第38話 保管庫に暴れん坊を入れるな
恭介が笑った。
その一歩で、進路指導室の床が軋んだ。
机と椅子が、その進路を塞いでいる。志藤はそれを見た。見るべきものは常盤恭介のはずだった。鏡の前に囚われた灯紗希のはずだった。ひなに命じ、口を奪わせ、この場を支配するはずだった。
だが、志藤の視線は、恭介の足よりも先に、彼の手元を見ていた。
血に濡れたICレコーダー。
自分が抱え込んだ、壊れかけの小さな箱。
それを奪われる。
そう理解した瞬間、志藤の喉がひきつった。
「ひな!」
ほとんど悲鳴だった。
「常盤恭介を止めろ! その男を、ここに入れるな!」
命令は届いた。
鏡の黒い面が、ぶるりと震える。紗希の口元に触れかけていた白い指とは別のものが、黒い膜の下からぬるりと伸びた。少女の指に似ている。けれど関節が多すぎる。人の手というより、手の形を思い出せないまま真似た黒い枝のようだった。
それが、恭介の足首へ絡みつこうとする。
恭介は止まらない。
見えていないはずだった。
距離も、奥行きも、まともに掴めていないはずだった。だが、彼は迷わなかった。机の角に膝をぶつけながらも、舌打ち一つで済ませ、足元から伸びた黒い指を踏み潰す。
破壊された枝の、乾いた音がした。
ひなの輪郭が、鏡の奥で震えた。
志藤の顔が歪む。
「なぜ止まらない……!」
「止まる理由がねぇだろ」
恭介は低く返す。
「壊していいって許可は出た」
「許可など、誰が――」
「私です」
紗希が、鏡に囚われたまま答えた。
声は細い。けれど、妙にはっきりしていた。
「できれば雑に、とも言いました」
「バカが余計な注文つけやがって」
「使いやすいでしょう?」
「否定はしねぇ」
そのやり取りに、志藤は一瞬だけ理解が追いつかなかった。
おかしい。
この状況で、なぜそんな会話ができる。
灯紗希は血を流している。ひなに口を奪われかけている。常盤恭介は目がほとんど見えていない。二人とも、自分の作った場所の中に半分以上踏み込んでいる。
なのに、主導権がこちらに戻らない。
志藤はICレコーダーを握りしめた。
スピーカーの穴から、赤黒い液体が滲んでいる。血だ。灯紗希の血。そこに混じって、黒い膜の奥から漏れる声が、潰れたノイズとなって震えていた。
壊れてなどいない。
壊れていないはずだ。
まだ、使える。
まだ、自分は保存する側にいる。
「ならば」
志藤は、ICレコーダーを鏡へ押しつけた。
「おまえも保存してやる。保存してやるぞ、常盤恭介」
恭介の足が、止まった。
止まったのではない。床の黒が、今度は足首だけではなく、靴底ごと絡みついていた。ひなの白い指が黒い膜から何本も伸び、恭介の膝、脛、腕へとまとわりつく。
志藤は、それを見て笑った。
「“ひな”や灯紗希ごと、声の底へ沈めてやる」
ICレコーダーが、鏡へ深く食い込む。
黒い面が、傷口のように開いた。
そこから漏れたのは、声だった。
女の声。
少女の息。
志藤自身の短い呟き。
誰のものともつかない、声になる前の震え。
それらが、血に濡れたスピーカーの穴で混ざり、潰れ、鏡の奥へ流れ込んでいく。
鏡面が痙攣した。
ひなの口元が震える。
声は出ない。
代わりに、口の奥で黒いものが小さく巻いた。言葉になろうとしたものを、内側へ引き戻すように。
同じ瞬間、恭介の目元が歪んだ。
「……チッ」
彼は片手で額を押さえかけた。痛みではない。何かが、目の奥で触れたような不快感だった。だが、その理由を考える前に、黒い指が腕へ絡む。
そして、志藤の片目が焼けるように疼いた。
「……何だ?」
志藤は、ようやく異変に気づいた。
鏡の黒い面に、波紋が走っている。
一つではない。
恭介へ向かう波紋。
紗希を引き込んでいる波紋。
ひなの口元へ絡みつく波紋。
そして、ICレコーダーを握る自分の腕へまとわりつく波紋。
黒い膜が、志藤の指先を舐めた。
「……は?」
その声は、自分でも驚くほど間抜けだった。
膜は止まらない。
ICレコーダーの外装と、鏡の黒と、紗希の血が混ざり合い、どこまでが機械で、どこからが鏡なのか分からなくなっていく。液晶は割れている。ボタンは沈んでいる。だが、その奥で赤い点だけが瞬いていた。
REC。
録っている。
まだ、録っている。
誰を。
何を。
「違う」
志藤はICレコーダーを引き剥がそうとした。
剥がれない。
「違う、私は命じたはずだ。常盤恭介を、あの男を――」
黒い膜が、志藤の手首へ絡む。
足元の床が、水面のように揺れた。
「なっ……なぜ、私まで……!?」
その瞬間だけ、声が崩れた。
教師の声でも、保存者の声でもない。もっと幼く、もっと剥き出しの声だった。
だが志藤はすぐに首を振る。考えろ。原因を探せ。これは現象だ。現象ならば、必ず理由がある。
「目覚めたばかりで制御できない? ……違う!」
片目の奥が、黒く軋む。
「レコーダーが故障した? ……違う! 機能はまだ生きている!」
スピーカーから、潰れた笑い声のようなノイズが漏れる。
「灯紗希が何か細工を……違う、そんな暇は与えていない!」
「細工とかはしてませんよ?」
紗希が言った。
血の気の引いた顔で、それでも薄く笑っている。
「私の血が、ちょっと混ざっただけです」
「黙れ!」
志藤が叫ぶ。
その叫びもまた、ICレコーダーの奥で歪んだ。
黒い鏡面が、一気に膨らむ。
恭介の足元を掴んでいた黒い指が、彼を引く。恭介は踏ん張ろうとしたが、距離感の狂った視界では、床の終わりが分からない。靴底が滑る。
紗希の身体も、鏡の奥へさらに引き込まれる。
「……っ」
紗希が短く息を詰めた。
恭介の手が、反射的に伸びる。
優しく助けたわけではない。
鏡に持っていかれそうなものを、あるいは風で飛ばされそうになったものを、雑に引っかけた。そんな乱暴さだった。彼の指が、紗希の手首を掴む。
「痛いです、先輩」
「文句言うな」
「言いますよ。怪我人なので」
「今それどころじゃねぇだろ」
「そうですね」
紗希は、鏡の奥で揺れる黒を見た。
志藤も、ひなも、恭介も、自分も。すべてを同じ穴へ引きずり込もうとしている。区別がついていない。声も、血も、黒も、熱も、目も、口も、ひとつに混ざっている。
壊れたのではない。
混ざったのだ。
そう思った瞬間、紗希の背筋に冷たいものが走った。
志藤はまだ抗っている。
「くそ……!」
ICレコーダーを抱え込む。だが、その機械ごと黒い膜に呑まれていく。
「なぜ、私まで呑み込まれるんだ!」
「知らねぇよ」
恭介は、絡みつく黒い指を足で踏み潰した。
「ってか、俺なんか呑み込んでもいいことねーだろ。何やってんだお前」
「大変なことになっちゃいますね、先生」
紗希の声が、黒い面の奥でかすかに返る。
「大事な大事な保管庫に、暴れん坊が放り込まれることになってしまいますよ?」
志藤が目を見開く。
ひなの白い輪郭が、鏡の黒に溶ける。
ICレコーダーが、最後に一度だけ赤い点を瞬かせた。
次の瞬間。
進路指導室が、裏返った。




