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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第25話 不審人物、常盤恭介

 背後で、床板がわずかに軋んだ。


 レンは振り返りかけて、止まる。


 足音は聞こえなかった。


 扉が開く音もない。気配が近づいてきた感覚もなかった。ただ、さっきまで何もなかったはずの背後に、いきなり重いものが立っている。


「……紗希は?」


 低い声だった。


 レンが振り向く。


 図書室の入口近くに、恭介が立っていた。


 制服でも作業着でもない、いつもの雑な格好。肩にはくたびれた袋を引っかけている。服のあちこちは、相変わらず妙な粉と汚れが残っていて、血の滲んだエプロンの入った袋だけがやけに不自然に見えた。


 呼んでいない。


 少なくとも、レンはまだ連絡していない。


「……常盤恭介。いつからそこに?」


「今だよ」


 恭介は、こちらを見ているようで、少し焦点が合っていなかった。目だけが薄暗い光を拾い、青白く濁っている。


「紗希の熱が消えた」


 レンの指が、紗希のスマホを握ったまま止まる。


「熱?」


「弱まったとか、だんだん消えかけたとかじゃねぇ」


 恭介は図書室の中へ一歩入った。


 その靴音が、静まり返った室内にやけに大きく響く。


「ついさっきだ。マジで、瞬く間だった」


 彼は眉をひそめる。怒っているのか、困惑しているのか、本人にも判別がついていないような顔だった。


「いきなり、消えた」


「……それで来たのか」


「いつもみてぇに面倒くせぇことしてるだけなら、放っといた」


 恭介は吐き捨てるように言い、乱れた机の方へ視線を向ける。


「けど、今のは違う。こんなのは初めてだ。何があった」


 レンは短く息を吐いた。


 説明すべきことは多い。けれど、全部を並べている時間はない。


「志藤って教師が絡んでる可能性が高い」


 その名前を出した瞬間、恭介のまぶたがわずかに動いた。


「さっき調べた。志藤には、雛という名前の娘がいた可能性がある。紗希ちゃんはそこに気づいたんだと思う。“ひな”は本人じゃない。そう呼ばれているだけの何かだって」


「……志藤、志藤か」


 恭介は口の中で名前を転がすように呟いた。


「俺ももう、学校とは関係ねぇからよ。教師の名前も顔も分かりゃしねえがよ」


 言いながら、恭介は歩き出した。


 そして、すぐに机の角へ膝をぶつけた。


 がん、と鈍い音が図書室に響く。


 レンは思わず顔をしかめる。静かな本棚の間で、その音は妙に乱暴で、場違いで、だからこそ不気味だった。


 恭介は膝を押さえもしない。少しだけ舌打ちして、今度は椅子の背に肩をぶつける。椅子が床を擦り、また嫌な音を立てた。


「……本当に見えてないんだな」


「改めて言うが、俺は目が悪い」


 恭介は、まるで天気の話でもするように言った。


「ただの近眼じゃねぇぞ。腹が減ると、どんどん視界がヤバくなる」


 彼はズボンの裾を指でつまんだ。布が裂けている。どこかに引っかけたのか、ほつれた糸が垂れていた。手の甲には絆創膏が貼られている。雑に貼ったせいで端が浮き、そこにも古い血が滲んでいた。


「線だよ。黒い線が、一つ、また一つと、世界を塗りつぶす。おかげでこのザマだ」


 恭介は本棚の前でしゃがみ込んだ。


 落ちた本。


 ずれた背表紙。


 棚の角についた赤。


 彼はそれらを、目で追っているようには見えなかった。顔を近づけ、空気を嗅ぎ、床に残ったわずかな痕跡を拾っている。人間の動作というより、獣が獲物の通った跡を探しているのに近かった。


 レンが一歩近づく。


「現場を荒らすな、と言いたいところだけど」


「警察ごっこしてる暇はねぇだろ」


「まあね。そこは同意するよ」


 恭介は肩にかけていた袋を乱暴に開けた。中から取り出したのは、見覚えのあるエプロンだった。さっきまで別の血と汚れを含んでいたそれを、彼はためらいなく床へ押し当てる。


 棚の近くについた小さな血を、布に移す。


 レンは眉をひそめたが、止めなかった。


 恭介はエプロンを鼻先へ近づける。血の匂いを確かめるように、ゆっくり吸い込んだ。


「血の匂いは分かる」


 低く、恭介が言う。


「ニオイ頼りにしてるから、洗濯も上手くはねぇけどよ」


「それは今、反省するところじゃないと思うけどね」


「紗希の血だ。間違いねぇ」


 レンの顔から、皮肉が消えた。


 恭介はエプロンを握ったまま、床を見ていた。いや、見ているのではない。嗅いでいる。探している。線に潰れた視界の代わりに、血と熱の残りを拾おうとしている。


「問題は、ここらのどこにも、他に紗希の血の気配がしねぇことだ」


 恭介はゆっくり立ち上がった。


「血はここにある。ぶつかった痕もある。けど、続きがねぇ」


「……足跡みたいなものが途切れている、ということ?」


「そんな上等なもんじゃねぇ」


 恭介は図書室を見渡した。焦点の合わない目が、本棚と机と窓の影をなぞる。


「ヤツの熱も感じねぇ。消えた。不自然に、唐突に、一人の人間が消えたんだ」


 その言葉が、図書室の静けさに沈んだ。


 レンは、机の上に置いた紗希のスマホを見る。画面はまだ点いている。自分が送ったメッセージだけが、持ち主のいない場所で光っていた。


「なら、やることは一つだけだろう」


 恭介が言った。


 その時、廊下の向こうから台車の車輪が軋む音がした。


 ぎい、と小さく。


 紙の束か、本の山を載せたような重い音が、少しずつ近づいてくる。


「あの」


 入口の方から、女性の声がした。


 司書だった。閉館作業に戻ってきたのだろう。カウンターの向こうではなく、図書室の入口側から顔を覗かせている。こちらの様子に気づいたのか、声は少し警戒していた。


「もう閉館ですよ。残っている方は――」


「ああ、すみません」


 レンは即座に表情を作った。


 いつもの軽さを薄く被せる。血痕も、乱れた本棚も、紗希のスマホも、見せるわけにはいかない。


「落とし物を探していました。すぐ出ます」


「そう、ですか。でも、そちらは――」


 司書の視線が、恭介へ向いた。


 無理もない。


 血の匂いを染み込ませたエプロンを握り、机にぶつかりながら歩き、目の焦点も合わない男が、閉館間際の図書室にいる。学校職員から見れば、不審者以外の何物でもない。


 レンが一歩前に出ようとした。


 だが、それより早く、恭介が動いた。


 司書の前まで、距離を詰める。


 近い。


 あまりにも近い。


 鼻先が触れそうなほど顔を寄せ、恭介は相手の目を覗き込んだ。視界が利かないから近づいているだけなのだろうが、そんな事情を知らない人間からすれば、ほとんど脅しだった。


「なぁ、アンタ」


 司書の肩が跳ねる。


「へ、閉館ですので……」


「志藤ってやつを知らねぇか」


 レンが額を押さえた。


「恭介、言い方」


「教師だろ。入館記録くらい見れるよな」


「にゅ、入館記録……?」


 司書の顔が引きつる。


 恭介は笑った。


 笑っただけだった。


 だが、図書室の夕暮れの中で見るその笑みは、どう見ても善人のものではなかった。目が見えていないせいで焦点は少しずれている。血の匂いの染みたエプロンを片手に持ったまま、相手の表情を探るように顔を近づけている。


 レンは止めるべきだと思った。


 思ったが、今だけは少し遅れた。


「悪いが」


 恭介の声が、低く落ちる。


「俺は今、あんまり気が長くねぇぞ」


 司書は、声も出せずに固まった。


 まるで蛇が、獲物に巻きつき睨みつけ、動けなくしているような光景にしかみえない。


 静まり返った図書室で、台車の車輪だけが、ぎい、と小さく鳴った。

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