、わずかに跳ねる。


「そうだ。必要だった」


「では」


 紗希は、中央の肖像画を見る。


「中央の肖像は、完成しているんですか?」


「当然だ」


 即答だった。


 けれど、紗希にはそれが答えに聞こえなかった。否定される前に自分を守るための声。壊れかけた額縁の前で、必死に釘を打ち直すような声だった。


 中央の肖像画の前に、白い少女の輪郭が立っている。


 “ひな”。


 いや、そう呼ばれているもの。


 紗希の口元を塞ぎ、志藤の命令に従い、他人の口と声を継ぎ接ぎにして再生していた怪異。彼女は、中央の肖像画を見上げていた。


 その顔に表情はない。


 だが、動かないわけではなかった。


 白い指先が、わずかに震えている。


 自分の名前が書かれた肖像を見ている。自分の姿に似せられた少女の絵を見ている。けれど、それが自分なのか、自分ではないのか、判断できずにいるようだった。


「ひな」


 志藤が低く呼んだ。


 白い少女の輪郭が、びくりと揺れる。


「こちらへ来い」


 声は穏やかに整えられていた。だが、そこに命令の硬さが混じっている。父が娘を呼ぶ声ではない。所有物を棚に戻す声だった。


「それを見る必要はない」


 その一言に、紗希の目が細くなる。


「どうしてですか?」


 志藤が紗希を見る。


「その肖像が、本当に“ひな”さんのものなら」


 紗希は、中央の額縁の前に立つ白い少女を見た。


「“ひな”さんが見てもいいはずですよね」


 展示室が、少しだけ静かになった。


 壁の肖像画たちが、口だけを薄く開いたまま沈黙している。さっきまで漏れていた声も、今は遠い。黒い床の下で息を潜め、中央の額縁を見ているようだった。


 ひなが、一歩動いた。


 志藤の顔色が変わる。


「ひな」


 今度の声には、はっきりと苛立ちが混じった。


「聞こえないのか。こちらへ来い」


 ひなは止まらない。


 白い足元が黒い床に触れる。波紋は広がらない。まるで、彼女だけがこの床に重さを持たないようだった。


 紗希は息を整える。


 喋りすぎて、喉が痛い。左腕も熱を持っている。血は止まりきっていない。それでも目を逸らせなかった。


 ひなが、中央の額縁の前に立つ。


 黒く塗り潰された口元へ、ゆっくり指を伸ばした。


「触るな!」


 志藤の叫びが、白い展示室に跳ね返る。


 それまで恭介へ向いていた苛立ちも、壊された肖像画への怒りも、その一言で全部吹き飛んだようだった。志藤は壊れたICレコーダーを抱えたまま、ほとんど縋るような顔で中央の肖像画を見ている。


「触るな、ひな! お前は見る必要がない! それは、お前には関係ない!」


 関係ない。


 その言葉に、ひなの指が止まった。


 黒く塗り潰された口元のすぐ前で、白い指先が震えている。


 紗希は静かに言う。


「関係ないんですか」


 志藤は答えない。


「そこに“ひな”と書かれているのに?」


「黙れ」


「その子の絵だと言ったのに?」


「黙れと言っている!」


 志藤が一歩踏み出そうとする。


 だが、恭介がわずかに首を動かした。


 それだけで、志藤は足を止めた。


 恭介は何も言わない。視界もまだ不安定なままだろう。それでも、近づけば殴る。そういう単純な圧だけが、その場にあった。


 志藤は歯を食いしばる。


 その間に、ひなの指が動いた。


 白い指先が、黒く塗り潰された口元に触れる。


 乾いた音がした。


 絵具が割れる音だった。


 長い時間、何度も塗り重ねられた黒が、薄い皮のように裂ける。口元から頬へ、頬から顎へ、細い亀裂が走った。


 黒い欠片が、一枚、額縁の下へ落ちる。


 その下から、別の白が覗いた。


 美術館の白ではない。


 もっと薄く、もっと冷たく、清潔で、息苦しい白。


 紗希は一瞬、呼吸を忘れた。


 黒い表面が、はらはらと剥がれていく。


 その下に現れたのは、白い病室だった。


 白いベッド。薄いカーテン。淡い光。枕の端の縫い目。ベッド脇に置かれた小さな椅子。点滴のチューブ。古い機械の影。シーツに沈む、小さな身体。


 少女が眠っている。


 そう見えた。


 だが、眠りではないことは、絵の静けさが告げていた。肩の落ち方。指先の力の抜け方。頬の色。薄く閉じられた瞼。そこに描かれているのは、もう起き上がらないものの静けさだった。


 志藤が、声を失う。


「……違う」


 掠れた声だけが漏れた。


 ひなの指は、まだ額縁に触れている。


 黒い絵具が剥がれるたび、病室の絵はさらに露わになっていく。異様なほど精密だった。ベッド脇の椅子の脚についた小さな傷。点滴台の金属の鈍い反射。枕元の皺。少女の髪が頬にかかる角度。睫毛の一本一本。


 志藤が、その瞬間をどれほど執拗に覚えていたのか。


 あるいは、覚え続けようとしていたのか。


 それが、絵の細部から伝わってくる。


 けれど。


 そこだけが違っていた。


 口元。


 少女の口だけが、完成していなかった。


 唇の輪郭は定まっていない。開いているのか、閉じているのかも分からない。息を吐いた瞬間なのか、何かを言おうとした瞬間なのか、ただ死の間際に力が抜けて歪んだだけなのか。


 どれにも見える。


 そして、どれにも見えない。


 何度も線を引いた跡がある。何度も消した跡がある。黒く塗って、削って、また描こうとして、結局定まらなかった跡が、そこだけに集中していた。


 他の部分が恐ろしいほど正確であるほど、その口元だけが異様に浮いている。


 そこだけが、記録できていない。


 そこだけが、保存できていない。


「……口元だけ」


 紗希が呟いた。


 志藤の肩が震える。


「口元だけ、描けていないんですね」


「違う」


 志藤は首を振った。


「違う。そんなものは、雛じゃない」


 雛。


 その名だけが、さっきまでの「ひな」とは違う温度を持って聞こえた。


 だが志藤は、すぐにその響きから逃げるように続ける。


「私のひなは、そんな顔をしない。ひなは、もっと――」


 言葉が止まる。


 もっと、何なのか。


 笑っていたのか。泣いていたのか。自分を呼んでいたのか。助けを求めていたのか。


 それとも、ただ息を吐いただけだったのか。


 志藤は言えない。


 言えないから、描けなかった。


 紗希は、病室の絵を見上げる。


 白いシーツ。目を閉じた少女。完成しない口元。


 それから、ゆっくり志藤へ視線を戻した。


「先生」


 志藤は答えない。


 壊れたICレコーダーを抱えた手だけが、白くなるほど強く握られている。


「あなたが保存したかったのは」


 紗希は、病室の絵を指した。


「この子ですか」


 白いベッドに沈む少女。


 その口元だけが、今も定まらないまま残っている。


「それとも」


 紗希は、黒く塗り潰されていた場所を見た。


「この子の“何を”、そんなに保存したかったんですか?」


 その問いが落ちた瞬間、中央の肖像画に走っていた亀裂が、もう一段深く広がった。

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