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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第34話 野槌

 背後で、職員トイレの扉が開く音がした。


 ゆっくりと。


 軋むように。


 志藤は振り返らなかった。


 振り返らなくても分かった。


 常盤恭介が、出てくる。


 廊下の蛍光灯が、じじ、と小さく鳴っている。夜の校舎は、昼間と同じ形をしているのに、まるで別の建物だった。掲示物の紙は灰色に沈み、窓の外は黒く、床だけが薄く光を返している。


 志藤は、早足で進んだ。


 走ってはいけない。


 まだ校内には警察がいる。職員もいる。教師が夜の廊下を血のついた手で走っていれば、それだけでおかしい。怪しまれる。呼び止められる。


 だから、走るな。


 歩け。


 少し急いでいるだけの教師に見えればいい。


 そう自分に言い聞かせながら、志藤はICレコーダーを握る手に力を込めた。掌の中で、血に濡れた機械が滑る。曲げられた指が熱を持って痛む。骨の奥に、まだ恭介の指の感触が残っていた。


 背後から、すぐには足音が来なかった。


 志藤は、喉の奥で息を殺す。


 見えていない。


 あの男は、こちらをまともに見えていない。


 ならば距離を取ればいい。血は拭った。服の染みも薄くした。廊下は暗い。人も少ない。あの男がいくら危険でも、見えていないなら――。


 その考えを遮るように、背後で音がした。


 足音ではなかった。


 壁を擦るような音。


 ざり、と。


 何か硬いものが、廊下の壁紙を引っかいたような音だった。


 志藤の歩幅が乱れる。


 振り返るな。


 振り返れば、速度が落ちる。


 次に、鈍い音が響いた。


 がん、と。


 何かにぶつかった音。


 たぶん、廊下の端に置かれたゴミ箱だ。倒れたのか、金属が床を転がる音が続く。


 それだけなら、ただの不器用な男だ。


 目が悪い。見えていない。だから壁に擦り、物にぶつかる。それだけのはずだった。


 なのに、音は近づいている。


 ごと、と何かがずれる。


 清掃用具か、掲示物のスタンドか。夜の廊下に置き忘れられた何かが、恭介の体に押されて動く。


 不規則だった。


 足音のような一定のリズムはない。走っているわけでもない。むしろ、まともに歩けているのかどうかすら怪しい。


 それなのに、距離だけが縮んでいる。


 志藤は歯を食いしばった。


 以前、職員室で誰かが言っていた。


 常盤恭介は、ガラの悪い野犬のような男だと。


 中退した不良。教師に噛みつき、学校という囲いから外れた、粗暴な若造。


 そういう意味なら、志藤もその比喩に頷いた。


 野犬。


 なるほど、分かりやすい言い方だと思った。


 だが、違う。


 あれは犬ではない。


 吠えない。


 走り回らない。


 感情に任せて噛みついてくるだけの獣ではない。


 暗がりの中で、獲物の熱だけを拾い、静かに距離を詰めるもの。


 一度絡みつけば、骨が軋むまで離さないもの。


 逃げ道を塞ぎ、呼吸を奪い、最後には獲物を丸呑みにするためだけに近づいてくるもの。


 大蛇。


 常盤恭介は、そういう化け物だった。


 背後の音が、ふっと消えた。


 壁を擦る音もない。


 物にぶつかる音もない。


 床を踏む音もない。


 あまりにも唐突な静寂だった。


 志藤は、思わず足を止めかけた。


 消えた。


 撒いたのか。


 いや、違う。そんなはずはない。


 だが、廊下は静まり返っている。蛍光灯の低い唸りだけが、耳の奥に残っている。


 志藤は、耐えきれずに振り返った。


 廊下には、誰もいなかった。


 倒れたゴミ箱。


 少し斜めになった掲示物の台。


 壁に残った擦れ跡。


 そこに、人影はない。


 いない。


 そう思った瞬間、頭上で音がした。


 ち、と。


 蛍光灯のカバーが、小さく鳴った。


 志藤は、ゆっくりと顔を上げる。


 常盤恭介が、壁と天井の境目にいた。


 張りついているのではない。


 廊下の角に、絡みついていた。


 指が天井の縁を掴み、靴底が壁を押さえている。身体の重さだけが、不自然にそこへ留まっていた。


 人間が休む場所でも、立つ場所でもない。


 それなのに、恭介はそこから志藤を見下ろしていた。


 焦点の合わない白い目が、こちらを向いている。


 見えていない。


 見えていないはずだ。


 それなのに、志藤の位置だけは間違えていない。


 恭介の口元が、わずかに動いた。


 笑ったのか。


 違う。


 獲物の熱を見つけた捕食者が、ただ口を開いただけのように見えた。


「……っ」


 志藤は息を呑み、走り出した。


 もう、平静な教師の顔など保っていられなかった。


 廊下で、暗がりで、手の届く距離で向き合っていい相手ではない。


 逆転するには、あそこしかない。


 進路指導室。


 鏡の前まで辿り着ければ。


 志藤はICレコーダーを握りしめたまま廊下を曲がる。掌の中で血が跳ねた。潰れた声が、指の隙間から漏れる。


『せん……』


「黙れ」


 息を切らしながら吐き捨てる。


 背後で、重い音がした。


 恭介が天井から降りたのか。壁にぶつかったのか。何かが倒れたのか。確かめる余裕はない。


 ただ、来ている。


 あの男が、来ている。


 職員室の方から遠くざわめきが聞こえた気がした。警察の声か、教師の声か。だが、ここまで届かない。届いたとしても遅い。止められるはずがない。


 廊下の先に、進路指導室の扉が見えた。


 志藤はそこへ駆け寄る。


 ポケットから鍵を取り出そうとして、指の痛みに顔を歪めた。曲げられた親指がまともに動かない。血で濡れた掌が滑る。鍵束が絡まり、金属音が夜の廊下に散った。


「くそ、くそ……!」


 背後で、壁が鳴った。


 近い。


 鍵が合わない。


 違う。


 次。


 指が震える。鍵穴に差し込もうとして、先端が外れる。


 また、壁が鳴った。


 すぐそこだ。


 志藤は歯を食いしばり、鍵を差し込んだ。


 回る。


 扉が開く。


 その瞬間、背後の暗がりから、低い呼吸が聞こえた。


 志藤は振り返らなかった。


 扉を押し開け、転がるように中へ入る。


 進路指導室の空気が、肺に入った。


 紙と古いカーテンと、鏡の冷たい匂い。


 志藤は扉を閉めた。


 背後で、廊下の音が一瞬だけ遮断される。


 だが、その向こうにいる。


 常盤恭介が。


 志藤は血に濡れたICレコーダーを握りしめ、暗い室内で、鏡の方を見た。

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