第26話 あなたの後ろに
志藤は、図書室の奥から逃げ出していた。
正面の入口ではない。司書が戻ってくる気配を聞いた瞬間、本棚の陰を抜け、資料室へ続く扉を押し開けた。そこから細い通路へ出て、壁に手をつきながら廊下へ滑り込む。
図書室の入口は、廊下の右手の先にある。
職員室は、逆方向。
逃げるなら、そちらへ行けばいい。そう分かっていたのに、志藤はすぐには動けなかった。
曲がり角の陰に背中を押しつけ、荒い息を殺す。
片目の奥が痛い。
眼球の裏側を、細い針で何度も引っかかれているようだった。視界の端に、黒い染みがちらつく。染みは一瞬だけ、人の顔のような輪郭を取って、すぐに紙の擦れる音と一緒に崩れた。
耳の奥では、ノイズが鳴っている。
録音に失敗した時の、ざらざらした音。
違う。
疲れているだけだ。
あれだけのことがあったのだから、息が乱れるのも、視界がおかしくなるのも当然だ。志藤はそう自分に言い聞かせた。
あの少女は、死んでいない。
壊れてもいない。
ただ、外へ出してはいけなかっただけだ。
あのままにしておけば、喋る。見たものを、書く。勝手に意味を与える。雛を、ひなを、自分の言葉で汚してしまう。
だから、保管した。
そうだ。
保管だ。
保存と言ってもいい。あの子は、あそこにいる。たぶん。いや、いるはずだ。消えたのではない。消したのでもない。
正しい場所に移しただけだ。
志藤は喉を鳴らした。吐き気が込み上げたが、飲み込んだ。唾が妙に苦い。
その時、図書室の入口側から声が聞こえた。
「なぁ、アンタ。志藤ってやつを知らねぇか」
志藤の肩が、びくりと跳ねる。
常盤恭介。
廊下の曲がり角から、志藤はそっと顔を出した。
図書室の入口前。閉館作業に戻ってきた司書の前に、あの男が立っている。
近い。異様に近い距離で相手の顔を覗き込み、何かを問い詰めている。
その後ろには、相馬レンがいた。
レンは片手を上げ、どうにか場をなだめようとしているように見える。だが、常盤の方はまるで聞いていない。
志藤は舌打ちしそうになり、慌てて口を閉じた。
どうして来る。
どうして、あの場所に来られる。
あの少女はもういない。図書室から消えた。痕跡だって、そう多くはないはずだ。
なのに、あの男は迷わず現れた。
偶然か。
それとも、相馬が呼んだのか。
いや、違う。相馬の顔にも驚きがあった。なら、あの男は自分で気づいたのか。
何に。何を。
片目の奥がまた痛んだ。
視界の端で、黒い目隠しをされた肖像が一瞬だけ滲む。志藤はまばたきをした。消える。
「志藤だ。教師だろ。ここに来てることは聞いた」
恭介の声が、廊下に響いた。
司書は怯えた顔で首を振っている。レンが横から何か言い、恭介の肩を掴みかける。だが恭介は一歩ずれ、今度は廊下を通りかかった別の職員へ視線を向けた。
「アンタは?」
職員が足を止める。
「志藤ってやつを見なかったか」
質問相手が変わる。
一人目。
二人目。
そのたびに、恭介は廊下を少しずつこちらへ進んでくる。
机や椅子のない廊下でさえ、その歩き方はどこか危うかった。壁に肩をかすめ、足元の掲示物の台にぶつかりかける。だが止まらない。目が悪いのか、見えていないのか。そんなことは分からない。
分からないが、近づいている。
志藤がいる曲がり角へ。
少しずつ。
確実に。
志藤の背中に汗が滲んだ。
捕まる。
そう思った瞬間、怒りが恐怖を押し返した。
何を怯えている。
相手は、ただのクズだ。
社会のゴミ。
足の震えを止める。呼吸を整える。片目の痛みは消えない。それでも、表情だけは作れる。
教師の顔。
被害者の顔。
志藤は踵を返した。
職員室は、廊下の先にある。
最初の数歩は速すぎた。逃げているように見える。そう気づいて、歩幅を少しだけ整える。それでも足は止まらなかった。
背後で、恭介の声がまた響く。
「志藤って教師を探してる。知ってるなら答えろ」
志藤は振り返らない。
胸の内で、薄く笑った。
探せばいい。
その前に、こちらが先に手を打つ。




