第37話 コーヒー勝負、延長戦
ひなの指は、紗希の唇の手前で止まっていた。
志藤の命令は届いている。
それなのに、動き切れない。
そのわずかな停滞を、紗希は見逃さなかった。
「……やっぱり」
細い声だった。
けれど、進路指導室の中では、妙にはっきり聞こえた。
志藤が顔を歪める。
「何が、やっぱりだ」
紗希は答えない。
彼女の視線は、ひなから志藤の手元へ移った。
血に濡れたICレコーダー。
鏡の前に押し当てられたままの、小さな機械。スピーカーの穴からは、まだ赤黒い液体が滲んでいる。時折、潰れた声が混じったノイズを吐き、鏡の黒い面を小さく震わせていた。
志藤がその視線に気づいた。
反射的に、ICレコーダーを隠すように手をかぶせる。
その動きだけで、十分だった。
紗希の口元が、ほんの少しだけ緩む。
「当たり、ですね」
「黙れ!」
志藤の声が荒くなる。
紗希はそれを無視して、恭介へ顔を向けた。
見えているわけではない。恭介の姿は、血の気が引いた視界の中でぼんやりしている。けれど、そこにいることは分かる。あの人はいつも、雑に、乱暴に、だいたい最悪のタイミングで現れる。
だから、今も。
届く。
「コーヒー勝負、覚えてますか。先輩」
恭介が、眉をひそめた。
「……今それ言うか?」
「言いますよ。大事な話なので」
紗希は、鏡に囚われたまま笑う。
その顔色は悪い。
唇も乾いている。
腕から落ちる血は止まっていない。
それでも、声だけはいつもの調子に近かった。
「私の血と、志藤先生の能力が“喧嘩”、しちゃってるんですよ」
志藤の肩が揺れる。
恭介は、片手で目元を押さえたまま、わずかに顔を上げた。
「喧嘩?」
「はい。相性が悪いせいで、混ざらないんです。コーヒーに、相性の悪いブレンドをしたように」
「嫌味が過ぎるんだよ、お前は。敗因を蒸し返すんじゃねえ!」
「先輩に通じるようにしてるんですよ」
紗希は、そこで一度息を吸った。
喉の奥が、少し引っかかる。喋るたびに、鏡の奥で何かがこちらの声を拾おうとしているのが分かる。それでも、ここは言葉にしておかなければならなかった。
「前に襲われたとき、確かに見ました」
紗希は、志藤ではなく恭介を見る。
「“ひな”と呼ばれた怪異が増殖して、群れで襲ってきたとき。先輩のやらかした“エプロン”の血に、拒否反応を示してましたよね」
「やらかしたって言うな」
「事実なので」
紗希は、薄く笑う。
「だから、それを試したかったというのが一つ」
志藤の顔が強張る。
「もう一つは、先輩が感知している私の“熱”です」
恭介の表情が、わずかに変わった。
「それが、血液にも適用されるのかどうか。実験してみたかったんです」
「実験って、お前な」
恭介が顔をしかめる。
「他に呼び方あります?」
紗希は、血の落ちる自分の腕を見た。
「まあ、結果は見てのとおり。……あれです」
紗希の視線が、ICレコーダーへ向かう。
「志藤先生の手元」
志藤が即座にICレコーダーを引き寄せた。
「違う!」
「違いません」
紗希は淡々と言う。
「鏡だけじゃない。そこが、たぶん鍵です。声をしまって、出して、繋いでる。私の血がそこに入って、うまく動かなくなってる」
志藤の顔から、血の気が引いた。
「黙れ……」
「見えますよね、先輩」
紗希は、恭介にだけ言う。
「私の血が、べったりついてますから」
恭介は黙った。
焦点の合わない目が、少しだけ動く。
志藤の顔ではない。
鏡でもない。
志藤の手の中で血を流している、小さな機械へ。
恭介の口元が、ゆっくり吊り上がった。
「……ああ」
低い声だった。
「そこか」
志藤が、ICレコーダーを胸元へ抱え込む。
「触るな」
声が裏返っていた。
「それに触るな、常盤恭介!」
その反応で、紗希は確信した。
志藤は、鏡の前に立っている。
ひなを命令できる。
紗希を半分だけ外へ引き出せる。
けれど、その全てを繋いでいるものは、やはりあの機械だ。
声を奪い、保存し、再生するための道具。
志藤が何度も撫で、懐にしまい、守ろうとしたもの。
彼にとって、それは自分の収集物を収める箱だった。
さながら宝箱であり、そして今は、紗希の血で汚れた弱点。
恭介が、一歩動いた。
机の脚が、床を軋ませる。
ひなの指が震える。
志藤は鏡の前で、ICレコーダーを抱えたまま後ずさった。
「来るな」
今度は、教師の声ではなかった。
ただの、怯えた男の声だった。
「来るな、来るな! これは、私の――」
恭介は聞いていなかった。
紗希へ短く言う。
「壊していいんだな」
紗希は、少しだけ首を傾けた。
「できれば、雑にお願いします」
恭介が笑った。
「得意分野だ」




