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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第31話 鏡の中の常盤恭介

 職員トイレの扉を押し開けた瞬間、志藤は中を見回した。


 誰もいない。


 鏡。


 洗面台。


 個室の扉。


 換気扇の低い音。


 夜の校舎にあるトイレは、昼間よりもずっと狭く感じた。白い壁も、蛍光灯の光も、どこか冷たい。廊下のざわめきは扉一枚を挟んだだけで遠のき、ここだけが校舎から切り離された小さな箱のようだった。


 志藤は背後の扉を閉めた。


 鍵をかけるべきか、一瞬迷う。


 だが、鍵をかけているところを誰かに見られたら不自然だ。閉館後とはいえ、職員が使う可能性はゼロではない。志藤は鍵には触れず、扉が閉まったことだけを確認した。


 それでいい。


 ここなら、数分は一人になれる。


『たすけ……』


 懐の中で、声が潰れた。


 志藤は歯を食いしばり、洗面台の前へ進む。


 胸元はすでに湿っていた。シャツの内側に冷たいものが張りついている。腹へ落ちた液体が、肌を這っていく感触がある。そのたびに、背筋が痙攣しそうになった。


「なんで、なんでだ」


 声が漏れた。


 答える者はいない。


 志藤は懐に手を入れ、ICレコーダーを引き抜いた。


 手のひらが濡れる。


 赤黒い血液が、機械の表面を覆っていた。スピーカーの小さな穴から、ぷつ、と泡のように血が滲んでいる。ボタンの隙間にも入り込み、録音ランプの周りをぬらぬらと光らせていた。


『せん……せ……』


 声は、液体に塞がれていた。


 はっきりした音にならず、スピーカーの奥でくぐもる。血の泡が潰れるたびに、ざり、と録音ノイズのような音が混じった。


『くち……かえ……』


「黙れ」


 志藤は低く吐き捨てた。


 乱暴に、ICレコーダーを洗面台へ置く。


 陶器の白い面に、赤黒い液体が広がった。丸い排水口へ向かって、細い筋を引いて流れていく。レコーダーは横倒しになったまま、それでも声を漏らし続けていた。


『やめ……て……』


「くそ」


 志藤はもう片方の洗面台へ移った。


 蛇口をひねる。


 水が勢いよく出た。夜のトイレに、水音だけがやけに大きく響く。志藤はペーパータオルを濡らし、胸元の血を押さえた。


 こすってはいけない。


 広がる。


 まず叩く。染みを薄くする。濃い部分から外側へ広げないように、布地を押さえる。


 頭の中で、妙に冷静な手順だけが動いていた。


 警察がいる。


 服に血がついている。


 持ち物を確認されたら終わりだ。

 あのICレコーダーを見られたら、終わりだ。


 志藤は濡らしたペーパーを取り替え、もう一度シャツを押さえた。水を含んだ紙が赤くなる。すぐに捨てる。次を濡らす。叩く。押さえる。水気を吸わせる。


 指先が震えている。

 だが、手順は間違えない。


 こういう時こそ、丁寧にやらなければならない。雑に洗えば、かえって目立つ。シミが広がる。濡れた跡も不自然になる。教師として、人前に出られる状態へ戻さなければならない。


『先生……』


 隣の洗面台から声がした。


『先生が……』


「違う」


 志藤は血を叩きながら呟いた。


「違う。これは、機械の異常だ」


『口を……』


「血が入ったせいで、録音が混線しているだけだ」


『かえして……』


「違う」


 誰に言っているのか分からなかった。


 志藤はシャツの前を引っ張り、蛍光灯の下で染みを見る。濃い部分は薄くなっている。完全には消えない。だが、ジャケットを合わせれば隠せる。暗い場所なら分からない。


 もう一度、水を出す。


 指についた血を洗う。


 爪の間。


 手の甲。


 手首。


 赤い水が排水口へ吸い込まれていく。


 その間も、ICレコーダーは声を吐き続けていた。血に濡れたスピーカーが、泡の混じった音を立てる。


『こわ……』


『やめ……』


『せん、せ……』


 志藤の額から汗が落ちた。


 水で顔を洗いたかった。


 だが、顔を濡らせば余計に乱れて見える。髪も崩れる。人前へ戻る時に不審に見える。


 志藤はハンカチで額を押さえ、深く息を吐いた。


 大丈夫だ。


 まだ、大丈夫だ。


 服の染みは隠せる。手の血は落とした。レコーダーは拭けばいい。誰にも見られていない。職員室に戻る必要もない。このまま鞄を取って、自然に帰ればいい。


 そうだ。


 帰ればいい。


 志藤は鏡の前に立った。


 顔に血がついていないか確認するためだった。


 鏡の中には、自分の顔が映っていた。


 青ざめている。


 額に汗が残っている。


 片目だけ、ひどく充血していた。白目の奥に細い血管が浮き、瞳の周囲が妙に暗い。口元も少し引きつっている。


 それでも、志藤の顔だった。

 まだ、人前に出られる顔。

 志藤は無理に口元を整えた。




 そのすぐ傍に、別の顔があった。


 最初、鏡の汚れかと思った。


 照明の届かない背後の闇。

 個室の扉の横。


 そこに、白い目だけが浮いていた。


 焦点の合っていない、白い三白眼。


 その下で、歯が見えた。


 ギザギザに裂けたような笑みだった。


 志藤の呼吸が止まる。


 鏡の中で、常盤恭介が笑っていた。


 いつからそこにいたのか。


 本当に背後にいるのか。


 それとも、鏡の中にだけ映っているのか。


 分からない。


 ただ、暗がりの中で、その口だけが、ニヤリと横へ裂けていた。

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