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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第30話 流血革命

 それから、どれくらい時間が経ったのか。


 志藤は、職員室の自席に座っていた。


 外は、もう暗い。


 窓ガラスには、校庭の輪郭よりも職員室の明かりの方が濃く映っている。昼間は白く見える校舎の壁も、今は蛍光灯に切り取られた部分だけが浮かび、他は夜の中へ沈んでいた。


 警察を呼ぶ騒ぎになってから、職員室の空気はしばらく落ち着かなかった。


 電話。


 確認。


 廊下を行き来する足音。


 事情を尋ねる声。


 だが、それも時間と共に少しずつ遠のいていった。生徒たちは帰され、残っていた教師たちも、それぞれ対応に追われて場所を移している。


 職員室には、今、ほとんど人がいない。


 志藤は、いつも通りの顔で、書類を揃えていた。


 プリントの角を合わせる。


 採点済みの答案を束にする。


 赤ペンをペン立てに戻す。


 冷めかけたコーヒーを一口飲む。


 ただ、それだけのことを、普段と同じ手順で繰り返す。


 平静。


 それが必要だった。


 片目の奥には、まだ鈍い痛みがある。時折、視界の端で黒い染みが滲む。耳の奥には、録音ノイズのようなざらつきが残っている。


 だが、そんなものは疲労だ。


 興奮のせいだ。


 今日は少し、色々なことがありすぎた。


 それだけだ。


 志藤は書類の束を机の端に寄せ、窓の外へ視線を移した。


 校門の近くに、警察車両の赤い灯りが見える。


 そのそばに、相馬レンの姿があった。


 遠目なので表情までは分からない。だが、身振りで何かを説明しているのは見えた。警察官と、学校側の職員らしき人物。その間で、相馬は面倒そうに、それでも軽薄な笑みを崩さず、言葉を重ねている。


 あの男も、大変なものだ。


 志藤は呆れたように息を吐いた。


「……頑張るね、しかし」


 常盤恭介は、どこに行ったのか。


 少なくとも、校門前で警察と向き合っている様子はない。逃げたのか。隠れたのか。どちらでもいい。いずれにせよ、あの男は今、この学校の中で自由には動けない。


 社会というものは、そうできている。


 教師の言葉と、中退した不良の言葉。


 どちらが先に信じられるかなど、最初から決まっている。


 志藤はコーヒーのカップを置いた。


 ようやく、少しだけ呼吸が楽になる。


 今日のところは、もう帰るべきだ。


 余計なことはしない。これ以上、校内にいる必要もない。後は警察が勝手に常盤を探し、相馬が説明に追われる。自分は被害を訴えた教師として、必要な対応をしただけ。


 それでいい。


「さて」


 志藤は椅子を引いた。


「そろそろ僕は帰ろうかな」


 立ち上がった瞬間だった。


 懐から、ひやりとした感触が伝わってきた。


 最初は、汗かと思った。


 だが違う。


 冷たい。


 そして、重い。


 胸元から、腹へ。


 液体が、服の内側をゆっくり這っていく。


「……なんだ、これは」


 志藤は反射的に胸を押さえた。


 指先に、濡れた感触。


 手を見る。


 赤黒い。


 血だった。


 自分の指先に、血がついている。


 志藤は一瞬、理解できなかった。


 怪我などしていない。


 痛みもない。


 攻撃された覚えもない。


 なのに、懐から血が滲んでいる。シャツの内側を汚し、胸元から腹にかけて、赤黒い染みを広げている。


「……っ」


 声を出しかけて、志藤はすぐに口を閉じた。


 まずい。


 警察が来ている。


 この状況で、身に覚えのない血液が服についているところを見られたら、余計な説明を求められる。服を調べられるかもしれない。持ち物を確認されるかもしれない。


 それはまずい。


 何より、懐にあるものを見られるのがまずい。


 志藤は震える指で、懐へ手を入れた。


 硬い感触。


 ICレコーダー。


 触れた瞬間、かすかな音が漏れた。


『やめて』


 女の声だった。


 志藤は息を止めた。


 すぐに職員室を見回す。


 誰かいるのか。


 どこかから聞こえたのか。


 だが、近くに人影はない。奥の机にも、コピー機の前にも、誰も立っていない。廊下の向こうから足音は聞こえるが、職員室の中にはいない。


 声は、もう一度鳴った。


『たすけて』


 別の女の声だった。


 志藤の喉が、ひくりと動く。


 聞き覚えがある。


 昨日の晩。


 進路指導室。


 鏡の前。


 口を奪ってやった女生徒の声。


『先生に』


 今度は、もっと近い。


『先生が』


 声は、懐から聞こえていた。


 ICレコーダーの内側から。


 血で濡れたポケットの中から。


「……っ、黙れ」


 志藤は小さく吐き捨てた。


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 レコーダーの中の声にか。


 自分の耳にか。


 それとも、あの黒い染みのようなものにか。


『口を』


 音が、途切れる。


 ざり、と血の混じったようなノイズが挟まる。


『返して』


 志藤は机に手をついた。


 観察している暇はない。


 考えている暇もない。


 まず、この異常を処理しなければならない。服の血を落とす。ICレコーダーを隠す。警察にも、教師にも、誰にも見られない場所へ移動する。


 職員トイレ。


 そこしかない。


 生徒は入らない。部外者も来ない。夜のこの時間なら、職員もほとんど使わない。


 志藤は机の上の書類を慌てて整えた。せめて席を立った理由が不自然に見えないように、カップを端に寄せ、椅子を戻す。


 その間にも、懐から血は滲んでいた。


『先生』


 声がする。


『やめて』


 志藤は胸元を押さえ、職員室の扉へ向かった。


 足音を立てないように。


 走っているように見えないように。


 だが、廊下へ出た瞬間には、ほとんど早足になっていた。


 職員トイレは、廊下の奥にある。


 蛍光灯の光がまばらに落ちる夜の廊下を、志藤は胸元を押さえたまま進んだ。


 懐の中で、ICレコーダーがまたざらついた音を立てる。


『たすけて』


 その声が、やけに近く聞こえた。

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