第32話 ルミノール
志藤は、鏡の中の顔から目を離せなかった。
常盤恭介。
どうして、ここにいる。
いつからいた。
音はしたか。扉は開いたか。いや、開いたなら気づくはずだ。職員トイレの扉は古い。少し動かすだけでも軋む。足音だって響く。
なのに、いつの間にかそこにいる。
鏡の中で、白い三白眼がこちらを見ていた。
見ている。
いや、本当に見えているのかは分からない。
焦点が合っていない。けれど、逃げ場だけは正確に塞いでいるように立っている。
志藤は、喉の奥に込み上げたものを飲み込んだ。
ここで取り乱してはいけない。
相手は、ただの不良だ。
部外者だ。
こちらは教師で、この場所は職員用トイレだ。学校という場所において、どちらの立場が強いかなど、考えるまでもない。
志藤は、ゆっくりと振り返った。
「……常盤くん」
声は、思ったより平静だった。
よかった。
まだ崩れていない。
「ここは職員用のトイレだ。部外者が入っていい場所ではない」
恭介は答えなかった。
薄暗い個室側の壁にもたれ、片手をポケットに突っ込んだまま、こちらを見ているようで見ていない。口元だけが、さっきの笑みの形を少し残している。
洗面台の上では、ICレコーダーがまだ小さく鳴っていた。
『せん……』
血に濡れたスピーカーが、声を潰す。
志藤は反射的にそちらを見そうになり、寸前で堪えた。
見てはいけない。
意識していると思われてはいけない。
恭介が、ようやく口を開いた。
「その血」
短い声だった。
「何をどうやったら、そうなったんだ?」
志藤は沈黙した。
視線を落とす。
シャツの胸元。水で薄めたはずの染み。ジャケットを合わせれば隠せると思っていた赤黒い跡が、蛍光灯の下ではまだ鈍く残っている。
答えはすでに用意していた。
血を見られた時のための言い訳。
だが、喉を通すまでに一拍だけかかった。
「……恥ずかしながら、鼻血が酷くてね」
志藤は、わずかに笑った。
困った大人の笑い。
自分の不調を恥じているだけの、無害な笑い。
「服についていたから、洗い流していたところだ」
「へえ」
恭介はそれだけ言った。
信じたのか。
いや、違う。
信じた声ではなかった。興味がない声だった。
志藤はその無関心さに、かすかな苛立ちを覚えた。こちらがせっかく説明してやっているのに、聞く気がない。昔からこういう手合いは嫌いだった。規則も、立場も、説明も、自分の耳に入れようとしない。
「それより、君こそ何をしている」
志藤は声を少し硬くした。
「警察が来ている。学校にも迷惑がかかっているんだ。今ならまだ間に合う。大人しく外へ出なさい」
恭介は動かない。
「これ以上騒ぎを大きくしても、君のためにならない。君はもう、この学校の生徒ではないんだ。ここに勝手に入り込んで、職員を脅すような真似をすれば――」
「俺はな」
恭介が、志藤の言葉を遮った。
まるで聞いていなかったような声だった。
肩にかけていた袋へ手を入れる。中から、くしゃりと丸まったエプロンを取り出した。乾きかけた血と、別の汚れが染み込んだ布。
志藤の片目の奥が、ずきりと痛んだ。
あの布。
図書室の血を拭ったものか。
「目が悪い」
恭介は血のついたエプロンを片手にぶら下げたまま言った。
「ほとんど見えねぇ。あんたの顔も、まともには分かんねぇ」
「……何の話をしているんだ」
「だけどな、そんな俺にも分かるもんがある」
恭介は、志藤の言葉を無視した。
床のタイルを踏む音が、ひとつ近づく。
「……熱だ」
志藤は動かなかった。
動いてはいけないと思った。
恭介は続ける。
「灯紗希。あいつの居場所だけは、なんとなく熱として分かる」
名前が出た瞬間、志藤の口の中が乾いた。
灯紗希。
その名を、ここで聞きたくなかった。
「あいつは俺のこの感覚を、何つったっけな」
恭介は、少しだけ目を細める。
思い出しているのか。
いや、見えていない目で、どこか別のものを探っているようだった。
「ああ、そうそう。“蛇のピット器官”みてぇだとか言ってた」
意味の分からない比喩だった。
だが、志藤には笑えなかった。
「……君は、何を」
「あいつの周りには怪異が群がる」
恭介は言う。
「たぶん、似たような感覚で寄ってくるんだろうぜ。目じゃねぇ。音でもねぇ。もっと別のもんで、あいつを拾う」
洗面台の上で、ICレコーダーがまたざらついた。
『こわ……』
志藤は、今度こそ視線を動かしてしまった。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
恭介の口元が、わずかに吊り上がる。
「んで、その熱が」
恭介は志藤を指した。
正確には、志藤の胸元から腹にかけてを。
「あんたの身体中から出てる」
志藤の呼吸が止まった。
「紗希の血のせいだ」
恭介は、血のついたエプロンを軽く振った。
「……あいつめ、考えたもんだぜ」
「何を、馬鹿な」
志藤はようやく声を出した。
「血? 灯さんの? 君は、自分が何を言っているのか分かっているのか。そんなものは――」
「鼻血じゃねぇよ」
恭介の声が低くなった。
「匂いが違う」
志藤は言葉を失う。
「それに、熱が違う。俺はあんたの顔も分かんねぇ。鏡に映ってるもんも、ほとんど線だ。けど、その赤だけは見える」
恭介は一歩近づいた。
洗面台の蛍光灯が、彼の目に薄く反射する。焦点の合わない三白眼。見えていないはずなのに、逃げようとする場所だけを潰してくるような目。
「紗希の血が、あんたを照らしてる」
志藤の背中が、洗面台にぶつかった。
陶器が冷たい。
逃げ場がない。
いや、ある。まだある。ここは学校だ。廊下に出ればいい。大声を上げればいい。
そう考えた瞬間、洗面台の上のICレコーダーが声を漏らした。
『口を……』
恭介の顔が、そちらへ向いた。
志藤は反射的に手を伸ばしかけた。
隠さなければ。
触らせてはいけない。
けれど、その一瞬の動きもまた、恭介に見られた。
「それ」
恭介が言う。
「小せぇ機械。声が出てるやつだ」
志藤の指が止まる。
「ICレコーダーか?」
「……ただの私物だ」
「熱で照らされてるから、俺にも見える」
恭介は志藤ではなく、洗面台の上を見ていた。
血で濡れたICレコーダー。
その小さな機械へ向けて、焦点の合わない目を細める。
そして、低く言った。
「そこにいるな?」
志藤は、その言葉が自分に向けられたものではないと気づいた。
その瞬間、背筋が冷えた。




