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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第35話 鏡の人質

 進路指導室の扉を閉めた瞬間、志藤は背中をそこへ押しつけた。


 薄い扉一枚。


 その向こうに、常盤恭介がいる。


 廊下からは、まだ音が聞こえていた。壁を擦るような音。何かにぶつかる鈍い音。近づいているのか、遠ざかっているのか判然としない。だが、いる。あの男は、まだこちらを追っている。


 志藤は荒い息を吐いた。


 進路指導室は、暗かった。


 天井の蛍光灯は消えている。廊下から漏れる薄い明かりと、窓の外の夜の光だけが、部屋の輪郭を辛うじて浮かび上がらせていた。


 部屋の中央には、相談用の机と椅子がある。向かい合う形で置かれた椅子。壁際には進路資料の棚。古い大学案内、専門学校のパンフレット、就職資料のファイル。それらが暗がりの中で、無言の背表紙を並べている。


 そして、部屋の奥。


 壁に掛けられた、大きな鏡。


 志藤はそれを見た。


「ここだ……」


 声が掠れた。


 ここまで来ればいい。


 ひなが口を奪う時は、いつもここだった。進路指導室。鏡の前。生徒が将来を語らされ、声を絞り出す場所。自分のことを話せと言われ、進みたい場所を口にしろと促される場所。


 その声は、よく開いた。


 恐怖も、迷いも、息も、ここではよく滲んだ。


「ここなら、ひなは動く」


 志藤は扉から背を離した。


 足元がふらつく。手が痛い。恭介にこじ開けられた親指が、まだ焼けるように熱を持っている。血で濡れたICレコーダーを握るたび、骨の奥に鈍い痛みが走った。


 それでも、志藤は机の横を抜けて鏡へ向かった。


 椅子の脚に膝が当たる。小さな音がする。志藤は舌打ちし、椅子を乱暴に押しのけた。


 鏡の前へ立つ。


 そこに映った自分の顔は、ひどい有様だった。青ざめ、汗で濡れ、片目だけが異様に暗い。けれど、その片目の奥が疼いている。


 痛みではない。


 開こうとしている。


 そう感じた。


 自分に開花したこの異常も、ここでなら真価を発揮できる。根拠などない。だが、眼がそう告げている。進路指導室の鏡。すべての始まりはここだった。


 ひなと、私の力。


 この二つで、常盤恭介に対抗する。


 今の自分には、それしかない。


 なにより、彼がそう教えてくれた。


 志藤は、そこで息を止めた。


「……彼?」


 小さく呟く。


 彼とは誰だ。


 私は、今、何を言った。


 片目の奥が、ずきりと疼く。何かを思い出しかけている。だが、すぐに霧がかかったように輪郭が崩れた。


「……今は、いい」


 志藤はそれを振り払った。


 考えるのは後だ。


 まずは、取り戻す。


 志藤は血まみれのICレコーダーを、鏡の前に置いた。いや、置くというより、鏡面へ押し当てた。赤黒い血が鏡に擦れ、冷たい反射面に歪んだ線を残す。


 ICレコーダーは、まだ声を漏らしていた。


『返して……』


『先生が……』


『口を……』


「黙れ」


 志藤は吐き捨てた。


「今はお前たちじゃない」


 声が、鏡に吸われる。


 それと同時に、片目の疼きが強くなる。鏡の表面が、ほんのわずかに波打った。


 志藤は歯を食いしばり、血で滑る指でICレコーダーのボタンを押した。


「ひな」


 鏡に向かって呼ぶ。


 呼び慣れた名前だった。


 美しい名前。


 自分が与え、自分が整え、自分が戻してやった名前。


「ひな。あの子を出せ」


 鏡面に、黒い染みが広がった。


 最初は小さな点だった。だが、それはすぐに水面のように揺れ、鏡全体へ薄く伸びていく。反射が歪む。志藤の顔が消え、進路指導室の暗い輪郭も消える。


 代わりに、黒い膜が張った。


「全部じゃなくていい。半分でいい」


 志藤は息を荒げながら続ける。


 全身を出す必要はない。


 完全に外へ出せば、奪い返される。逃げられる。常盤恭介に持っていかれる。


 だが、見せるだけなら半分でいい。


 脅すだけなら、半分で足りる。


「口を押さえろ。まだ壊すな」


 黒い鏡面の奥で、何かが動いた。


 白い指。


 少女の輪郭。


 目元を塗り潰された顔が、一瞬だけ鏡の奥に浮かび、すぐに沈む。声が重なった。『やめて』、『こわい』、『かえして』。その全てを押し流すように、黒が脈打つ。


 そして、鏡の中から、紗希の上半身が引き出された。


 まず、髪が現れた。


 黒い髪が、鏡面の縁から濡れたように垂れる。次に額、閉じた瞼、青ざめた頬。制服の肩。胸元。腰から下は、黒い鏡の中に沈んだままだった。


 鏡が、彼女を咥えているようだった。


 志藤は息を呑んだ。


 生きている。


 呼吸は浅い。だが、ある。


 よかった。


 まだ使える。


 紗希の口元には、白い指が絡んでいた。ひなのものだ。完全な姿ではない。鏡面の奥から伸びた少女の手だけが、紗希の唇と喉元に触れている。首筋には黒い影がまとわりつき、少しでも命令すれば、そのまま口を奪える位置にある。


 十分だ。


 これなら、人質になる。


 そう思った時、紗希の左腕がだらりと垂れた。


 志藤の視線が、そこへ吸われる。


 袖が濡れていた。


 赤い。


 左前腕の内側、肘と手首の中間あたり。そこに、小さなナイフが斜めに突き刺さっていた。刃は深く入りすぎてはいない。だが、浅くもない。傷口から血が絶えず滲み、袖を濡らし、指先を伝って床へ落ちている。


「くそ……」


 志藤は顔を歪めた。


「こんなものを隠し持っていたのか」


 レンか。


 あの男か。


 そんなことはどうでもいい。


 問題は、血だ。


 “ひな”は血を嫌う。口と声と息を求めるくせに、血だけは受けつけない。赤は保存されない。沈まない。黒い膜に弾かれる。


 それを利用したのか。


 志藤は紗希の閉じた顔を見た。


「……にしては、確証もなかったはずだ」


 よくやる。


 そう思った。


 同時に、薄気味悪さもあった。自分の腕に刃を突き立てるなど、普通なら躊躇する。しかも、ここがどういう場所か確証もないまま、血が外へ漏れるかどうかも分からないまま。


 この少女は、どこか壊れている。


 だが、志藤はすぐにその考えを切り捨てた。


「ただ、所詮は子供だな」


 紗希は目を閉じたまま、ぐったりと鏡から吊られている。


「深く刺しすぎて気絶したか」


 それなら都合がいい。


 喋らない。


 抵抗しない。


 それでも、生きている。


 常盤恭介を止めるには十分だ。


 志藤は、血で汚れたICレコーダーを鏡の前に押しつけたまま、扉の方を向いた。


 進路指導室の入口は、志藤の背後にある。


 扉の向こう。暗い廊下。そこに、あの男がいる。


 まだ音が近づいていた。


 壁を擦る音。


 何かにぶつかる音。


 低く、乱れた呼吸。


 志藤は息を吸い込んだ。


「聞こえているか、常盤恭介くん」


 声を張る。


 震えは、まだ残っていた。


 だが、それを押し殺す。


「君の目的の女はここにいる」


 紗希の首元に絡む白い指が、わずかに動いた。


 志藤はそれを確認し、口元を歪める。


「君が言った通りだ。彼女はここにいた」


 廊下の音が、近づく。


 それでも、志藤は続けた。


「だが、出すか壊すかは、私が決める」


 言葉にすると、少しだけ力が戻った。


 そうだ。


 ここは自分の部屋だ。


 自分の鏡だ。


 自分のひなだ。


 常盤恭介がどれほど異常でも、この場の主導権は自分にある。


「私は、いつでも彼女を壊せる」


 紗希の口元に触れている白い指が、唇へ近づく。


「君、彼女を失うと見えなくなるんだろう?」


 志藤は、恭介が語った“熱”を思い出す。


 灯紗希の熱。


 それがなければ、あの男は見えない。追えない。ここまで来られない。


 ならば。


「死体ごと沈めて隠すこともできる。そうすれば、君には何も見えない」


 最後の言葉が、進路指導室の暗がりに沈んだ。


 その直後。


 扉の向こうで、音が止んだ。


 壁を擦る音も。


 何かにぶつかる音も。


 あの低い呼吸も。


 すべて、ぴたりと消えた。


 志藤は笑おうとした。


 脅しは効いた。


 効いたはずだ。


 だが、口元は引きつったままだった。

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