第27話 仮面の名前は“被害者”
職員室の扉を開ける直前、志藤は一度だけ足を止めた。
呼吸を整える。
乱れていてはいけない。いや、乱れていてもいい。恐怖しているように見えればいい。問題は、その乱れが“罪を犯した人間のもの”に見えないことだ。
片目の奥は、まだ痛んでいる。
耳の奥には、ざらざらとした録音ノイズのようなものが残っている。
けれど、顔は作れる。
志藤は指で目元を押さえ、わざと少し肩を落とした。
(作るも何もない。……実際、災難な目にあってるのは事実じゃないか)
生徒と学校を守ろうとしたのに、危険な部外者に絡まれた大人の顔。
「僕は、いや私は悪くない。悪いのはあっちだ」
それを貼りつけてから、扉を開けた。
「すみません、誰か」
職員室には、まだ数人の教師が残っていた。
窓際の席で採点をしている者。コピー機の前で紙を揃えている者。電話を肩に挟んだまま書類へ印を押している者。放課後の終わり際らしい、少し疲れた空気が漂っている。
その空気が、志藤の声でわずかに揺れた。
「志藤先生?」
近くの席にいた教師が顔を上げる。
志藤は扉のそばに立ったまま、胸を押さえた。実際に息は切れていた。だから演技は難しくない。恐怖もある。吐き気もある。必要なのは、それを正しい形へ並べ替えることだけだった。
「図書室の近くで、不審な男に絡まれました」
職員室の中が、少し静かになる。
「不審な男?」
「以前、この学校にいた生徒です。中退した……常盤恭介」
その名前に、何人かが反応した。
完全に忘れられている名前ではなかったらしい。志藤はその反応を見逃さなかった。視線が集まり、空気が固くなる。その一瞬で、自分の選んだ言葉が正しい位置へ刺さったことを理解する。
「常盤って、あの?」
「まだ校内にいるんですか」
「ええ。かなり興奮しているようで、図書室の職員にも詰め寄っていました。私を探している、と」
志藤は声を震わせた。
震えは本物だった。
だが、理由は言わない。
紗希のことも、血のことも、あの保存された空間のことも言わない。言う必要がない。事実の一部だけを取り出せば、それだけで十分に形になる。
「血のついた布のようなものも持っていました。閉館後の校内をうろついている。正直、普通の状態には見えません」
「警備員は?」
「図書室の司書さんは?」
「確認します。誰か内線を」
教師たちが動き出す。
コピー機の前にいた教師が、書類を置いて受話器を取る。別の教師が職員室の外へ出ようとする。電話をしていた教師は相手に断りを入れ、慌ただしく別の番号を押し始めた。
志藤は、それを見ながら机に手をついた。
「申し訳ありません。少し、動揺していて」
「座ってください、志藤先生。顔色が悪いですよ」
「いえ、大丈夫です。ですが、あの男は危険です。生徒がまだ残っているかもしれない。早く警察を呼んだ方がいい」
その言葉に、誰も強く反論しなかった。
当然だ。
ここは学校だ。
学校には手順がある。職員がいる。規則がある。警察へ通報する理由がある。そして、自分はその内側にいる。
常盤恭介は違う。
あの男は、もうこの場所の人間ではない。生徒でもない。教師でもない。保護者でもない。ただの部外者だ。学校の中で大声を出し、職員へ顔を近づけ、血の匂いのする布を持って歩く不良。
電話口の教師が、低い声で校名を告げた。
「はい、警察ですか。こちら、橙原町立――」
志藤はそれを横目で見た。
口元が緩みそうになる。
いけない。
ここではまだ、怯えた顔をしていなければならない。
それでも、胸の奥には熱いものが広がっていた。恐怖が消えたわけではない。片目の痛みも、耳の奥のノイズも、吐き気もまだある。
けれど、その全部の上に、薄く甘い膜がかかっていく。
ざまあみろ。
中退した不良が。
社会の外側に落ちた人間が、教師である自分に勝てるはずがない。
志藤は懐のポケットへ、そっと手を入れた。
指先に、硬い感触が触れる。
ICレコーダー。
小さな機械の表面を、親指で撫でる。録音ボタンのわずかな凹凸。何度も何度も押してきた感触。声を留め、息を留め、怯えを留めるための道具。
それは証拠であり、記録であり、宝箱でもあった。
職員室の中は慌ただしくなっている。誰かが廊下へ出ていく。誰かが警察への説明を続けている。誰かが「生徒を帰らせた方が」と言っている。
その騒ぎの中で、志藤だけが少し俯いた。
「僕はね、安全に帰りたいんだ」
声は、誰に向けたものでもなかった。
職員室のざわめきに紛れるほど小さい。けれど、志藤自身の耳にははっきり届いた。
指先が、ICレコーダーの角を撫でる。
「娘がくれた、“ギフト”を堪能したいのでね」
片目の奥で、また黒い染みが揺れた。
それは一瞬だけ、目元を塗り潰された肖像の形を取り、すぐに消えた。




