表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
29/75

第26話 あなたの後ろに

 志藤は、図書室の奥から逃げ出していた。


 正面の入口ではない。司書が戻ってくる気配を聞いた瞬間、本棚の陰を抜け、資料室へ続く扉を押し開けた。そこから細い通路へ出て、壁に手をつきながら廊下へ滑り込む。


 図書室の入口は、廊下の右手の先にある。


 職員室は、逆方向。


 逃げるなら、そちらへ行けばいい。そう分かっていたのに、志藤はすぐには動けなかった。


 曲がり角の陰に背中を押しつけ、荒い息を殺す。


 片目の奥が痛い。


 眼球の裏側を、細い針で何度も引っかかれているようだった。視界の端に、黒い染みがちらつく。染みは一瞬だけ、人の顔のような輪郭を取って、すぐに紙の擦れる音と一緒に崩れた。


 耳の奥では、ノイズが鳴っている。

 録音に失敗した時の、ざらざらした音。


 違う。


 疲れているだけだ。


 あれだけのことがあったのだから、息が乱れるのも、視界がおかしくなるのも当然だ。志藤はそう自分に言い聞かせた。


 あの少女は、死んでいない。

 壊れてもいない。


 ただ、外へ出してはいけなかっただけだ。

 あのままにしておけば、喋る。見たものを、書く。勝手に意味を与える。雛を、ひなを、自分の言葉で汚してしまう。


 だから、保管した。


 そうだ。

 保管だ。


 保存と言ってもいい。あの子は、あそこにいる。たぶん。いや、いるはずだ。消えたのではない。消したのでもない。


 正しい場所に移しただけだ。


 志藤は喉を鳴らした。吐き気が込み上げたが、飲み込んだ。唾が妙に苦い。


 その時、図書室の入口側から声が聞こえた。


「なぁ、アンタ。志藤ってやつを知らねぇか」


 志藤の肩が、びくりと跳ねる。


 常盤恭介。


 廊下の曲がり角から、志藤はそっと顔を出した。


 図書室の入口前。閉館作業に戻ってきた司書の前に、あの男が立っている。

 近い。異様に近い距離で相手の顔を覗き込み、何かを問い詰めている。


 その後ろには、相馬レンがいた。


 レンは片手を上げ、どうにか場をなだめようとしているように見える。だが、常盤の方はまるで聞いていない。


 志藤は舌打ちしそうになり、慌てて口を閉じた。


 どうして来る。

 どうして、あの場所に来られる。


 あの少女はもういない。図書室から消えた。痕跡だって、そう多くはないはずだ。

 なのに、あの男は迷わず現れた。


 偶然か。


 それとも、相馬が呼んだのか。


 いや、違う。相馬の顔にも驚きがあった。なら、あの男は自分で気づいたのか。

 何に。何を。


 片目の奥がまた痛んだ。


 視界の端で、黒い目隠しをされた肖像が一瞬だけ滲む。志藤はまばたきをした。消える。


「志藤だ。教師だろ。ここに来てることは聞いた」


 恭介の声が、廊下に響いた。


 司書は怯えた顔で首を振っている。レンが横から何か言い、恭介の肩を掴みかける。だが恭介は一歩ずれ、今度は廊下を通りかかった別の職員へ視線を向けた。


「アンタは?」


 職員が足を止める。


「志藤ってやつを見なかったか」


 質問相手が変わる。


 一人目。


 二人目。


 そのたびに、恭介は廊下を少しずつこちらへ進んでくる。


 机や椅子のない廊下でさえ、その歩き方はどこか危うかった。壁に肩をかすめ、足元の掲示物の台にぶつかりかける。だが止まらない。目が悪いのか、見えていないのか。そんなことは分からない。


 分からないが、近づいている。


 志藤がいる曲がり角へ。


 少しずつ。


 確実に。


 志藤の背中に汗が滲んだ。


 捕まる。


 そう思った瞬間、怒りが恐怖を押し返した。


 何を怯えている。


 相手は、ただのクズだ。

 社会のゴミ。


 足の震えを止める。呼吸を整える。片目の痛みは消えない。それでも、表情だけは作れる。


 教師の顔。

 被害者の顔。


 志藤は踵を返した。

 職員室は、廊下の先にある。


 最初の数歩は速すぎた。逃げているように見える。そう気づいて、歩幅を少しだけ整える。それでも足は止まらなかった。


 背後で、恭介の声がまた響く。


「志藤って教師を探してる。知ってるなら答えろ」


 志藤は振り返らない。

 胸の内で、薄く笑った。


 探せばいい。


 その前に、こちらが先に手を打つ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ