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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第36話 血塗れの狸寝入り

 扉の向こうで、音が止んでいた。


 壁を擦る音も、何かにぶつかる鈍い音も、あの低い呼吸も聞こえない。


 進路指導室の中には、志藤の荒い息と、鏡の前で血に濡れたICレコーダーが漏らす微かなノイズだけが残っていた。


 志藤は、鏡の横に立っている。


 背後には出入口。

 正面には黒く濁った鏡。

 その鏡からは、灯紗希の上半身だけが引き出されている。


 部屋の中央には机と椅子があり、出入口から鏡までの直線を少しだけ塞いでいた。壁際の資料棚には、進路案内のファイルが暗がりの中で並んでいる。


 ここは進路指導室だ。


 自分の場所だ。


 そう思おうとした。


 志藤は唇を湿らせる。


 止まった。


 常盤恭介は、止まった。


 やはり脅しは効いたのだ。灯紗希を失えば、あの男は“見えなくなる”。自分でそう言っていた。ならば、彼女を壊せると示せば止まる。沈めて隠せると告げれば、動けない。


 当然だ。


 当然のはずだ。


 だが、静かすぎる。


 怒鳴り声がない。


 扉を蹴破る音もない。


 壁を壊すような衝撃音もない。


 あれほど不規則に、校舎の暗がりを這うように近づいてきた音が、何もかも消えていた。


 志藤は、鏡から離れなかった。


 紗希の口元には、ひなの白い指が絡んでいる。首筋には黒い影が細くまとわりついている。彼女は目を閉じたまま、ぐったりと鏡に囚われていた。


 生きている。


 だが、動けない。


 そう見える。


 そのはずだ。


 志藤は、扉の方へ目を向けた。


 扉は閉じている。


 開いていない。


 ノブも動かない。


 廊下からの明かりも差し込まない。


 なのに、部屋の空気がわずかに変わった。


「へえ」


 声がした。


 扉の外ではない。


 部屋の中だった。


 志藤の肩が、びくりと跳ねる。


 机と椅子の向こう、入口近くの暗がりに、常盤恭介が立っていた。


 いつ入った。


 扉は見ていた。


 音はなかった。


 いや、扉ばかり見ていたわけではない。鏡を見た。紗希を見た。ICレコーダーを押さえた。ひなの手を確認した。


 その一瞬の隙に、入られたのか。


 恭介は、出入口のそばに立っていた。


 片手で目元を押さえている。指の隙間から覗く目は、まだ完全には見えていないようだった。顔は少ししかこちらを向いていない。志藤を見ているというより、部屋の中の“熱”を探っているように見える。


 だが、声だけは普段と変わらない。


「人質ってわけか?」


 低く、静かな声だった。


 怒っているようには聞こえない。


 焦っているようにも聞こえない。


 それが、余計に気味悪かった。


 志藤は、喉を鳴らした。


「そこで止まれ」


 声が上ずりかける。


 志藤はそれを押し殺し、鏡の方へ半歩寄った。紗希を盾にする位置だ。自分と恭介の間に、鏡から引き出された彼女の身体が入るように立つ。


「一歩でも動けば、彼女を沈める」


 恭介は答えなかった。


 片手で目元を押さえたまま、少しだけ顔をしかめる。


 その仕草は、志藤の言葉に怯えたようには見えなかった。


 むしろ、別の痛みを堪えているようだった。


「……この部屋」


 恭介が呟く。


「気持ち悪ぃな」


「何?」


「腹が減ってる時の気持ち悪さじゃねぇ」


 志藤は眉をひそめる。


 何の話をしている。


 この状況で、なぜそんなことを言う。


 恭介は目元から手を離さない。だが、紗希のいる鏡の方へ、ゆっくり顔を向けた。


 視線は合っていない。


 それでも、志藤には分かった。


 あの男は、自分ではなく、灯紗希を見ている。


「ひでぇ格好だな、紗希」


 恭介は静かに言った。


「寝るなら場所選べよ」


 志藤は、一瞬だけ言葉を失った。


 その声は、人質を前にした男の声ではなかった。


 助けを求める声でもない。


 怒りに震える声でもない。


 いつもの雑な軽口。


 鏡に半身を囚われ、血を流し、ひなに口元を押さえられている少女へ向けるには、あまりにも場違いな声だった。


 だからこそ、志藤は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 恭介は、紗希から目を離さない。


「おい」


 その声は、今度は少しだけ低くなった。


「いつまで狸寝入りしてんだ」





 ――志藤は、恭介の言葉を理解できなかった。


「狸寝入り……?」


 鏡から半身だけ引き出された灯紗希を見る。


 閉じた瞼。青ざめた頬。だらりと落ちた腕。そこから滴る血。どう見ても、意識があるようには見えない。


 いや、意識があるはずがない。


 あの少女は自分で腕に刃を刺した。血を流しすぎた。頭も打っている。ひなが口元を押さえている。抵抗する力など残っているはずがない。


「何を言っている。彼女は気を失っている」


 志藤は、恭介へ言った。


「見れば分かるだろう」


「分かるから言ってんだよ」


 恭介は即座に返した。


 志藤の言葉を、ほとんど聞いていないような声だった。


「こいつ、死にかけてる奴の熱じゃねぇ。寝てる奴の熱でもねぇ」


 恭介は、鏡に囚われた紗希へ顔を向けたまま、少しだけ口元を歪める。


「なんか考えてやがる時の熱だ」


 志藤は、反射的に紗希を見た。


 その瞬間だった。


 紗希の唇が、ほんのわずかに動いた。


 ひなの白い指が、ぴくりと震える。


 志藤は息を止めた。


 紗希の瞼が、ゆっくり開いた。


 そこに、怯えはなかった。


 痛みはある。疲労もある。血を流しすぎたせいで、顔色は悪い。だが、その目は眠っていた者の目ではなかった。


 光の薄い、静かな目。


 何かをずっと観察していた者の目だった。


「……あは」


 紗希は、小さく笑った。


「バレちゃいました?」


 志藤の背筋が冷える。


「お前……」


「すみません。気絶してた方が、都合がよかったので」


 声は細い。


 けれど、はっきりしていた。


 ひなの指が紗希の唇に触れようとする。だが、触れ切れない。紗希の腕から流れた血が、鏡の黒い面を弾き、袖を伝い、指先から落ちている。その赤を嫌がるように、白い指はわずかに震えていた。


 紗希は、それを横目で見た。


 やっぱり。


 そう言いたげな視線だった。


 彼女は気絶していたのではない。


 志藤が鏡の前でICレコーダーを押し当てた瞬間も、目を閉じたまま、薄く世界を見ていたのだ。


 血に濡れた小さな機械が鏡に触れた瞬間、黒い面が開いたこと。


 志藤がそれを離さなかったこと。


 声と口と収納の中心が、鏡だけではなく、あのICレコーダーにあること。


 そして、そこに自分の血が混ざったせいで、何かがうまく噛み合わなくなっていること。


 紗希は、そのすべてを近くで見ていた。


 そのために、黙っていた。


 そのために、気絶したふりをしていた。


「まさか……」


 志藤の声が、震えた。


「最初から、それを見ていたのか」


 紗希は答えなかった。


 志藤ではなく、ひなの方を見たからだ。


 紗希の口元に絡む白い指。喉元へまとわりつく黒い影。少女の輪郭は、鏡の奥に半分溶けたまま、命令を待つようにそこにいる。


 けれど、完全には動けていない。


 志藤の命令に従おうとしている。


 だが、血を嫌がっている。


 そして、紗希の声に反応している。


 紗希は、ひなへ向けて、静かに言った。


「ねえ」


 白い指が止まる。


「まだ、そんな名前で呼ばれてるんですか」


 志藤が顔色を変えた。


「黙れ」


 紗希は止まらない。


 その視線は、志藤ではなく、ひなだけを見ている。


「あなた、“ひな”じゃないでしょう」


 鏡の黒い面が、わずかに揺れた。


 ひなの指が、紗希の唇から少しだけ離れる。


「そう呼ばれてるだけだって、分かってるでしょ」


「黙れと言っている!」


 志藤の声が跳ねた。


 だが、紗希はその怒声にすら反応しなかった。


 ひなを見ている。


 役名を押しつけられた、壊れた再生機のような少女を。


 命令と名前の間で、かすかに揺れているものを。


 志藤はICレコーダーを鏡に押しつけたまま、叫んだ。


「ひな!」


 白い指がびくりと跳ねる。


「口を奪え! その女の口を、今すぐ奪え!」


 命令は、確かに届いた。


 ひなの指が、もう一度紗希の口元へ近づく。


 けれど、そこで止まった。


 血の匂いに怯むように。


 名前の意味を、初めて疑うように。

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