第29話 トリック・オア・トリート
少女は、首を傾げたままだった。
否定ではない。
肯定でもない。
紗希には、それが返事に見えなかった。
問いかけを理解していないのか。あるいは、理解していても答えを持っていないのか。そのどちらかまでは、まだ分からない。ただ、ひとつだけ分かることがある。
この子は、自分で自分を説明できない。
名前を呼ばれれば反応する。視線を向けられればこちらを見る。声をかけられれば、何かを返そうとする。
けれど、それは人間の反応というより、壊れた機械の再生に近かった。
ボタンを押されれば鳴る。
決められた言葉を拾えば、決められた音を返す。
そこに、本人の意志がどのくらい残っているのかは分からない。
「……分からないんですね」
紗希がそう言うと、少女の口元がかすかに動いた。
「ひな」
声がした。
幼い少女の声だった。
けれど、次の瞬間には別の声が重なる。
「いい子」
今度は、少し年上の女生徒の声。
「おとうさん」
その言葉だけ、妙に古い録音のようにざらついていた。
紗希は黙って聞いた。
少女の唇が動いているように見える。だが、そこから本当に声が出ているのかは怪しい。喉が震えている気配が薄い。口の形と音の出方が、ほんの少しずれている。
喋っているのではない。
再生している。
そう感じた。
声を、自分の内側から出しているのではない。どこかに保存されている音を、必要な場所へ繋ぎ合わせて鳴らしている。
壁の奥で、かすかなざわめきが起きた。
『こわい』
『いい子にするから』
『見ないで』
『声、返して』
額縁の群れが、ひなの言葉に反応したように揺れる。
実際に揺れたわけではない。だが、音だけが波のように遅れて広がった。誰かの息。誰かの泣き声。誰かが最後に吐いた、意味になりきらない音。
紗希は、自分の喉に手を当てた。
声。
ここでは、顔よりも先に声が取られる。
その感覚が、妙にはっきりしていた。
「なるほど」
小さく呟く。
その途端、自分の声が、少し遅れて壁の奥から返ってきた。
『なるほど』
同じ声。
自分の声。
だが、録音したものを雑に再生したように、語尾だけがかすれていた。
紗希は振り返る。
先ほど見た、自分用の空の額縁。その中に、さっきよりも濃い線が一本増えていた。顔全体ではない。口元だけが、薄く浮かび上がっている。
名札の黒い染みも、少しだけ文字らしくなっている。
声を出すと、進む。
たぶん、そういう仕組みだ。
紗希は口を閉じた。
このまま閉じ込められれば、どうなるのだろう。
飢えるのが先か。
喉が乾くのが先か。
それとも、額縁の中の自分が完成する方が先か。
順番は分からない。
けれど、どれにせよ良い結末ではない。少なくとも、喫茶店へ戻ってコーヒーを淹れる予定とは、ずいぶん違う。
それでも、不思議と叫びたいとは思わなかった。
助けを呼びたいとも、まだ思わない。
ここで声を張れば、それすら保存される。怖い、助けて、出して。そんな言葉を残したところで、額縁が喜ぶだけだ。
それは、少し嫌だった。
死ぬことよりも、自分の声が自分以外のものとして並べられることの方が、ずっと不快だった。
少女が、一歩近づく。
紗希は動かない。
少女は紗希の目を見ていなかった。
見ているのは、口元。
唇の形。喉の動き。息の漏れ方。
まるで、そこだけが欲しいと言うように。
「声」
少女が言った。
今度は、美和の声に少し似ていた。
「きれい」
別の声。
「ちょうだい」
さらに別の声。
少女は手を伸ばした。白い指先が、紗希の唇に触れそうな距離で止まる。
紗希は、その指を見た。
細い。
冷たそうで、頼りない。
なのに、ここではその指一本が、誰かの口を奪うための道具になる。
壊れた子供、というよりは、子供の形をした装置。
志藤が名前を与え、声を食べさせ、娘の役を押しつけた再生機。
たぶん、この子自身は何も分かっていない。
欲しがっているのは、この子ではない。
この子に欲しがらせている仕組みだ。
紗希はゆっくりと息を吸った。
頭は痛い。
指先には自分の血が乾きかけている。
額縁の中では、自分の口元が少しずつ形を持ち始めている。
だからこそ、ひとつだけは決めた。
これは、自分の声だ。
志藤にも。
この子にも。
壁に並ぶ額縁にも。
渡す理由はない。
紗希は、少女の指先を見つめたまま、べっと舌を出した。
「……あは」
笑い声は、短かった。
明るい声ではなかった。
瞳には光がない。口元だけが笑っている。感情が追いついていないのに、先に表情だけが作られたような顔だった。
「あ〜げない」
少女が、また首を傾げる。
紗希は制服の内側へ手を入れた。
指先が、小さな硬い感触を掴む。
折り畳まれた護身用ナイフ。
レンから渡されたそれを、ゆっくり取り出す。
白い展示空間の中で、刃が小さく光った。




