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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第28話 空の額縁

 最初に戻ってきたのは、痛みだった。


 後頭部の奥で、重い鐘が鳴っているような痛みがある。少し動くだけで、その響きが頭蓋の内側を撫で、胃の奥まで鈍く揺らした。


 紗希は、ゆっくりと目を開けた。


 天井が見えた。


 図書室の天井ではない。


 蛍光灯も、古い空調の通気口も、茶色く変色した天井板もない。そこにあるのは、白い平面だった。白すぎて距離が分からない。天井なのか、壁なのか、それとも巨大な紙の裏側なのか、すぐには判別できなかった。


「……ここ」


 声を出したつもりだった。


 けれど、自分の声は思ったより小さく、床に落ちる前に空気へ吸われた。


 紗希は体を起こす。


 制服の背中が冷たい。床は石のように硬いのに、触れるとわずかに紙のような乾いた感触がある。手をついた指先に、赤がついていた。


 血。


 自分のものだろう。


 後頭部に触れようとして、途中でやめた。確認したところで、すぐに治るわけではない。痛みの場所も、出血の量も、今は分かっている範囲で十分だった。


 代わりに、制服の内側へ指を滑らせる。


 硬い感触があった。


 小さな護身用ナイフ。


 レンから渡されたものだ。折り畳まれたそれは、制服の内ポケットに収まったままになっている。


 紗希は少しだけ息を吐いた。


 まだ、全部を奪われたわけではない。


 そう思ってから、顔を上げる。


 そこは、美術館のような場所だった。


 白い壁が左右に続いている。天井は高い。足音は響かない。どこまでも静かで、整っていて、見られるためだけに作られた空間のようだった。


 けれど、清潔ではない。


 白い壁の奥で、何かが湿っている。紙の裏側に染み込んだ水分のようなものが、うっすらと呼吸している。時折、遠くから、ざり、と録音に失敗したようなノイズが聞こえた。


 その壁に、肖像画が並んでいる。


 一枚。


 また一枚。


 等間隔に飾られた額縁の中に、人の顔が収められていた。


 紗希は立ち上がろうとして、足元がふらついた。棚に叩きつけられた時の衝撃が、まだ体の芯に残っている。それでも壁に手をつき、ゆっくり歩く。


 最初の肖像は、知らない女生徒だった。


 制服姿。肩のあたりで切りそろえられた髪。緊張したような口元。絵というより、写真に近い。生きていた時の表情を、そのまま額の中へ押し込めたような精密さがある。


 ただし、目元だけが黒く塗り潰されていた。


 絵具で塗ったような黒ではない。


 穴のような黒。


 そこにあるはずの視線だけが、乱暴に剥がされている。


 隣の肖像も同じだった。


 その隣も。


 名前を知らない生徒。見覚えのない顔。けれど、口元だけは妙に生々しい。唇の形、開きかけた歯、息を吸う直前の喉の緊張。そういうものだけが、やけに丁寧に残されている。


 そして、どこかから声がした。


『……やめて』


 紗希は足を止める。


 声は、肖像画のどれかから漏れた。


 口は動いていない。けれど、額縁の奥から、録音された息のように音が滲み出している。


『こわい』


『いや』


『見ないで』


 知らない声が、いくつも重なっては消える。


 紗希は眉を寄せた。


 ここにあるのは、顔ではない。


 顔の形をしているが、保存されている中心はそこではない。目元は塗り潰されている。視線は奪われている。けれど口だけは残されている。声だけは、息だけは、額縁の奥でまだ鳴っている。


「……声と、口」


 紗希は呟く。


 ここは、見られるための場所ではない。


 残すための場所だ。


 誰かが欲しがった声を、欲しがった表情を、欲しがった息を、顔という形に整えて並べている。


 それに気づいた瞬間、背筋が冷えた。


 壁の一角に、空の額縁があった。


 他の肖像と同じ大きさ。けれど中身はない。白い面の中央に、まだ輪郭だけの影が滲んでいる。


 紗希は近づいた。


 額縁の下に、小さな名札がある。


 文字はまだ完全ではなかった。黒い染みが、ゆっくりと形を作ろうとしている。


 灯。


 紗。


 希。


 そこまで読めた瞬間、紗希は唇を結んだ。


 額縁の中の白い面に、うっすらと自分の輪郭が浮かんでいる。髪。制服。少し傾いた首。まだはっきりとはしていない。完成していない。だから、自分は動けている。


 保存されかけている。


 その言葉が、頭の中に静かに落ちた。


 怖い、と思うより先に、納得が来た。


 志藤は、外へ出せないと言った。


 ここにいればいい、と言った。


 つまり、これは閉じ込める場所ではない。


 飾る場所だ。


「……最悪ですね」


 自分でも驚くほど、声は平坦だった。


 だが、指先は震えていた。頭痛もある。膝にも力が入りきっていない。平静なのではない。処理できる言葉を先に並べているだけだ。


 紗希は空の額縁から目を離し、展示空間の奥へ向かった。


 そこに、一枚だけ、明らかに扱いの違う肖像画があった。


 中央。


 あるいは最奥。


 美術館の展示室で、最も大切な絵を置くための場所。


 大きな額縁だった。古びた金色の縁が、白い壁から浮いて見える。周囲の肖像よりも一回りも二回りも大きい。まるで祭壇だ。


 名札には、一言だけ。


 ひな。


 描かれているのは、美しい少女だった。


 整った髪。白い肌。どこか作り物めいた、静かな顔。目は見える。黒く塗り潰されてはいない。むしろ、その目だけは他の肖像よりも澄んでいた。


 ただし、口だけが真っ黒に塗り潰されている。


 他の肖像とは逆だった。


 他の絵は、目を奪われ、口を残されていた。


 この絵だけは、目を残され、口を消されている。


 紗希は、額縁の前で足を止めた。


 この肖像だけ、匂いが違う。


 絵具でも、古い木でも、紙でもない。もっと白く、乾いていて、鼻の奥に薄く刺さる匂い。


 消毒液。


 そう思った瞬間、口元の黒塗りが、ほんの一瞬だけ別の形に見えた。


 酸素マスクの輪郭。


 透明な管。


 白いシーツ。


 けれど、まばたきをすると、それはただの黒い塗り潰しに戻っていた。


 紗希は目を細める。


 今のは、見間違いか。


 それとも、この絵の下に何かがあるのか。


 考えようとした時だった。


 すぐ近くに、気配が生まれた。


 音はしなかった。


 足音も、衣擦れもない。ただ、白い展示空間の温度が、ほんの少しだけ変わった。


 紗希は振り向く。


 少女が立っていた。


 中央の肖像画と同じ顔をした少女。


 そして、以前、紗希を襲った怪異と同じ姿をしたもの。


 ただ、その時とは違って、今の少女は襲ってこない。白い肌をしたまま、静かに立っている。人間のように見える。けれど、輪郭の内側がどこか薄い。紙の上に描かれたものが、そのまま立ち上がったような不安定さがある。


 口元は、ぼんやりしていた。


 閉じているのか、塗り潰されているのか、そこだけが上手く認識できない。


 紗希は、喉の奥に残った痛みを飲み込んだ。


 怖い。


 それは間違いない。


 けれど、それ以上に、目の前のものが何なのかを知りたかった。


「……結局」


 紗希は、中央の肖像画と少女を見比べる。


「あなたが、“ひな”なんですか?」


 少女は答えなかった。


 否定もしない。


 肯定もしない。


 ただ、ほんの少しだけ、首を傾げた。

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