表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
35/72

第32話 ルミノール

 志藤は、鏡の中の顔から目を離せなかった。


 常盤恭介。


 どうして、ここにいる。


 いつからいた。


 音はしたか。扉は開いたか。いや、開いたなら気づくはずだ。職員トイレの扉は古い。少し動かすだけでも軋む。足音だって響く。


 なのに、いつの間にかそこにいる。


 鏡の中で、白い三白眼がこちらを見ていた。


 見ている。


 いや、本当に見えているのかは分からない。


 焦点が合っていない。けれど、逃げ場だけは正確に塞いでいるように立っている。


 志藤は、喉の奥に込み上げたものを飲み込んだ。


 ここで取り乱してはいけない。


 相手は、ただの不良だ。


 部外者だ。


 こちらは教師で、この場所は職員用トイレだ。学校という場所において、どちらの立場が強いかなど、考えるまでもない。


 志藤は、ゆっくりと振り返った。


「……常盤くん」


 声は、思ったより平静だった。


 よかった。


 まだ崩れていない。


「ここは職員用のトイレだ。部外者が入っていい場所ではない」


 恭介は答えなかった。


 薄暗い個室側の壁にもたれ、片手をポケットに突っ込んだまま、こちらを見ているようで見ていない。口元だけが、さっきの笑みの形を少し残している。


 洗面台の上では、ICレコーダーがまだ小さく鳴っていた。


『せん……』


 血に濡れたスピーカーが、声を潰す。


 志藤は反射的にそちらを見そうになり、寸前で堪えた。


 見てはいけない。


 意識していると思われてはいけない。


 恭介が、ようやく口を開いた。


「その血」


 短い声だった。


「何をどうやったら、そうなったんだ?」


 志藤は沈黙した。


 視線を落とす。


 シャツの胸元。水で薄めたはずの染み。ジャケットを合わせれば隠せると思っていた赤黒い跡が、蛍光灯の下ではまだ鈍く残っている。


 答えはすでに用意していた。


 血を見られた時のための言い訳。


 だが、喉を通すまでに一拍だけかかった。


「……恥ずかしながら、鼻血が酷くてね」


 志藤は、わずかに笑った。


 困った大人の笑い。


 自分の不調を恥じているだけの、無害な笑い。


「服についていたから、洗い流していたところだ」


「へえ」


 恭介はそれだけ言った。


 信じたのか。


 いや、違う。


 信じた声ではなかった。興味がない声だった。


 志藤はその無関心さに、かすかな苛立ちを覚えた。こちらがせっかく説明してやっているのに、聞く気がない。昔からこういう手合いは嫌いだった。規則も、立場も、説明も、自分の耳に入れようとしない。


「それより、君こそ何をしている」


 志藤は声を少し硬くした。


「警察が来ている。学校にも迷惑がかかっているんだ。今ならまだ間に合う。大人しく外へ出なさい」


 恭介は動かない。


「これ以上騒ぎを大きくしても、君のためにならない。君はもう、この学校の生徒ではないんだ。ここに勝手に入り込んで、職員を脅すような真似をすれば――」


「俺はな」


 恭介が、志藤の言葉を遮った。


 まるで聞いていなかったような声だった。


 肩にかけていた袋へ手を入れる。中から、くしゃりと丸まったエプロンを取り出した。乾きかけた血と、別の汚れが染み込んだ布。


 志藤の片目の奥が、ずきりと痛んだ。


 あの布。


 図書室の血を拭ったものか。


「目が悪い」


 恭介は血のついたエプロンを片手にぶら下げたまま言った。


「ほとんど見えねぇ。あんたの顔も、まともには分かんねぇ」


「……何の話をしているんだ」


「だけどな、そんな俺にも分かるもんがある」


 恭介は、志藤の言葉を無視した。


 床のタイルを踏む音が、ひとつ近づく。


「……熱だ」


 志藤は動かなかった。


 動いてはいけないと思った。


 恭介は続ける。


「灯紗希。あいつの居場所だけは、なんとなく熱として分かる」


 名前が出た瞬間、志藤の口の中が乾いた。


 灯紗希。


 その名を、ここで聞きたくなかった。


「あいつは俺のこの感覚を、何つったっけな」


 恭介は、少しだけ目を細める。


 思い出しているのか。


 いや、見えていない目で、どこか別のものを探っているようだった。


「ああ、そうそう。“蛇のピット器官”みてぇだとか言ってた」


 意味の分からない比喩だった。


 だが、志藤には笑えなかった。


「……君は、何を」


「あいつの周りには怪異が群がる」


 恭介は言う。


「たぶん、似たような感覚で寄ってくるんだろうぜ。目じゃねぇ。音でもねぇ。もっと別のもんで、あいつを拾う」


 洗面台の上で、ICレコーダーがまたざらついた。


『こわ……』


 志藤は、今度こそ視線を動かしてしまった。


 ほんの一瞬。


 それだけで十分だった。


 恭介の口元が、わずかに吊り上がる。


「んで、その熱が」


 恭介は志藤を指した。


 正確には、志藤の胸元から腹にかけてを。


「あんたの身体中から出てる」


 志藤の呼吸が止まった。


「紗希の血のせいだ」


 恭介は、血のついたエプロンを軽く振った。


「……あいつめ、考えたもんだぜ」


「何を、馬鹿な」


 志藤はようやく声を出した。


「血? 灯さんの? 君は、自分が何を言っているのか分かっているのか。そんなものは――」


「鼻血じゃねぇよ」


 恭介の声が低くなった。


「匂いが違う」


 志藤は言葉を失う。


「それに、熱が違う。俺はあんたの顔も分かんねぇ。鏡に映ってるもんも、ほとんど線だ。けど、その赤だけは見える」


 恭介は一歩近づいた。


 洗面台の蛍光灯が、彼の目に薄く反射する。焦点の合わない三白眼。見えていないはずなのに、逃げようとする場所だけを潰してくるような目。


「紗希の血が、あんたを照らしてる」


 志藤の背中が、洗面台にぶつかった。


 陶器が冷たい。


 逃げ場がない。


 いや、ある。まだある。ここは学校だ。廊下に出ればいい。大声を上げればいい。


 そう考えた瞬間、洗面台の上のICレコーダーが声を漏らした。


『口を……』


 恭介の顔が、そちらへ向いた。


 志藤は反射的に手を伸ばしかけた。


 隠さなければ。


 触らせてはいけない。


 けれど、その一瞬の動きもまた、恭介に見られた。


「それ」


 恭介が言う。


「小せぇ機械。声が出てるやつだ」


 志藤の指が止まる。


「ICレコーダーか?」


「……ただの私物だ」


「熱で照らされてるから、俺にも見える」


 恭介は志藤ではなく、洗面台の上を見ていた。


 血で濡れたICレコーダー。


 その小さな機械へ向けて、焦点の合わない目を細める。


 そして、低く言った。


「そこにいるな?」


 志藤は、その言葉が自分に向けられたものではないと気づいた。


 その瞬間、背筋が冷えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ