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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第33話 蛇が追う

 常盤恭介は、志藤ではなく、洗面台の上のICレコーダーへ向かってそう言った。


「そこにいるな?」


 志藤は動けなかった。


 その言葉が、自分に向けられていないことは分かった。

 分かってしまった。

 あの焦点の合わない目は、こちらの顔など見ていない。

 血に濡れた小さな機械を、そしてその奥に沈んでいる何かを見ている。


 灯紗希。


 あの少女が、そこにいるとでもいうのか。


 返事はない。


 ICレコーダーから聞こえるのは、血に濡れたスピーカーが吐き出す、ぐずぐずに潰れた声だけだった。


『くち……』


 志藤は、横目でそれを見た。


 赤黒い液体が、まだ滲んでいる。

 ボタンの隙間から、スピーカーの穴から、機械の継ぎ目から、まるで内側に詰まったものが溢れ出すように流れている。


 いけない。


 出してはいけない。


 喋らせてはいけない。


 志藤は反射的に手を伸ばした。


 ICレコーダーを掴み取る。濡れた機械が掌の中で滑り、血が指の間へ入り込んだ。


 志藤はそれを強く握り込む。


 スピーカーの穴を掌で覆う。


 声を潰す。


 血を塞ぐ。


 まるで、口を塞ぐように。


『……っ』


 音が掌の中でくぐもった。


 志藤は一瞬だけ、自分の手元を見た。


 赤黒く濡れた指。血で光るICレコーダー。

 爪の間へ入り込む赤。

 握れば握るほど、液体は掌の内側から逃げ場を探して滲んでくる。


 顔を上げた。


 常盤恭介がいなかった。


「……?」


 さっきまで、洗面台の向こうにいたはずだった。


 個室側の暗がりに、確かに立っていた。

 焦点の合わない目で、こちらを見ていた。

 血のついたエプロンを手に、逃げ道を塞ぐように。


 なのに、いない。


 扉が開いた音はしなかった。


 足音もない。


 志藤が、ほんの一瞬、手元へ視線を落としただけだ。


「なあ」


 声は、すぐ真横から聞こえた。


 志藤の肩が跳ねた。


 恭介は、志藤の脇に立っていた。


 音もなく、というより、志藤の意識の外側へぬるりと入り込んでいた。

 見えていないはずの男が、正確に距離を詰め、志藤の手元だけを見下ろしている。


 いや、見えているのか。


 違う。


 顔の向きと視線の焦点が合っていない。

 なのに、手の中のレコーダーだけは分かっている。


「紗希隠すの、やめろよ」


 低い声だった。


 恫喝ではない。


 怒鳴り声でもない。


 ただ、当然のことを言う声。


 その直後、恭介の指が志藤の手にかかった。


「……っ!」


 開かせようとしている。


 志藤は慌てて握り込む。

 ICレコーダーを離してはいけない。渡してはいけない。

 これを奪われたら、あの中に沈めたものまで奪われる。


 恭介の指に、力が入った。


 志藤の親指が、反対方向へ持っていかれる。


 骨が軋んだ。


 ごき、と嫌な音がした。


「う、あ……っ!」


 痛みが遅れて来た。


 手首から肘へ、肘から肩へ、熱い線が走る。関節が本来曲がってはいけない角度へ押し込まれ、指の骨が内側から悲鳴を上げる。


 恭介は表情を変えない。


 見えていないはずの目で、志藤の手だけを捉え、淡々と握りを剥がそうとしている。


「やめろ……!」


「開けろ」


「やめろ、やめろ、やめろ!」


 次の瞬間、志藤は叫んでいた。


「うわああああああっ!」


 痛みと恐怖で、体が勝手に動いた。


 志藤は恭介の胸を突き飛ばす。力任せだった。

 恭介がわずかによろめく。

 完全に倒れたわけではない。だが、一瞬だけ隙ができた。


 志藤はその隙に、ICレコーダーを握ったまま扉へ向かった。


 手が痛い。


 指が熱い。


 血で濡れた機械が滑る。


 それでも離さない。


 職員トイレの扉を開け、廊下へ飛び出す。


 夜の校舎の空気が、肺へ入った。


 冷たい。


 蛍光灯がまばらに灯る廊下は、昼間とは別物だった。

 掲示物の影が壁に伸び、床のワックスが鈍く光っている。

 遠くの職員室のざわめきも、ここまでは届かない。


 志藤は走り出しかけて、足を止めた。


 走るな。


 走れば不審に見える。


 警察がいる。

 まだ校内に職員もいる。

 ここで廊下を全力で逃げれば、それだけで怪しまれる。

 教師が夜の校舎を血のついた手で走っていれば、誰だって止める。


 志藤は歯を食いしばり、早足に変えた。


 胸元を押さえる。


 ICレコーダーを包む掌が、じんじんと痛む。


 その痛みの奥で、別の疑問が膨らんでいく。


 灯紗希は、中で何をしている。


 この血は何だ。


 どこから出ている。


 “ひな”が傷つけたのか。


 いや、違う。


 そんな指示は出していない。


 声を奪えとは言った。

 閉じ込めろとは願った。

 外に出すなと望んだ。


 だが、殺せとは命じていない。

 血を流せとも命じていない。


 なら、これは何だ。


 あの少女が、自分で何かをしたのか。


 まさか。


 死んだのか。


 あの中で。


 保存される前に、壊れたのか。


「……冗談じゃない」


 声が漏れた。


 死なれては困る。


 まだ声を採っていない。

 あの、何もかも見透かしたような目を、まだ保存しきっていない。

 自分を断じようとした口を、まだ正しい形に整えていない。




 勝手に壊れるな。


 勝手に終わるな。




 志藤は廊下を進みながら、ICレコーダーを握る手に力を込めた。掌の中で、声が潰れる。


『……たす……』


 聞くな。


 今は、それを聞いている場合ではない。


 確認しなければならない。


 灯紗希はまだ中にいるのか。

 生きているのか。

 “ひな”は命じた通りに動いているのか。

 この血は、いったいどこから来ているのか。


 だが、ここでは無理だ。


 レコーダーは声を留める。息を留める。漏れ出したものを聞かせることはできる。けれど、沈めたものをこちらへ引き上げるには、鏡が要る。


 あの場所だ。


 娘の雛を失った日、あの声を初めて聞いた場所。


 “ひな”というものと、初めて出会った場所。


 それからずっと、“ひな”が現れる場所であり、生徒から口を奪うための場所でもあった。


 進路指導室の、あの鏡。


 はっきりとした根拠があるわけではない。


 だが、あの鏡を思い浮かべるたび、片目の奥の疼きが強くなる。

 眼球の裏側を、黒い針で刺されているような感覚が走る。


 違う。


 痛みではない。


 呼ばれている。


 眼が、あの場所を求めている。


 私の異常の根は、あそこにしかない。


 あそこへ戻れば、まだ取り戻せる。確認できる。引き上げられる。主導権を戻せる。


 背後で、職員トイレの扉が開く音がした。


 ゆっくりと。


 軋むように。


 志藤は振り返らなかった。


 振り返らなくても分かった。




 常盤恭介が、出てくる。

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